第85話 在りし日の誓い
北条兄弟が妹尾家での戦いを終えて、京に向かう1刻半前のこと——。
戦場を投げ出して妹尾邸を出た御形は慣れない馬を走らせていた。
脇腹に命中した矢は抜いたが傷痕が塞がっているわけではない。
傷が深くなかったことは幸いだったが、失われた血は少なくなかった。
少しふらつく頭を押さえながらの行程には無理があった。
休めそうな木陰を見つけると御形は致し方なく馬を降りた。
手近な枝に手綱をくくりつけると、御形は木の幹に背を預けて両足を投げ出した。
不覚だった。
妹尾家から揚羽蝶の家紋を刻印した刀を下賜された山吹は絶対的な忠誠を誓っていると思っていた。
それがこんな大事な局面で足元を掬われるとは……。
だがここで弱音を吐いている場合ではない。
何としても輪廻の華を手に入れ、常世渡りの術を使わせなくてはならないのだ。
もう1度、桐江に会うために——。
桐江とは幼馴染だった。
ふたりは琵琶湖の近くにあった廃れた村の生まれだった。
廃れたとはいっても多少の村民がいる村には形ばかりの村長がおり、桐江はその娘だった。
一方、御形はいつどこで生まれたのかもわからない孤児だった。
親は御形を村に捨てていなくなったと聞かされたが、全く記憶の片隅にも残っていない親のことなど、いてもいなくても気にもならなかった。
村には同じ年頃の子はほとんどおらず、桐江と親しくなるのは必然だった。
互いにぼろ布のような着物を纏い、鼻緒が緩んだ草鞋を履いて野山を駆け巡った幼い頃。
桐江とはよく憧れの京の話をしたものだ。
廃れた村に生まれた者同士、互いに華やかな京は想像の世界にだけ存在する憧れの場所である。
どんなに背伸びをしても貴族の暮らす雅な世界と現実はあまりにもかけ離れている。
それでも憧れを抱かずにはいられなかった。
もっといい着物を着て、雨露を凌げる暖かい場所で楽器を弾いたり、香に酔いしれる。
貴族はそんな生活をしていると聞いたことがある。
御形はよく桐江とそんな話をした。
ふたりが親しくなったのにはもうひとつ理由があった。
彼らは普通の者が持たない人ならざる異能を持つという共通の特徴を持っていたからである。
この村に暮らしている限り彼らの異能を使うことはないが、時折、御形はこの異能を遊びに活かしていた。
小さな兎を具現化して見せると桐江が喜んだので御形は桐江のためだけにこの力を使えればいいと思っていた。
桐江の父である村長からは誰が見ているかわからないから不用意に使うなと言われたが、御形にとってはどこ吹く風だった。
そんなことをしていた齢12の時——京から場違いな牛車が現れた。
家紋の付いた牛車が現れるのを御形と桐江は物陰から見ていた。
出迎えた村長がへこへこと頭を下げている。
「御形、あれは京から来たのかしら」
「そうだろうな。偉いお貴族様がこんな廃れた村に何の用なんだか」
御形も興味がないふりをしていながら、見たこともない豪華絢爛な牛車に釘づけだった。
中から現れた人物からも目が離せなかった。
かつて憧れた貴族の世界そのものだったからだ。
上質な着物を身に纏った優雅な身のこなしをする男が牛車から降りて来る。
村長と何やら話をしているが離れていて何を話しているかまでは聞こえなかった。
ちらちらとこちらに視線を向けて来る様子を見た桐江が言った。
「私たちのことを見ているのかしら」
「…………」
「御形、あなた、何か悪さをしたんじゃないの。あれは京の役人だったりして」
「…………」
村長と話をしている役人らしき人物に心当たりはない。
あるはずもない。
この廃れた村で暮らしてきた少年とどう接点があるというのだろうか。
桐江は一方的に自らの推察を次から次へと語ったが、御形には上の空だった。
京の雅な環境は遠い夢の世界。
牛車から降りた男もたまたまこちらを見ただけで、村長に道でも訊いているのだろう。
そんなことを考えていると、牛車から降りた男が近づいてきた。
桐江は慌てて姿を隠したが御形はむしろ物陰から堂々と姿を現したのだった。
桐江に危害を加えようとしようものなら、人前では使うなと言われた異能を使う覚悟だった。
「お前が人ならざる能力を持った少年か?」
近づいてきた男は、意外と若かった。
自分に親がいればこのくらいの年齢だろうか、と思った。
「少年、名は何というのだ?」
「……御形、です」
「そうか、御形。では私と一緒に参ろう」
男はいきなり御形の腕を掴むとそのまま牛車の方へ引っ張っていこうとした。
突然のことで驚いた御形は精いっぱい抵抗する。
「ち、ちょっと、急に何をっ」
「着物も履き物も改めなくてはならぬ。それに、まずは風呂だな」
腰を屈めた男は御形と目線を合わせた。
舐め回すような視線に耐えかねて声を出そうとした御形に男は言った。
「よく見ればそこそこ見られる顔をしている。綺麗にすれば将来は官吏としてやっていけよう」
「はっ?」
御形は男の言うことが全く理解できなかった。
官吏がどうのと聞こえたが、何のことだかさっぱりわからない。
「よいか。お前は今日から我が家の養子になるのだ。こんな廃れた村にいるよりもずっといい暮らしができる。いいものを食し、いいものを着て雅な暮らしを楽しむのだ」
「…………」
「その代わり、お前の持つ力は存分に発揮してもらう」
わけがわからないまま御形は男に手を引かれ牛車まで連れて行かれた。
腕を引かれながら後ろを振り向くと、村人たちがひそひそと何かを言いながらこちらを見ている。
京から来た場違いな貴族に連れて行かれる様子を、連行される罪人のように見る目だ。
御形は思った。
どうせここでは必要とされていない存在なのだ。
嘘か本当かわからないが、腕を引く男は御形の異能を必要としているらしい。
それならこのまま連れて行かれるのも悪くないのかもしれない、と。
ただ、去り際に村人の中に見た桐江の寂しそうな顔だけはいつまでも御形の頭から離れなかった。
「——形様っ」
遠い記憶の彼方に桐江の顔が薄れていく。
誰も相手にしてくれない孤児だった御形を唯一、相手にしてくれた女。
「——形様っ」
雅な世界に憧れていた幼い頃の夢を叶えるために、桐江を迎えに行くつもりだった。
だが、とある公家の養子となった御形は元服して官吏になってからというもの、ろくな休みも与えられず働き続け桐江を迎えに行く暇などなかった。
「——御形様っ! 起きてくださいっ」
御形は耳元で叫ばれて微睡から覚めた。
「耳元で叫ぶでないっ」
起き抜けに怒鳴って一気に体を起こした。
軽い頭痛に頭を抱える。
辺りを見回すとそこは見慣れた自分の邸だった。
御形の異能を求めて彼を迎えに来た男は京の公家だった。
帝に取り入るための道具として異能を使う御形の噂を聞きつけ、彼を養子に迎えたのである。
目論見どおり御形の養父は帝からの厚い信頼を受ける官吏となった。
陰陽寮に入った今はことあるごとに帝に呼び出され、やりたくもない官吏殺しをされられる。
確かに養父が言うとおり、あの村にいた頃よりもずっといい暮らしができているが、こんな生活にもそろそろうんざりだった。
時の帝——鳳仙は表向きは民から慕われているが、影では意に沿わない公家を闇に葬っている。
その役割を担ってきたのが御形だった。
この手はすっかり血に染まってしまったが、それでもそう遠くない未来には桐江を迎えに行きたいと思っている。
御形は大きくため息をついた。
「それで、何用だ?」
耳元で叫んだのは陰陽寮に所属する陰陽師だった。
まだ外は暁の頃。
こんな時分に邸へ来たのだから何かあったのだろうことは容易に想像がついた。
「御形様っ。大変でございます」
「大変とは?」
どうせろくでもないことだろうとたかを括っていた御形だったが、次のひと言で言葉を失ったのだった。
「帝が崩御なさいました——」
人の運命とは自らで制することはできない。
あれだけ表でいい顔をしながら裏では都合のいい公家だけを重用していく圧政を行っていた帝の死は呆気なかった。
死因は聞いていない。
興味もなかった。
むしろ鳳仙に繋がれていた鎖から解き放たれた開放感さえあった。
だから御形は人知れず朝廷を去った。
養父もすでに亡く、家督を継いではいたが貴族の暮らしにはもううんざりだった。
御形の異能を頼みにしていた養父も帝も亡くなったことで、全ての足枷が外れた御形は生まれ育った村に戻ることにした。
個人的な用向きで京を出たのは何年ぶりのことだろうか。
御形は自由を手に入れたその足で生まれ育った琵琶湖のほとりにある村に向かった。
途中、通過するどの土地もまともな暮らしをしているとは思えない様子だった。
土地は痩せこけ、今にも崩れそうなあばら屋に暮らす人々。
京の雅な暮らしの陰で生きていくことにすら困窮する世界があることをすっかり忘れていた。
目的の地に近づくにつれ、その貧しさは度を増していった。
そしてたどり着いた村は御形がそれとわからないほどにかつての姿を失っていた。
御形が暮らしていた頃でさえ廃れていたのに、今はもはや村とも言えないほどに何もなかった。
人もほとんどおらず、点々と存在するあばら屋がわずかに3つあるだけだったのである。
御形が迎えに来た養父に連れられて村を離れた時は場違いな牛車に上質な着物を着た公家を白い目で見ていた村人ももういない。
同じような身なりをした御形に向く視線すらなかった。
村に戻ってきたのは桐江に会うためだった。
本当なら京に暮らしていた時に桐江を迎えに行くつもりだったがそんな暇もなく走り続けてきたことに一抹の後悔があったからだ。
もう公家の邸に戻ることはないが、稼ぎはたんまりと残っている。
これで桐江に少しでも楽な暮らしをさせたい、そう思っていた。
御形が呆然と立ち尽くしていると、
「……どちら様?」
と背後から声をかけられた。
近づく気配に気づかないほど、呆然としていたことに自分でも驚いた。
そして振り返るとその驚きは一層大きくなったのである。
「あら……もしかしてあなた、御形なの?」
そこにいたのは紛れもなく、長年、会いたいと思っていた桐江その人だった。
だが御形は桐江の姿を目に止めるなり、言葉を失った。
桐江は大きくなったので腹を抱え、自分の頭と同じほどの大きさの水瓶を抱えていたのである。
着物はところどころ擦り切れて汚れ、髪も乱れた桐江は顔立ちこそ面影があるものの、別人のようにやつれていた。
好みもしない人殺しをしてきたとはいえ、十分な食事と立派な邸、無駄に上質な着物をを纏った自分との違いに、御形の中を激しく後悔の波が襲った。
なぜもっと早く彼女を迎えに行かなかったのか、と。
御形が慌てて水瓶を持ち上げると桐江は微笑んだ。
「……御形、立派になったのね」
「桐江——」
「戻ってきてくれたの?」
「…………」
「ってそんなわけないわよね。あなたは京で有名な陰陽師になったんだから。あなたの噂はこんな外れにも聞こえてくるのよ」
「…………」
「私ね、あなたが京に行ってしまってしばらく経ってから、父の言うままに嫁いだの。でも嫁ぎ先であまり歓迎されなくて……夫も流行病で亡くなってしまったから逃げ戻ってきたのよ、ここに。異能を使って夫を呼び戻せばよかったのかもしれないけど、必要とされていないのに命を賭けるのは馬鹿らしくなっちゃった」
「桐江——」
「でもね、そんな夫との間にこの子を授かったから、何としても産もうと思ってるのよ」
そう言って一筋の涙を流した桐江は気丈にも笑っていた。
離れている間にどれだけの苦労をしてきたのだろう。
想像すらできない。
御形は流れる桐江の涙を拭い、彼女を苦しめる全てのものから守ろう、そう誓った。




