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第87話 因縁の邸へ

 松島が九条家当主の文を持って内裏へ来てから半刻ほど経過した。

 時華ときはなからの文に目を通した榛紀しんきは、すぐにでも九条邸へ向かおうとしたが、周りがそうはさせなかったのである。

 まだまだ署名の必要な書類も山積みになっており、榛紀は松島をその場にとどまらせると鬼の形相で処理を始めた。

 相手は帝である。

 そう簡単に内裏から連れ出せるはずはないが、榛紀自身は九条邸へ向かう気満々のようで、目にも止まらぬ速さで書類仕事を片付けていった。

 そんな榛紀の様子を見ているうちに、松島は申し訳ない気持ちが増していった。

 ただでさえ忙しい彼を、嘘の情報で九条邸に呼び寄せようとしているのだ。

 心苦しい限りである。

 何度、本当のことを言おうと思ったことか。

 その度にこれは帝のためなのだと自分に言い聞かせた。

 橘萩尾たちばなはぎおという謎の男が言うとおり、帝の命を狙う輩がいるのなら確かに清涼殿ここにいるのは危険かもしれない。

 相手がどんな人物なのかは知らないが、帝の居場所が内裏の中にあることは子どもでも知っていることだ。

 やはり九条邸の方が守りやすい自信が松島にもあった。

「松島、待たせたな」

 いつの間にか榛紀が目の前に現れ、松島は目を見開いた。

 考えごとをしていて榛紀の動きに注目するのを失念していた。

「い、いえ」

「では叔父上の元へ参ろうか」

「もうよろしいのですか」

「九条邸に移住するわけではないのだ。叔父上の様子を確認したらまた戻る。急ぎのものだけ処理しておけば問題ない」

 松島はさらに心苦しくなった。

 時華は榛紀を狙っているという輩を始末するまで内裏に彼を戻すつもりはないだろう。

 このまま彼を邸に連れていって本当によいのだろうか。

 そんな思いが再び脳裏をよぎる。

「何だ? どうかしたのか」

「い、いえ。何でもありませぬ。ではご案内いたします」

 そうして松島は帝を連れ出すことに成功したのだった。

 人目を忍んで朱雀門の近くに停め置いてある九条家の牛車に榛紀を乗せると松島は注意深く辺りを見回した。

 彼が帝であることを知るものは少ないというが、弾正尹だんじょういんという職に就く官吏であることは朝廷内では周知の事実である。

 弾正尹が九条家の牛車に乗るところを見られるわけにはいかない。

 牛車を出発させようとすると、中から榛紀の声が聞こえた。

「松島」

「は、はい。いかがなさいましたか、榛紀様」

「そなたも乗らぬのか」

 家臣が主の牛車に乗り込むなど、聞いたことがない。

 一瞬、何を言っているのかと思ったが松島はすぐに彼を取り巻く環境を思い出して納得した。

 日頃、御所から出ることがない榛紀は牛車に乗ることすらほとんどないのだ。

 帝として存在する時は内裏を出ることを許されず、弾正尹として監察している時も朱雀門から外に出ずに役目をこなすことができる。

 まるで籠の鳥ではないか。

 自由に出歩くことを許される松島は榛紀が気の毒に思えてならなかった。

「私には邸までご案内する役目がございますので……」

 中から残念そうな返答があると松島は恐れ多くも嬉しくなった。

 ただのいち家臣にそこまで気を配ってくれる帝のことを必ず守らなければならない。

 そう改めて心に誓った。

 見上げた空は少し陽が傾き始めていた。



 弾正尹が乗り込んだ牛車を目撃した中務少輔なかつかさしょうゆう兵部少輔ひょうぶしょうゆう刑部少輔ぎょうぶしょうゆうを連れて朱雀門を出た。

 牛車の行き先は九条邸に違いない。

 慌てたところで邸が逃げるわけでもなし、3人は大路を歩き始めた。

「あー、ちくしょう。腹へっなぁ。お前が突然、悠蘭ゆうらんと乱入してくるから昼餉を取り損ねたじゃねぇか」

「はぁ? 何で僕のせいになるんだよ。僕だって昼餉を取り損ねたんだから」

 相変わらず軽口を叩き合うふたりの少輔に、杏弥きょうやはすっかり呆れた。

 この緊張感の無さは何だ!?

 昼餉を取れなかったことを罵り合って生産性があるのか!?

 杏弥は自らの今後のことを考えただけで食欲など失せているというのに。

 小さくため息をついた杏弥はすぐに我に返った。

 不本意ではあるが今置かれている立場上、不平不満を表すと久我紫苑くがしおんから何を言われるかわかったものではない。

 幸い吐き出したため息は小さく、ふたりは気がついていないようだった。

 杏弥は改めてこの状況について考えた。

 もし、本当に悠蘭の母君が皇家の出身で九条家の兄弟が帝の従兄弟だとしたら、とんでもないことをしでかしたかもしれない。

 鷹司たかつかさ家が摂家の中で優位に立つために画策していたはずなのに、杏弥がしてきたことは貶めることに等しい。

 そもそも悠蘭との仲はよくない。

 それはひとえに杏弥のひがみからくる態度の悪さに由来している。

 その上、兄の月華つきはなには暴言を吐いただけでなく、妻を拐かす所業に手を貸していた、いやむしろ主導していたのだ。

 将来、月華が朝廷に腰を据えることがあった時のことを考えると背筋が凍る思いがした。

 その時まで鷹司家は無事に存在しているのだろうか。

「何だよ、杏弥。こんな夏なのに寒いのか?」

 間の抜けた紫苑の言葉につい声を荒げた。

「はぁ!? 真夏に寒いわけがなかろうがっ」

「だって随分青ざめた顔してるぜ?」

「…………っ」

 杏弥は慌てて着物の袖で顔を隠した。

 恥ずかしさも相まって青いどころか赤くなっていることは自分でも感じていた。

「お前、今頃ことの重大さを理解し始めたんだろう?」

「…………」

「本当に九条家の兄弟が皇家の血を引いてたら、お前は皇家の姫の生母を拐かしたことになるなぁ。この後、どんな裁きが下されるのか俺なら震えが止まらねえけど」

「同感」

 面白おかしく言う紫苑とは対照的に冷静に同意する西園寺李桜さいおんじりおうを見ていると、俄かに裁きを受ける自分の姿が現実味を帯びてくる。

 今のところ、紫苑の温情で刑部大輔ぎょうぶたいふには知られずに済んでいるが月華や悠蘭に知られている今となっては、彼らの父である右大臣に知られているのは必定だ。

 ということは帝の耳に入るのも時間の問題である。

 ただでさえ風雅の君からも釘を刺されているのだから、鷹司家が没落するのも時間の問題かもしれない。

 項垂れてふたりの少輔について歩く杏弥はまるで抜け殻のようだった。

 そんな時、遠くから聞き慣れた声が聞こえた。

「若君っ」

 向かってくる人物に足を止めたふたりの背中に衝突しそうになりながら、杏弥は顔を上げた。

 そこには髪を振り乱して向かってくる、杏弥が最も信頼する家臣の姿があった。

「お、お待ちくだされっ」

 互いに顔を見合わせる李桜と紫苑をよそに、杏弥は顔を背けた。

 というより合わせる顔がなかったのだ。

 鷹司家家臣の桂田は3人に追いつくと、膝に手を当て肩で息をしながら何か言おうとしたが、老体に激走は負担だったようで二の句を告げる状態ではなかった。

「えっと……」

 紫苑は頭を描きながら、言葉に詰まった。

 李桜に助けを求めたものの、彼もまた首を傾げる。

 ふたりの視線は自然と杏弥に向けられた。

 居心地が悪くなりますます顔を背けると、呼吸を整えた桂田がようやく口を開いた。

「わ、若君。よくぞご無事で」

 桂田は今にも泣き出しそうな顔をしている。

 今朝方、確かに桂田宛の文を出した。

 中にはしばらく帰れなくなった旨の事情をしたためたが、今生の別れでもあるまいし何を大袈裟なことを言っているのだろう。

 そう思うとだんだん腹立たしくなった杏弥は思わず桂田に答えてしまった。

「生き別れでもあるまいし、そのような顔で俺を見るなっ」

 すると紫苑は途端に訝しげな視線を向けてきた。

「杏弥。この人、お前の家の家臣か? まさかとは思うが、お前が今朝、家に出した文に牢に入れられてるとか書いたんじゃねぇだろうな?」

「そんな不名誉なこと、書くわけがなかろうが」

 桂田は何度か瞬きをすると首を傾げた。

「違うのですか? 私はてっきり拷問にでもあっているのかと……」

 紫苑はうんざりした顔で桂田に言った。

「おいおい、俺はそんな狂った奴に見えるのか」

「いえ、滅相もない。ただ状況がよく呑み込めていなかっただけでございます。ええっと——」

「久我紫苑だ」

「ああ、久我家の方でしたか。それではこちらは——」

「西園寺李桜だよ。そういうあんたは!?」

「はっ。申し遅れました。私は鷹司家の家臣で桂田と申します。若君がとてもご迷惑を……いえ、お世話になったようでありがとうございました。鷹司家を代表して御礼申し上げます」

 桂田は李桜と紫苑に深々と頭を下げた。

 これでは出来の悪い子どもを引き取りに来た保護者ではないか。

「桂田! 何が鷹司家を代表して、だ。余計なことを申すな」

「何をおっしゃいますか、若君」

「若君と呼ぶなっ」

 不毛な言い合いを終えた桂田はすぐに杏弥の相手をやめると紫苑に向き合った。

「ところで久我様、若君からは今夜は戻れないと伺っておりましたが、今ここにいらっしゃるということはお咎めはなし、ということでしょうか」

「んなわけあるかよ。事情があって今、九条邸に向かってるんだ。あんたには悪いけど、杏弥はまだ解放してやれねぇよ」

「……九条家に何かあるのでしょうか」

「さぁな。それをこれから確認しに行くんだ。気になるならあんたも一緒にくればいい」

 そうして桂田も合流した4人は予定どおり九条邸に向かって再び歩き出した。

 するとそれまで紫苑と桂田のやり取りを静観していた李桜がぽつりと呟いた。

「それにしても、弾正尹だんじょういん様は何で九条家の牛車に乗ったんだろう」

 彼らの進む遥か前方で、追いかけている牛車が停車した。

 降りた人物が邸へ入っていくのが見える。

 遠くて顔まではわからないが、降りたのは弾正尹に間違いない。

「全くだ。あの人、何者なんだろうな」

 紫苑の不満そうな顔が印象的だった。

 そんなふたりの会話を聞いていた桂田は杏弥に耳打ちした。

「杏弥様、これは一体どういうことですかな。弾正尹様が九条家の牛車に乗ったと聞こえましたが」

「聞こえたとおりだ。俺にもよくわからぬ」

「わからないのにこの方たちに連なって宿敵の九条家へ向かうのですか」

「俺とて九条家になど行きたくもないが、久我紫苑の監視からは抜け出せぬのだ。ここで逃げ出そうものなら、後に何をされるかわかったものではない」

「……では、杏弥様はこれを好機と捉えて九条家へ詫びをお入れになればよろしいのです」

「…………?」

「今朝、杏弥様からの文を茜音あかね様に見られてしまいまして……九条家に詫びを入れに行くと言ってきかない茜音様を諌めるのに苦労いたしました」

「!?」

「幸いと申し上げてよいのか、別の事件がございましてそれどころではなくなったのでございます」

「別の事件?」

「それが——」

 桂田が囁いたところで、ちょうど九条邸の門の前まで辿り着いた。

 開かれた門から牛車が運び入れられ、門番が門を閉めようとしているところだった。

「ちょっと待ってくれ」

 紫苑が門番に声をかけた。

 門番は紫苑と李桜のことをよく知っているようで何やら交渉しているようだった。

 杏弥はそれを遠巻きに見ながら桂田に言った。

「桂田、それで別の事件とは何なのだ」

「それがですね——」

 桂田が続きを話そうとすると、つかつかと門番のところから杏弥の元へやって来た紫苑に腕を掴まれる。

「さて。お前にとっては居心地の悪いところだろうが一緒に来てもらうからな」

「……まさか、中に入るのか!?」

「当たり前だろ。よかったな。門番の話じゃ、月華も戻ってるらしいし、時華様もいらっしゃるそうだ」

 九条家の面々の顔が次々に浮かぶ。

 どの顔も怒りに満ちていることが想像に難くない。

 紫苑は、杏弥が邸の中で針のむしろになることをわかっていて面白がっている。

 意地の悪い笑いを浮かべる紫苑に、杏弥は内心、呪詛を唱えた。

「何してるんだよ、早く行くよ」

 杏弥は無神経な李桜にも「お前も呪われろ」くらいに思ったのだった。

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