第84話 叶わぬ恋情
「私は約束は守る男です」
そう言った棗芽に顔を赤らめながら、
「知ってます……」
と紅葉は答えた。
紅蓮寺で、嵐が去るまでには戻ると伝えて備中国へ行くことを決め、寺を出た棗芽を待ち続けてくれていたと後に知った時にはこの上ない喜びを感じた。
いつの間にか紅葉の存在が大きくなり、今では欠かすことかできなくなっている。
彼女の全てを受け入れたいし、全てを守りたい。
そう思って過酷を極めたこの戦場から逃したはずだったのに、紅葉は自ら舞い戻ってきた。
だから紅葉はともにあることを望んでくれたのだと思うことにした。
「それなら結構。君は自らの意思で戻った。だからもう2度と逃すつもりはないから覚悟することだ」
「か、覚悟って……?」
紅葉は恥じらいながら言った。
それは続きを言わせたいからなのか、それとも本当に意味がわからないのか。
どちらなのかは今の棗芽には判断がつかない。
だがどちらでもよかった。
すでに理性のたがは外れている。
棗芽が紅葉に口づけるのに何の躊躇いもなかった。
初めて触れた紅葉の唇は温かかった。
言葉にしなくても、これで想いの全てが伝わってくれればいい。
万が一、戦いに破れ紅葉を迎えに行くことができなくなったら、不用意に発した棗芽の言葉が言霊のように彼女を縛るような気がして、気持ちを言葉にすることが怖かった。
離れるのが名残惜しいと思いながらも、棗芽は唇を離す。
「では行ってくる」
そう言って棗芽は紅葉に背を向けた。
どんなに名残惜しくても振り返ることはできない。
にやけた顔を見られたくはなかったし、紅葉の顔を見てしまえば、離れ難くなってしまうからである。
棗芽は足早に邸を出た。
慌ただしく駆けずり回る妹尾家の家臣たちとは逆行して門へ向かう棗芽を気に留めるものは誰もいなかった。
おかげで場にふさわしくないにやけた顔を見られずに済んだ。
先に出て行った鬼灯に会うまでにこのにやけを何とかしなければならない。
ただでさえ負傷しているから足手まといだと言われているのだ。
何を言われるかわかったものではない。
棗芽は鬼灯の言うとおり、足手まといであろうことは理解していた。
残された力が僅かであることは自分が1番よくわかっている。
だがこの先のことを考えた時、あの御形という男を生かしておくことはできないと思った。
あの人ならざる力が近しい者に向けられた時の惨状を想像するとぞっとする。
たとえ差し違えることになったとしても、あの怪しい術者を世に残しておくことは誰の幸せにもならない、そんな気がしている。
「別れのあいさつは済んだのか」
外に出た棗芽を待ち構えていた鬼灯が馬上から言った。
すでに出立の準備は整えられており、棗芽のための馬も用意されている。
「別れのあいさつ? 冗談でしょう、兄上」
棗芽は冷笑しながら馬に乗った。
「死にに行くつもりはありませんよ、私は」
太刀を背中に背負うと普段なら何とも思わないのに今はずしりとその重さが肩にかかった。
揶揄う兄に対し精一杯虚勢を張ったものの、彼の言うとおり今生の別れとなる可能性は十分にある。
棗芽は初めて恐怖を感じた。
これまでどんな戦場に行っても死ぬかもしれないことを恐ろしいと思ったことはなかった。
死んだらそれまで、くらいに思っていたのである。
だが今は違う。
死ぬことより、紅葉に2度と会えなくなるかもしれないことが怖い。
万が一差し違えることもできなかった時に残された者たちが御形から危害を受けるかもしれないことが怖い。
こんな感情が湧いてくるのは初めてだった。
「……ですが兄上」
「何だ」
「私は初めて怖いと思っていますよ」
鬼灯は面食らっていた。
それもそのはずである。
それは棗芽が吐いた初めての弱音だったのだから。
だが鬼灯は笑わなかった。
揶揄いもしなかった。
ただひと言、
「守りたいものを持てばそれを失うのが怖いと思うのは当たり前のことだ」
とだけ答えるとすぐに馬首を返して走り出した。
棗芽は思った。
妻の葵や息子のように可愛がる月華など、守りたいものをたくさん抱えている鬼灯はいつもこの恐怖と戦っているのだ、と。
山吹はふと目を覚ました。
うつ伏せになっていることに気がつき、体を動かそうとしたが背中に強い痛みを感じた。
「………っ」
思わず呻き声を上げてしまったがすぐに口元を着物の袖に押さえつけた。
長年の習慣と言うべきか、条件反射のようなもので今自分がどういった状況に置かれているのか確認するまで不用意に声を上げるべきではないという意識働き、それに伴う行動が体に染み付いている。
山吹は何が起こっているのか必死に記憶の糸を辿った。
敦盛によって目の前で攫われた輪廻の華を取り戻すという白檀や月華たちを妹尾家に案内してきた。
途中の集落の火消しを手伝わされ、到着が遅くなったのは誤算だった。
夜のうちに到着して暗闇に紛れることができれば好都合だったが、そうはいかなかった。
明るくなってから到着したどころか、すでに先に潜入していた紅葉と棗芽という武士の男がすでに妹尾家の家臣たちと戦いを始めてしまっていたのだ。
そして戦いの最中、御形が現れて放った矢の返り討ちにあった——。
そこまで思い出したところで頭上から聞き慣れた声が聞こえた。
「山吹っ、大丈夫!?」
何とか首だけでも動かそうとしたが背中の傷に障り、うまく動かすことができない。
「紅葉……か? ここはどこだ?」
「自分の部屋のこと、忘れちゃったの?」
山吹は左右に視線を動かしてみた。
視界に入るのは確かに見覚えのある景色だが、そもそも自分の部屋といっても、まともに暮らしたことがない。
これまで常に戦や白檀の使いで旅に出ていたため、ほとんど滞在したことがない部屋ではあまり自分の部屋だという実感がなかった。
だが言われてみれば何となく居心地がいい気がしないでもない。
「よかった、意識が戻って」
「無事ではないけどな。あの後、どうなったんだ?」
御形に矢を返された後の記憶が朧げにしかない。
確か1度邸を出たのに再び舞い戻った紅葉を痛烈に責めた棗芽に苦言を呈したような……。
「そうだ。あの男、あいつはどうした?」
棗芽の存在を思い出した山吹の中に怒りが込み上げてきた。
紅葉と必要以上に近しい棗芽という男の姿が脳裏にちらつく。
紅葉を棗芽に取られるような気がして渡したくないというぶつけようのない独占欲が渦巻く。
「あいつって?」
「あの三つ編みの男のことだ」
うつ伏せのまま動けないのはある意味、好都合だったかもしれない。
顔を見てしまえば、ひとりよがりな感情を直接ぶつけていたことだろう。
「棗芽のこと……?」
顔が見えないから今、紅葉がどんな顔をしているのかわからないが声音が恋する乙女のように弾んでいるのはわかる。
「そんなにあの男のことが好きなのか!?」
「な、何よ。そんなこと誰も言ってないでしょ」
むきになるのは図星の証拠だろう。
山吹は棗芽を思い浮かべた。
武士としての腕は確かで、紅葉を守る力は十分にあると不本意ながら認めざるを得ない。
あの眉目秀麗な容姿だし、紅葉が惚れるのもわからないではない。
棗芽自身が紅葉を大事にしてくれるというのなら兄としてふたりの仲を認めざるを得ないのかもしれない。
「あの男が迎えに来たらどうするつもりなんだ」
「む、迎えってどういう意味よ!?」
「は? 何を言っているんだ、お前は」
「だって……棗芽も迎えに行くから覚悟しろとか言ってたけど、どういう意味なのかわからなかったのよっ」
照れ隠しなのか、本当にわかっていないのか。
山吹は急に肩の力が抜けて阿呆らしくなった。
紅葉は自分で気がついているのかいないのかはわからないが心底、棗芽という男に惚れている。
でなければ迎えに行くと言われたことに動揺するはずはないのだ。
そして棗芽もまた、紅葉に惚れているに違いない。
覚悟しろと言うほど本気なのだ。
互いにどれほど理解しているのかはさておき、これだけ想い合っているふたりの間に入る隙はない。
そもそも血の繋がった兄妹である山吹にはどんなに愛していても紅葉を妻にすることはできないのである。
何だか嫉妬していることさえ無意味に思えてきた。
「迎えに行くとあいつが言ったのか」
「……うん。山吹、これってどういう意味だと思う?」
「こういう場合の迎えに行くと言えばひとつしかないだろう?」
「だから、何なの?」
「あいつはお前を嫁にしたいんだろう」
「…………」
長い沈黙が流れた。
何も言わなくても紅葉が動揺しているのは手に取るようにわかる。
本当は嫁になど行かせたくない。
これまでずっと白檀や紅葉と一緒だった。
離れる時が来るなど、考えもしなかった。
だがもうそれも終わりなのかもしれない。
白檀は長らく離れていた実弟と再開したし、全て片付いたら備中を離れることだろう。
紅葉もまた、心を許せる相手を見つけた。
兄としてはここが妹離れする潮時なのだと自分に言い聞かせる。
「いいんじゃないか」
「……な、何が?」
「あの男なら、きっと紅葉を大事にしてくれる。白檀様よりはよっぽど明るい未来があるじゃないか」
「そ、そんな……急に言われても困る。下働きでもいいから雇ってくれるって言うから、全部片付いたら鎌倉に行くとは言ったけど。よ、嫁なんて考えてなかったから」
「じゃあ、考えてみたらどうだ?」
「山吹がそう言うなら……」
最悪の気分だ。
最愛の娘を嫁に出す父親の気分だった。
しかもその相手は家族以上の特別な存在である。
まだ嫁に行くと決まってもいないのに山吹はすでに喪失感を持っていた。
「ねえ、山吹。もし、あたしが鎌倉に行くことになったらどうするの?」
「どうする、とは?」
「だってもう妹尾家にいる理由はないじゃない。白檀様だって出て行ってしまったんだし、十分に奉公したんだからもう自由になってもいいでしょ」
「……そうだな。前に白檀様と諸国を旅する約束をしたことがあったからあの方がそうしたいとおっしゃるならお供するかな。それに今回は別れ際に草餅を一緒に食べる約束もしたしな。この傷が癒えたら京へ行って白檀様と合流するさ」
「その後は? 草餅は何日も食べるわけじゃないわよね。旅も終わってやりたいことを全て終わったらどうするの?」
改めてそう問われると答えに詰まる。
戦いのない日々など考えたこともなかった。
「さぁ、そこまで考えてなかった」
「その時、あたしがまだ鎌倉にいたら、山吹も来る?」
あまりにも無神経な提案に山吹は思わず体を起こしそうになった。
背中に激痛が走り、あえなく布団に伏す。
痛みでこぼれそうになる涙をこらえながら山吹は想像した。
鎌倉という知らない土地の邸で愛する妹と棗芽が目の前で毎日のようにいちゃいちゃと仲の良さを見せつけてくる日常を、だ。
下手をすれば子どもも産まれ幸せの絶頂を間近で見ることになるかもしれない。
そのうち、幸せそうな紅葉の姿を見るにつけ気持ちも薄れて彼らの幸せを喜べる日が来るのかもしれないが、今は到底受け入れられない。
「いや。それだけは絶対にしない」
「どうして? 山吹は寂しくないの、あたしと離れ離れになって」
天然なのか、何かの仕打ちなのか。
山吹はぶつけようのない憤りに思わず眉間に皺を寄せた。
体が動かないことは本当に幸いだった。
互いに顔を合わせずに会話しているから表情も見られずに済む。
「兄妹だからっていつまでも一緒にいられるわけじゃないんだ。お前はお前の道を行けばいい」
「いつもあたしのこと、愛してるって言うくせに。愛しの妹が遠い鎌倉に行っても気にならないわけ?」
「……愛してるって言葉は自分の嫁に向かって言え、と言ったのはお前だろうが」
山吹はどっと疲れを感じた。
このまま海の底にでも沈んでしまいたい。
そう思いながら意識を手放した。




