第9話 禁書に記された過去
大量の書物を図書寮から持ち出した久我紫苑たち3人は誰もいないのにも関わらず、なぜか小走りに兵部省へ向かった。
深夜なのだから誰に遭遇するわけもなく、したがって誰かに咎められるはずもないのだがしてはいけないことをしているという自覚が不自然な行動をさせているのだった。
何しろ持出厳禁の上に閲覧制限のある禁書を大量に図書寮から持ち出しているのである。
長年官吏として働いてきた彼らが平気でいれられるはずはなかった。
図書寮に最も近い兵部省に入ると彼らは紫苑の案内で中に入った。
奥に進むと何も置かれていないまっさらな文机があり、これが紫苑の仕事場だと言う。
「ずいぶんと片付いているな。本当にここが兵部少輔の文机なのか? これではまるで——」
硯すら置かれていない文机を見た鷹司杏弥が訝しんで言うのに被せるように今出川楓は、
「日頃ほとんど使っていないのだろう」
とばっさりと切って捨てた。
「楓殿……もう少し言い方はねぇのかよ。言うことは李桜とそっくりだな、まったく。まあ、事実だけどな」
最も多忙と言われる中務省の敏腕官吏と一応は優秀と言われ仕事には熱心に取り組む刑部少輔は互いの顔を見合って、言葉を発することなく盛大なため息を零した。
「俺は机仕事が一番嫌いなんだよっ」
と言う兵部少輔の言い訳は何の効果もなかった。
紫苑が近くの行燈に明かりを灯すと幾分、室内が明るくなった。
文机に行燈を寄せると文字が見える程度には明かりがとれる。
3人は互いに持ち出した禁書を文机にどんと置くと、何も言わずに一番上のものを手に取って頁をめくり始めた。
黙々と紙をめくる音だけが静寂の中に響く。
杏弥は3冊目を手にしたところでその手を止めた。
表紙には『白蓉記』と書かれている。
これを読んでさえいなければ、こんなことにはならなかったのかもしれない。
土御門皐英の白檀に宛てた文を見つけたことからすべては始まった。
鷹司家を摂家の上位に置くために、風雅の君の後ろ盾を得ようなどと考えなければ——そう思っても今となっては後の祭りである。
目の前の2人の官吏だけでなく、風雅の君本人からも罪を追求すると脅されている。
——ないよりはあった方がよいですが、行き過ぎた野心は人の身を食い殺すことがございますのでお気をつけなさいませ。
誤って2冊の禁書を持ち帰った夜に桂田に言われたことを思い出す。
まさに言われたとおりになりつつある。
だが、野心を持つことの何が悪いのだろうか。
公家社会の中で少しでもいい官位に就きたいと思うのはみな同じではないか。
この世界ではそれはすべての者が望んで手に入るものではない。
たとえどんなに優秀でもその官位に見合うだけの家格の出でなければ、望む職にもつけない世界なのだ。
鷹司家はその最高位の摂家である。
誰もが羨む職に就く資格を持っているのにそれを望まないことこそ愚かの極みではないか。
そう思っている杏弥にとって、真夜中に薄暗い行燈の明かりで禁書を調べる手伝いをしなければならないことは不満でしかなかった。
杏弥が手を止めているのに気がついた楓は、顔を上げずに訊ねた。
目と手は禁書に集中している。
「刑部少輔、いかがされた? 手が止まっているようだが」
「……いや、何でもない。しかしお前たち、これだけの禁書を読み漁って一体何を調べようと言うのだ?」
『白蓉記』を無造作に放り投げ、杏弥は文机に頬杖をついた。
自分が犯した罪の重さを全く理解していない杏弥の態度に、紫苑は呆れかえった。
「お前なぁ……真面目にやれよ。先刻言っただろう? お前の罪を軽くできるかどうかはこれからのお前の仕事ぶりにかかってるんだって」
「真面目にやっているではないかっ」
「どこがだよ。その禁書、読まずに閉じて放り投げただろうが」
放った『白蓉記』を拾い上げる紫苑に杏弥は反論した。
「それは読んだことがあるから開かなかっただけだ。中身はわかっているのだからそんなものをもう1度読んだところで時間と労力の無駄ではないか」
『白蓉記』を指さしながらさらに続ける。
「いいか、これは風雅の君の母であられた芙蓉様付の女中が残した日記だ。宮中にいた幼少期の風雅の君と芙蓉様のことについて書かれているだけで、何の有益な情報もない」
手元の『白蓉記』をぱらぱらとめくりながら紫苑は言った。
「無益だとわかっていながら読んだのか?」
杏弥や極上の不満顔で答えた。
「…………お前には関係ない」
「関係あるさ。刑部少輔殿がこんなとんでもないことを企てなけれりゃ、俺たちはこんな夜中に禁書を眺める必要なんてなかったんだからな」
杏弥は文机の前でだらしなく両足を投げ出した。
付き合っていられない、そんな気持ちを態度に現したつもりだった。
「禁書に何があるというのだ。すべては過去の記録ではないか。そんなものを調べたところで現実が変わるわけでもなし——」
後ろに手をついてのけぞりながら横柄に言う杏弥に対し、楓は手元の禁書から目を離すことなく言った。
「現実に影響を及ぼした過去の記録を調べたいのだ。我々は多くのことを知らない。なぜ備中国の者が月華殿の妻を攫ったのか、備中国に何があるのか、本来、先帝が身罷られた後に玉座に就くはずだった風雅の君はなぜ備中国に引き取られたのか、そもそも風雅の君がなぜ宮中を追われることになったのか……我々にはそれらを知るすべが他にない。だが起こったことには必ず理由がある。まともな記録として残せなかったからこそ、禁書となったものの中に謎を解く鍵があるはずなのだ」
語りながらも次々と新しい禁書に目を通す楓に杏弥は呆れていた。
仮に禁書の中に謎を解く重要な何かを発見できたとしても、それで事態が変わるわけではない。
杏弥は無駄な努力だと思っていた。
一方、『白蓉記』に目を通していた紫苑は後半のあたりの頁で手を止めた。
「これは……」
「ん? 紫苑殿、何か見つけたのか」
紫苑が見開いた頁を楓に見せると彼も眉根を寄せた。
紫苑はそれを杏弥の前に差し出す。
「これ、ちゃんと読んだのか?」
「何だと?」
「ここに先帝が園遊会で倒れられてどうのって記録があるじゃねぇか」
「ああ、そんな記録もあったな」
杏弥があまりにもやる気のない返事をするので紫苑がとうとう乗り出して杏弥の襟を掴もうとした時、楓が自分の手元にある禁書を紫苑に差し出した。
「紫苑殿、その園遊会というのはこれのことではないだろうか」
楓が開いていた禁書の表には『橄欖園遊録』と書かれている。
中には宮中で行われた園遊会で先帝の友人であった茶人が毒を混ぜた湯を用意し、第1皇子であり茶人の1番弟子であった白椎に茶を点てさせ、それを呑んだ帝が倒れるまでの一連の事件が記されていた。
「白檀殿って、本名は白椎っていうのか」
「紫苑殿……気になるのはそこなのか?」
「あ、いや悪い、楓殿。これって風雅の君と呼ばれてた時代の白檀殿が宮中を追われた理由なのかな?」
「ああ、間違いないだろう。弑逆を企てた師匠の手によるものとはいえ、弑逆をほう助したと思われてもおかしくない」
真剣に顔を突き合わせて『橄欖園遊録』に見入るふたりに楓はぽつりと言った。
「それは風早橄欖とかいう茶人のことか? 確かその事件のせいで処刑された上に風早家は取り潰しになったらしいな」
「お前、何で知っているんだよ?」
「鷹司家の家臣がそんなことを言っていたのを聞いただけだ。あまりにも先帝に可愛がられていた茶人でずいぶん周りの公家からは羨望されていたらしいぞ」
「へぇ。何でまたその可愛がられてたっていう茶人が主人に牙を向いたんだろうな」
「そんなことは知らぬっ」
「本人の意思じゃなかったりしてな」
「……は?」
「だって考えてみろよ。帝の子——つまり白檀殿だけど、あの人を使って親しい友人関係だった先帝を弑逆しようとしたんだろ? それって俺が月華の子の花織を使って月華を殺そうとするってことだよな……何か自分で言ってて寒気がしてきた。絶対ありえねぇな、それ。でも、脅されてたとか、人質取られたとか何かあったのかもな」
楓がさらに先の頁を高速でめくったが最後には『橄欖園遊録』を静かに閉じて首を振った。
「茶人が処刑されたことは書かれているが、最期まで理由はわからなかったようだ。何も記録されていない」
紫苑と楓は同時に肩を落としたのだった。
手元の『白蓉記』を文机に置き、紫苑も杏弥のように足を伸ばして投げ出した。
だらしない少輔ふたりを前に楓は大きくため息をつく。
「振り出しに戻るって感じだな。そう言えば刑部少輔さんよ、この『白蓉記』ってやつを何で読もうと思ったんだ?」
「……風雅の君のことを知りたかったのだ。左右大臣のどちらかに鷹司家が就くには強力な後ろ盾が必要だと思った。一条家や二条家を出し抜くためにな。あの近衛家が六波羅に征伐された後、事件に関わる証拠品がいくつも刑部省に集められた。刑はすでに執行された後だったが、俺はその中に前の陰陽頭が白檀という人物に宛てた文を見つけたのだ。そこには輪廻の華と風雅の君について書かれてあった。だから白檀という人物に接触して、風雅の君に取り入り大臣に推薦していただこうと考えていた」
「何言ってんだ? 白檀殿と風雅の君は——」
「知っているっ。いや正確に言えば後でわかった、同一人物だと。件の茶人が備中国にいることを突き止めて、わざわざ足を運んだにも関わらず肝心の風雅の君はその茶人だったのだからあの方にはさぞかし滑稽に映ったことだろうよ。だが、そんなことも知らず俺は風雅の君から何の接触もない、とけなげに皇子のことを調べ何とか取り入ろうとしていたわけだ」
身から出た錆だな、などと紫苑は鼻で笑った。
「そういや楓殿。先刻の『橄欖園遊録』に宮中を追われた白檀殿が何で備中国に行くことになったか書いてあったか?」
楓は腕を組みながら大きくかぶりを振った。
「いや、残念ながら書かれていなかった。それは私も気になっている。白檀殿が京で暮らすための住まいを世話したのは私だが、その当時は義兄から頼まれた『風雅の君』という人物が先帝の落とし種だったことを知らなかったゆえ、備中から来るということを何の疑問にも思っていなかったが、考えればいろいろとおかしなことだ」
「確かにな。ちくしょう、謎を解明するどころか謎が深まっちまったな」
「だがいずれにしても先帝の凌霄陛下の時代に何かがあったのは間違いない。まだまだ禁書は残っている。他の禁書に手掛かりがあるかもしれぬな」
楓は意気揚々と次の禁書に取り掛かった。
紫苑はまだ読むべき禁書の山を見てがっくりと肩を落とした。
杏弥もまた、違う意味で終わらない夜にうんざりしたのだった。