第86話 罪と罰の秤
傾き始めた陽の光が顔に当たり、御形は目を覚ました。
血を流しすぎたせいで少し休むことにしたのを思い出した。
馬を降りて木陰で休むことにしたのはまだ陽が真上に来る前のことだったが、いつの間にか傾いていたようだ。
影がなくなり、夏の光線が顔を照りつける。
陽の傾きから計算すると軽く一刻は経過しているだろう。
休んだおかげで少し体も軽くなった。
御形はゆっくりと立ち上がった。
随分と昔の夢を見た。
輪廻の華の異能を利用して桐江を取り戻すことに執着していたせいだろうか。
着物に付いた汚れを払い落としながら、御形は失笑した。
汚れた着物を纏った自分は廃れた村にいたあの頃と何も変わっていない。
優雅な暮らしをしていた時代は心が荒んでいて何をしていても満たされなかった。
朝廷を去り、生まれた村に戻り桐江のそばで暮らした日々は満たされていた。
彼女は1度、他の男の元へ嫁ぎその男の子を身籠っていたが全く気にならなかった。
桐江の心が手に入らなくても、そばにいられるだけでいい。
彼女が無事ならばそれでいい。
そう思っていた。
やがて生まれた娘は檜緒と名付けられた。
御形はますます桐江親子が幸せに暮らせるよう、全力を投じることを密かに誓った。
御形は桐江が暮らしていたその土地に新たな里を作ることにした。
残ったわずかな村人が安心して暮らせるよう、家を建て、土地を耕した。
人の力では足りないところは御形の異能が役立った。
具現化された巨大な生き物たちは、木を運び、土を耕す作業に一役買ったのだった。
人を貶めるためではなく、人を助けるために使えるのならこの異能も悪くない。
そうして暮らしているうちに御形の噂を聞きつけてきた異能を持つ者が少しずつ集まってきた。
いつしか人里離れて異能者の集まる里となったが、みな幸せに暮らしていた。
あの瞬間までは。
粗末な暮らしであっても御形にとって新しく生まれ変わった里は満たされた場所だった。
だがそれも結局は無になった。
仕えてきた鳳仙の亡き後、即位した凌霄が御形と桐江の里を焼き払ったのである。
苦節の刻を過ごし、やっと手に入れた安寧の地だったのにそれを根こそぎ奪っていった凌霄を許すことはできない。
最も傷を残す方法で苦しめてやる。
御形は固く心に誓った。
だが、相手は帝である。
想いはあっても凌霄に手を出すのは容易ではなかった。
凌霄の友人を利用して毒殺しようとしたこともあったが、それも失敗に終わった。
気づいた時には、凌霄をこの手で始末する機会を失っていた。
だから、凌霄が守りたかったものを全て壊してやると決めた。
改革を推し進めていた朝廷も、大事な息子たちも。
長年、手元にいた白椎は殺すよりも生殺しの方が効果があると思った。
朝廷から遠ざけることで守れると凌霄は思ったのだろうが、よもや狙っている敵の懐へ送り込んだとは気がついていなかったことだろう。
一見、自由なようで精神的には長い間、妹尾家に縛り付けてきた。
長い鎖に繋いで泳がせているようなものだった。
そうして長く苦しみの中に閉じ込めてきたが、その鎖を断ち切る輩が現れようとは想像もしなかった。
今となってはとっとと始末しておけばよかったと後悔している。
これまで静観してきた榛紀の治世もそろそろ終わりにする刻がきた。
まずは輪廻の華を捕らえて、桐江の魂を取り戻す。
その後は白椎と榛紀の命を奪う。
榛紀の始末に湖薄と檜緒を向かわせたのは、彼らが桐江を奪った凌霄を相当に恨んでいたからだ。
だが、気が変わった。
昔のことを思い出しているうちに忘れられない怒りの炎が再び息を吹き返してきた。
やはり自らの手で凌霄の守ろうとしたものを破壊し尽くしたい。
この体がそれまで持てばいいのだが。
御形はこれまでの自らの人生を顧みるにつけ、不毛なことしか思いだすことができない自分に失望した。
縁があって公家の男に拾われ、貴族の仲間入りをしたがあれはまやかしだったのだ。
何ひとつ手に入ったものなどなかった。
幸せも、愛しい女も。
だから最期くらいは望んだ形にしたい。
「やれやれ。そろそろ一世一代の大舞台へ向かうか」
御形は傾き始めた陽の光を浴びながら、京に向けて再び馬を走らせた。
御形が京へ向けて出発した頃。
九条時華は眉間に皺を寄せていた。
九条家の寝殿には、招かれざる客の橘萩尾とその彼を招き入れた義娘の菊夏、彼女が連れてきた今出川楓が控える中で息子の月華と悠蘭が合流したところだった。
「あなたたち兄弟は、帝と同じ皇家の血を引く高貴な方たちなのですよ」
悠蘭の問いに、さもありなんと吐いた萩尾の思いがけない言葉でその場にいた全員が凍りついた。
月華が悠蘭を連れてきた理由は薄々勘づいていたが、時華は気づかないふりをしていた。
図らずも月華には蘭子の出自を知られてしまったが、できれば悠蘭にはまだ知られたくない。
火のないところに煙は立たないと言う。
悠蘭が皇家の血を引いていることが知られれば、今の地位を実力で得たわけではないのではないかと揶揄する者が出るに違いない。
そんなことになれば、せっかく暗闇から出た悠蘭を再び闇に戻すような気がしてならない。
蘭子も皇家の闇に子どもたちが呑み込まれることを恐れていた。
時華は無意識にこめかみを押さえた。
盛大なため息が出る。
「父上、この人の言うこと本当なのですか」
悠蘭の冷静な口調はまるでこれまで真実を告げなかったことを責めているようにも聞こえた。
悠蘭だけが知らされていなかったのだから、責められても返す言葉がない。
黙って頷いた時華にさらに物申そうとしていた悠蘭を月華が制した。
「やめろ悠蘭。このことについてはこれ以上、父上を責めても何もならない」
「ですが、兄上っ」
「父上には父上のお考えがある。それに俺たちにどんな血が流れていようと俺たちは俺たちだ。何も変わらない」
月華の言葉に悠蘭は悔しげに下唇を噛みながらも渋々従った。
ここまで知られてしまったのだから、悠蘭には後に全てを話してもらわなければ困る、という月華の視線が突き刺さった。
墓場まで秘密を持っていくつもりだったのかもしれないが、そうはさせない。
そう言われている気がして時華は肩を落として小さく頷いた。
時華は萩尾に言った。
「——では話を戻すが、萩尾殿。確かにそなたが言うとおり、蘭子が息子たちを皇家に近づけたがらなかったことは事実だ。だがその理由が歴代の帝が人殺しだったから、というのはどういう意味だ」
「おや? 時華様、蘭子殿からお聞きではないのですか」
「聞いておらぬから訊ねているのだ。その話と凌霄陛下の御子たちが危険だという話のどこが噛み合っているというのだ」
「きっかけは凌霄陛下の過ちですが、そもそも鳳仙陛下が真っ当な政をなさっていればこんなことにはならなかったでしょうな」
顎に手を当て、明後日の方を見ながら語る萩尾を時華は腹立たしく思った。
突然、ふたりの皇子が危険だと文を寄越してきた割に随分と悠長にものを語る態度に怒りをぶつけずにはいられなかった。
「勿体ぶらずに早く言わぬかっ」
苛立ちを抱えた時華は珍しく声を荒げた。
その場の全員が瞠目するのも構わず、時華は続けた。
「私の助けを乞うというのなら、私が助けたいと思う状況を示せ」
滅多に感情を昂らせることがない時華の様子に1番驚いていたのは息子たちだった。
悠蘭に至っては絶句しているようだ。
萩尾はようやく本気になったのか、神妙な顔になると居住まいを正して改めて口を開く。
「確かにおっしゃるとおりですね。では話を続けましょう。2代前の帝は家格を重んじて自分に都合のいい公家を官吏として重用していました。そして意にそぐわない官吏は、ある稀代の陰陽師に始末させていたのです」
そこまで萩尾が言うと、それまで静観していた楓が囁いた。
「『鳳仙呪録』……」
「よく知っているな、今出川楓殿」
萩尾が背後に控える楓を見やると、彼は肩をすくめて視線を逸らした。
「い、いえ、たまたま目にする機会がありまして」
『鳳仙呪録』は時華も目にしたことがある。
紛れもなく禁書の棚に保管されているものだ。
時華は今朝、図書寮の書庫で禁書を持った悠蘭と遭遇したことを思い出した。
「悠蘭や李桜だけでなくそなたも禁書に手を出しておるのかっ」
時華の叱責が響く。
「も、申し訳ございませぬっ。禁を犯そうとしたわけではなく、百合殿を執拗に狙われる月華殿が不憫で、我々の知らない何かが裏にあるのではないかと紫苑殿と原因を探ろうとしておりまして……」
呆れて開いた口が塞がらないとはこのことだろう。
禁書とは閲覧制限のかかる所以のあるものだ。
つまり人の目に触れてはならないものや闇に葬りたいものが含まれる。
それを掘り起こすということは、それだけ危険を伴うということに他ならない。
禁書に関わる人物が存命であれば、それを知ろうとする者に手をかける可能性もあるのだ。
だがこれ以上、若者を責めても仕方がない、と時華もわかっていた。
彼らは現役の官吏だ。
禁書を読んだことに対する罰があるかもしれないことは知っていたはずである。
それでもその領域に手をつけなければ何も見えてこないことに若者たちも気づいていたのだろう。
関わるなと悠蘭に警告したがすでに遅かったことを後悔し、時華は再び頭をが抱えたのだった。
「まあよいではありませぬか、時華様。その『鳳仙呪録』にはおぞましい官吏殺しの数々が記されているのは時華様もご存知でしょう。その殺しを任されていた稀代の陰陽師は鳳仙陛下の崩御とともに朝廷を去りました。そこで、あの者をそっとしておけばよかったものを、こともあろうか次いで即位された凌霄陛下がその陰陽師を亡き者にしようと動いてしまったのです」
「なぜ去った者を追うのだ? その陰陽師は自ら去ったのだろう?」
「ええ。ですが凌霄陛下は異能を持っている者が集まっているとというだけで害をなすと思われたらしいのです。そうして偏見を持ったまま、凌霄陛下は大きな過ちを犯しました」
「過ち、とは?」
「その陰陽師は近江国にある琵琶湖のほとりに異能者が集まる里をつくっていたようです。そこに目をつけた凌霄陛下はその里ごと焼き払ってしまいました」
「……焼き払った!?」
穏やかではない話に全員が固唾を呑んだ。
「そうです。官吏殺しを請け負っていたその陰陽師だけでなく、何の関係もない者たちを諸共に、です」
逃げ惑う人々が炎に包まれていく光景が脳裏に浮かんだ時華は返す言葉を失った。
残酷、という言葉だけでは言い尽くせない悪行であることは間違いない。
それはまさしく制裁などではなく虐殺というものである。
「後にそれは間違いであったと陛下ご自身が後悔されていましたが、すでに遅かった。焼き討ちとも言える事件から生き残ったその陰陽師は復讐を心に誓ってしまったのですよ」
「つまりそれがそなたの文にあった——」
「御形のことです。御形が凌霄陛下の障害になると思った私は、密かにその動向を探っておりました。そしてある時、焼き討ちから生き残ったあの者が西に逃れたことを掴みました。だから私は朝廷を去り、御形を追ったのです。そこであの者が——」
萩尾がそこまで言いかけた時、どんっという爆発音が聞こえた。
それはこれまでに聞いたことがないほどの爆音だった。




