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第88話 破壊の足音

 牛車から降りた榛紀しんきを邸内に招き入れた松島は、一刻も早く時華ときはなの元へ行くことで頭がいっぱいだった。

 今のところまだ誤魔化せているが、時華が病に伏せっているというのは嘘であることが明るみになるのは時間の問題である。

 それについて追求されても松島は回答を持っていない。

 何とかして質問を受けることなく彼を時華の元へ連れて行こうと足早に歩き始めたところ、榛紀は急に足を止めたかと思うと辺りをぐるりと眺め出した。

 一体何だと言うのだろう。

 松島も見回したが、いつもの邸内と何も変わらない。

 傾き始めた穏やかな夏の日差しが中庭の池を照らし、銀色に輝く。

 女中たちは自分たちの仕事に集中しているし、まさに穏やかな平穏そのものだった。

 首を傾げた榛紀が言った。

「松島、叔父上は本当に病に伏せっておられるのだろうか」

 松島は迂闊にも一瞬、硬直してしまった。

「そ、それはどういう意味でしょうか……」

「静かすぎると思ってな」

 榛紀が遠くを眺める。

「し、静かすぎますか……?」

「当主が重病だというのに、あまりにもみな平然としている」

 やはり正直に事情を説明するべきだろうか。

 松島が重い口を開こうとした時、彼らの後ろから声が聞こえてきた。

「だ、だから俺はこの門の前で待っているから、お前たちだけで行けばよかろう」

「お前、本当に自分の立場がわかってねぇな。お前をこんなところに置いて行って万が一逃げられたら、俺が月華に殺されるじゃねぇか」

「月華はどんなに怒ってても僕たちに手をあげるようなことはしないよ。そんなことよりあんたたち、もう少し静かにしなよ。人様の家でうるさくして迷惑でしょ」

 見慣れたふたりと見知らぬひとりに松島は思わず顔色を明るくした。

 渡りに船だと思ったのだ。

 これで何とか誤魔化すことができる。

 3人の若者は榛紀と目が合うなり、駆け寄ってきた。

弾正尹だんじょういん様、やっと追いついたぜ」

 そう言ったのは月華つきはなの幼馴染として幼少期から邸に出入りする久我紫苑くがしおんだった。

「紫苑、それに李桜りおう杏弥きょうやまで、お前たちはこんなところで何をしているのだ」

 榛紀が訊ねると、

「それは僕たちの台詞ですよ、弾正尹様」

 と西園寺李桜さいおんじりおうが答えた。

 李桜も紫苑同様、幼い頃から九条邸に出入りしているため、松島にとっては馴染みの顔だった。

 彼らの後ろに控える青年には見覚えがない。

「お前たち、私をつけてきたのか?」

「い、いえ、俺は決してそのようなことは……この命知らずな少輔しょうゆうたちに引っ張られてきただけで」

「杏弥。命知らずとはどういう意味だ。私は鬼か?」

「そ、そのようなことは……」

 杏弥と呼ばれた青年は肩をすくめた。

 杏弥といえば鷹司たかつかさ家の嫡子ではなかったか。

 刑部少輔ぎょうぶしょうゆうとして朝廷に勤めていて、日頃よく噛み付かれると悠蘭ゆうらんがこぼしていたことを思い出した。

「それで、お前たちは私を追ってきたのか」

「偶然、あなたが九条家の牛車に乗ったのを見てしまったので」

「だからとて何も追って来なくとも……」

「だから追ってきたんですよ」

 松島は背中に冷たいものが流れるのを感じた。

 榛紀を連れ出す時には細心の注意を払ったつもりだったが、まさかよりにもよって九条家の兄弟と縁のある官吏たちに見られていたとは。

 下手な言い訳をすればすぐに見破られてしまうのは目に見えている。

 紫苑のことは誤魔化せても李桜を誤魔化すことはできないだろう。

「悠蘭が言っていたのです。最近、弾正尹様をよく邸の中で見かける、と。月華は時華様の客人と説明してたみたいですけど、何度も訪ねるのはちょっと不自然ではないですか」

 李桜はまるで尋問のように榛紀に投げかけた。

 榛紀は李桜をじっと見つめたまま何も答えなかった。

 張り詰めた空気が辺りに漂う。

「ただでさえ、弾正尹という立場のあなたは公平性を保つために誰とも親しくしていなかったはず。長年どこの家かも、名すら明かさなかったというのに月華が朝廷に来た途端、あなたはこれまでと違う動きをするようになった。これはどういうことなのですか」

 3人の若者の視線が一気に榛紀へと注がれた。

 帝であると答えるのか、九条兄弟の従兄弟であると答えるのか。

 松島は固唾を呑んで見守った。

「……まあ、いろいろ疑問に思うこともあろうな。まずは寝殿に向かおうではないか、松島」

「はっ? このまま、でございますか」

 すると榛紀は李桜たちには聞こえないように松島に耳打ちした。

「どうせ叔父上が重い病だというのは嘘なのだろう? お元気なら叔父上の口から説明していただくのがよいと思う。全てのことを見て来られた当事者は多くないからな」

 松島も囁きで返す。

「……嘘だとご存知だったのですか」

「文を受け取った時は本当に一大事だと思っていた。だが九条邸ここへ来てからは、あれは叔父上が私を呼び寄せる口実だったのだと理解した」

「申し訳ございません。主も帝を欺くつもりではなかったと思いますが」

「よい。叔父上にも何か事情がおありなのだろう」

 まさか、命を狙われているからだとは言えない。

 心苦しさを抱えたまま、松島が彼らを導き回廊を歩き始めると、

「そういや月華が戻ってるって聞いたけど見かけないな」

 回廊から見える池の中島に立つ華蘭庵からんあんを眺めながら紫苑が言った。

「誰ぞ、そのようなことを申しておりましたか?」

先刻さっき、門番がそう言ってたよ」

 榛紀を呼びに御所へ行っている間に月華とはすれ違ってしまったらしい。

「さようでございましたか。それは私も存じませんでした。主の使いで邸を出た時にはまだお戻りではなかったものですから」

「そうか、月華が戻ったか! では無事に奥方を取り戻したのだな」

 自分のことのように喜ぶ榛紀を微笑ましく見つめたのも束の間。

 邸内ではこれまで聞いたこともない爆音が門の方から聞こえた。

 その場にいた全員が音のした方を振り返るとそこには門番が倒れ、周りに砕けた木片が転がっていた。

 何が起こったのか、松島にもわからなかった。

「な、何なの!?」

 李桜の呟きは全員が思っていたことだった。

 間もなく第2波とも言える爆音が聞こえた時、松島は咄嗟にそばにいた榛紀に覆い被さった——。



 同じ頃の鷹司たかつかさ邸では杏弥の姉、茜音あかねが大きなため息をついていた。

 目の前には布団に横たわる謎の男女がいる。

 事件が起きたのは今朝のことだった。

 珍しく大きな足音を立てて廊下を歩く桂田から、杏弥が九条家の嫁を拐かそうとしたことを咎められ、今夜は邸に戻れないと文を寄越したというのだ。

 桂田の説明によれば、家のために画策したことが全て裏目に出てしまい、九条家の逆鱗に触れたのではないかという。

 九条月華とは浅からぬ縁がある。

 彼がまだ元服する少し前、父の棕櫚しゅろが九条家の嫡子との縁談を無理に進めようとしたことがあった。

 結局、九条家側から断られたことにより嫁ぐことはなかったが、茜音は内心清々していたのだった。

 それ以来、傷ついた娘を演じることで縁談を免れ、住み慣れた鷹司家の中でぬくぬくと暮らしてきた。

 杏弥や桂田の話が本当なら、九条家は鷹司家を目の敵にすることだろう。

 ただでさえ縁談を断ってきたことに対して棕櫚は盛大に抗議したのだから快く思っていないのは疑いようもない。

 この居心地のいい家を失うわけにはいかない、そう思ったからこそ九条家に詫びを入れるべきだと考えたが、もうすでに手遅れなのだろうか。

 相手は今や摂家の筆頭。

 逆鱗に触れた上に罪を犯しているとなれば、六波羅ろくはらに征伐された近衛このえの二の舞になるかもしれない。

 茜音は眉間に皺を寄せてこめかみを押さえた。

 加えて今朝方、舞い込んだふたり。

 1度意識を取り戻した青年はまたすぐに意識を落としてしまったため、詳しいことは何もわかっていない。

 顔に火傷の痕を持つ青年、湖薄こはくと見た目よりも幼さそうに見える少女、檜緒ひお

 彼らが現れたのはただの偶然なのだろうか。

 湖薄が再び意識を失うのと同時に少女も寝落ちしてしまった。

 よほど疲れているのだろうか。

 時刻はすっかり昼を過ぎている。

 このまましばらく目を覚さないのなら少しばかり放って置こうかと茜音が立ちかけた時、湖薄が静かに目を開けた。

 茜音は彼の横に座り直し、顔を覗き込んだ。

 呆然と天井を見たまま、何の反応もない。

 ひょっとして動こうにも、上にのしかかるようにしたまま寝落ちしている檜緒が邪魔で身動きが取れないのではないか。

 そう考えた茜音は控える女中たちを呼び寄せると耳打ちした。

 檜緒を移動させて横に寝かせるよう指示を受けた女中が彼女の肩に手をかけた。

「檜緒に何をするっ」

 檜緒の体に女中が触れた瞬間、湖薄は声を上げた。

「何もしません。ただこのままここに寝かせておくわけにはいかないでしょう? 隣に寝かせてあげるだけよ」

 茜音はそう答えた。

 手早く檜緒を抱き上げる女中、布団を用意する女中、どの女中も無駄のない動きで用を済ませる。

 重石がなくなった湖薄は布団の上で半身を起こした。

 辺りを見回す湖薄に茜音は言った。

「あなたたちは西から来たそうね」

「…………」

 湖薄は警戒心丸出しで睨んできた。

 無理もないだろう。

 こちらにとって得体の知れない相手なのと同時に彼にとってもそれは同じことなのだ。

「そんなに警戒しなくても、あなたたちに危害を加えるようなことはしないわ、今のところね」

「…………」

「ここは鷹司たかつかさ家の邸よ。あなたたちはうちの前で暴れ馬から落ちたの。覚えているかしら」

 湖薄は頷いた。

 正直なところ、今は杏弥が起こした不始末の対応をするために余計なことに手をかけたくない。

 放り出しては体裁が悪いので、湖薄と檜緒には自分の足で邸を出て行ってもらいたい、茜音はそう思っていた。

「覚えているのなら結構よ。あなたたちが何しにみやこへ来たのかは問いません。その代わり——」

「言われなくてもそうするつもりだ」

 そう言うと湖薄は立ち上がった。

 隣に寝かされたばかりの檜緒を抱き上げる。

「私が言いたいことがわかるのかしら」

「そもそもここへ来るつもりはなかった。それに私たちには目的がある」

「どこかへ行くつもりなの?」

「厄介者は早々に去るだけだ」

 質問に対する答えになっていない。

 つまり答えるつもりはない、ということなのだろう。

 自分たちのことを厄介者と表現するのはなぜなのだろうか。

 彼の顔の火傷と関係があるのだろうか。

 謎の多いふたりが自分の足で出て行ってくれるのだから本望なはずなのに、茜音はなぜか釈然としないものを抱えていた。

 たが一方でもうひとりの自分が、彼らに関わってはいけないと警鐘を鳴らす。

 湖薄に抱えられても檜緒は目を覚ます様子はなかった。

 そんな彼女を抱えて湖薄が西対にしのたいを出て行こうとした時、外から思いもかけない爆音が聞こえた。

「な、何!?」

 茜音は耳に入った爆音に動揺して腰を浮かせた。

 湖薄は目つきを鋭くすると、檜緒を大事そうに再び布団へ戻した。

 その足で中庭へ出る。

 警戒しながら周辺を見回す湖薄にただならぬ様子を感じ取った茜音も廊下まで飛び出した。

「あの音、一体どこから——」

 茜音がそう言いかけると、第2波とも言える音が聞こえた。

 音は邸の外からのもので、何かが大かがりに破壊されたような印象を受けるものだ。

 するとそれまで周囲を窺っていた湖薄が真剣な眼差しで言った。

「悪いがしばらく檜緒を頼む」

 それだけ残して湖薄は一目散に駆け出して行った。

 あの音が何なのか検討がついているのだろうか。

 それに警戒心をむき出しにしていた相手に、あれほど大事にしている檜緒をあっさり預けていくのはなぜなのだろうか。

 茜音は混乱の中、呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。

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