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第82話 忙しなく働く家臣

 時は少し遡って早朝のこと。

 湖薄こはく檜緒ひおという見ず知らずの青年と少女を鷹司たかつかさ家の邸に入れなければならなくなったのは家臣の桂田にとって大きな誤算だった。

 ただでさえ早朝に嫡子の杏弥きょうやからと思われる文が届き、その対策に奔走するはずだったのにそれどころではなくなってしまった。

 何としても主人の棕櫚しゅろが目を覚ますまでに騒ぎを収めなければならない。

 桂田はまず、邸の門番の元へ向かった。

 招かれざる客が鷹司邸の前へ来るまでの様子を確認するためである。

 鷹司家の門番は経験豊富な豪腕男だ。

 体格も去ることながら、いかつい顔つきがあらゆる来客を震え上がらせる。

 邸に出入りする商人などは、この門番に睨まれて震え上がるほどだった。

 門番の元へ来ると桂田は声をかけた。

「忙しいところ悪いが、少し話を聞かせてはもらえぬか」

 湖薄たちを振り落とした馬を難なく手懐けた門番は手綱を引いてとりあえず厩に移動するところのようだった。

「桂田様、何か御用でしょうか」

「うむ。その馬に乗っていた男女のことなのだが、どこから駆けてきたのか見ていたか?」

「確か、九条邸の方向から来ましたね」

「九条邸の方だと?」

「ご存知のとおり九条邸は目の鼻の先とはいえ、ここから門が見えるわけではございませんので、この馬が邸から出てきたのかどうかまではわかりません……」

 桂田は一応、門から大路へ出てみた。

 朝ということもあり、行き交う人の姿はまばらだが、朝霞もなく大路の向こうまでくっきりと見えた。

 門番の言うとおりである。

 いくら近くだからといって互いの邸は広大な敷地なのだ。

 邸の前から九条邸の門は目視できない。

 何の手掛かりも得られず、邸内に戻った桂田は考えた。

 まず解決しなければならないことは3つある。

 ひとつは、図らずも招き入れることになったふたりをどうするかだ。

 青年の方は落馬がきっかけで意識を失っている。

 とりあえず鷹司家長女である茜音あかねの指示で西対にしのたいに連れて行ったものの、いつまでもそのままというわけにはいかない。

 次に対処しなければないらないのは、兵部少輔ひょうぶしょうゆうの監視が付いているという杏弥の件だ。

 文は助けを求めるものではなかったがそのまま放置というわけにはいかない。

 夜になって杏弥が戻っていないことを棕櫚に問い詰められたら、言い逃れできるのはせいぜいひと晩くらいのものだろう。

 そして最後に最も厄介な問題——それは杏弥が起こした行動によって九条家の怒りを買ったかもしれない、ということである。

 今のところ、九条家からの苦情の類は届いていないがことの顛末をそばで見てきた上に一部加担してきた桂田としては、十中八九、九条家から何らかの制裁を受けることになるであろうことは容易に想像がついた。

 茜音は九条家に詫びを入れようと言ったが、もはや事態はそんな状況ではない。

 詫びを入れるというのであれば、当主である棕櫚からのものでなければ効果がないだろう。

 だがそれは鷹司家が九条家の下につくことを意味する。

 ただでさえ摂家の筆頭になりたがっていた棕櫚のことだ。

 そんなことをするくらいなら簡単に嫡子を切り捨てるくらいのことはやってのけるだろう。

 そうなれば杏弥は鷹司家から追放され、一生敷居を跨ぐことは許されない。

 幼少期から成長を見守ってきた桂田にとって、それはどうしてもできないことだった。

 桂田は頭を抱えて唸った。

 するとよほど大きな唸りだったのか、背後からそれを指摘する声が聞こえた。

「朝から騒々しい。何を唸っているのだ、お前は」

 慌てて振り返るとそこには桂田の主である鷹司棕櫚が立っていた。

 一瞬震え上がった桂田だったが、そこは長年この主に仕える家臣としてすぐに平静を取り繕って頭を下げた。

「おはようございます、棕櫚様」

「挨拶はよい。それで、何かあったのか」

「何か、でございますか」

「先刻、唸っていたではないか!」

「唸っていた? 私めが、でございますか? それは……おそらく喉を鳴らしていた時のことでしょう。どうにも朝から喉の調子が悪くて敵いませぬ」

 桂田は主を前に大袈裟に痰を切ってみせた。

 不自然な咳払いも加えてみる。

 その様子に阿呆らしいと思ったのか、棕櫚は盛大なため息をついて去っていった。

「桂田、何をもたもたしている。すぐに朝餉の用意をさせよ」

 立ち去り際に放たれた棕櫚の要望に桂田は、

「大至急、用意させます」

 と答え、手近な女中を捕まえて的確に指示したのだった。

 何とか難を逃れた。

 ほっと胸を撫で下ろした桂田は半分、主人を欺いてしまった罪悪感を抱えていた。

 杏弥を守るためとはいえ、本来の主人である鷹司家当主に嘘をついたも同然なのだ。

 結局、問題は何も解決していない。

 頭を抱えながら桂田は西対——茜音の自室へ向かった。

 中に入ると置き畳の上に真新しい布団が敷かれ、そこに落馬した青年が寝かされていた。

 そばには一緒に落馬した少女が横たわる。

 ふたりとも意識はなかった。

 女中たちが介抱する様子を少し引いて見ているのが茜音だった。

 桂田は茜音の斜め後ろに膝を折った。

 すると気配を感じたのか、茜音が振り向くこともなく言った。

「何かわかりましたか」

 介抱している男女のことを言っているのだと理解した桂田は何の進展もないことを説明した。

 途中、棕櫚に遭遇して肝を冷やしたことは言わなかった。

「この子たち、一体何者なのかしら。追い出すのは簡単だけれどその辺に捨て置くわけにもいかないし、だからといってずっとここに置いておくわけにもいきませんね」

「彼らはあれから変化なしでございますか」

「ええ。でもあの青年、顔の右半分に火傷の痕があるのよ。みやこの住人ではないのかもしれませんね」

 桂田が青年の顔を覗き込むと、確かに火傷によって皮膚が爛れたような痕がある。

 長い前髪はそれを隠すためなのかもしれない。

 普通の人が見れば何ごとかと気味悪がるようなものだが、茜音は顔色ひとつ変えていなかった。

 さすが鷹司家の長女である。

 肝が据わっていた。

「こっそりと裏手から牛車で連れ出し、京の外れで捨て置けばよいのではないでしょうか。京の外れであれば誰も関係を勘ぐる者はいないのでは?」

「誰かが見ていたらどうするのです? 鷹司家の牛車から放り出されたところを偶然、どこかの公家が見ていたら大きな問題になります」

「それは……」

 確かに茜音の言うとおりである。

 どこで誰の目があるかわからないから、落馬したふたりをとりあえず運び込んだのだから。

 桂田はこの日、2回目の唸り声を上げた。

 その後、桂田は一旦西対を後にした。

 彼には1日の中でしなければならないことが山のようにある。

 主人の世話だけでなく、任されている邸の管理もあるのだ。

 西対を出た桂田は食事を終えた棕櫚が出仕するための牛車を準備させた。

 着替えを終えて出てきた主を見送るために門で棕櫚を出迎えるといつもなら何も言わずに牛車に乗り込む主が足を止めた。

「桂田。そういえば杏弥の姿を見ていないが、もう出仕したのか」

 そう言われて桂田は絶句した。

 どう説明するのが正しいのかわからなかった。

 これ以上、嘘は言いたくないが真実を伝えるわけにもいかない。

 覚悟を決めた桂田は言った。

「杏弥様でしたら昨晩から戻っておりませぬ」

「戻っておらぬ、と? まさか徹夜なのか?」

「今朝方、文がございまして今日は戻れない、とのことでございました」

 これ以上、適切な表現が思いつかなかった。

 桂田は軽く頭を下げて沙汰を待った。

 あとは主がどう解釈するかだけである。

 すると桂田の心配をよそに棕櫚は感心したように、

「それほど熱心に仕事をしているとは、珍しいこともあるものだ」

 と小声で呟いて牛車に乗り込んだのだった。

 杏弥の問題行動によって鷹司家に危機が迫っていることを知らないのは当主の棕櫚だけだが、桂田は穏便にことを済ませるために時間を稼がなければならなかった。

 今日は何とか切り抜けられそうだ。

 そう思った桂田はひと通りいつもの段取りを済ませると、再び西対へ向かった。

 中に入ると変わらぬ光景が広がっている。

 招かれざる客に変化はなかった。

 黙って茜音の後ろに控えると桂田はこの日、3回目の唸り声をを上げた。

 するとその声に反応したのか、少女の方が目を覚ました。

 むっくりと起き上がるとせわしなく辺りを見回した後、目の前に横たわる青年を見つけ半狂乱になって彼の肩を激しく揺すった。

「湖薄、湖薄! しっかりして」

 青年が少女の必死の問いかけに答える気配はない。

 見かねた茜音は少女に言った。

「もう少し休めば気がつくかもしれないわ」

 不安げに茜音を見上げる少女の顔に疑問が滲んでいる。

「……誰?」

 茜音に対する無礼な物言いに耐えかねた桂田が口を挟もうとすると、それは茜音自身に制された。

 致し方なく1歩引く。

「私はこの邸に住む茜音という者です。あなたの名前は?」

「……檜緒」

「では檜緒。彼とはどういう関係なの?」

「……兄妹、みたいなもの」

 錯乱しているのか、茜音の問いに対する回答が妙に幼子のように感じる。

 茜音の一問一答は続いた。

「あなたたちはどこから来たの?」

「……西から」

「西? 遠いところから来たのね。何か用事があったのかしら」

「……知らない」

「知らない?」

「湖薄が教えてくれなかったから」

「そう。彼は湖薄というのね。彼、どうして顔に火傷をしているのかしら」

「それは——」

 檜緒と名乗った少女が語ろうとしたところでそれまで微動だにしなかった青年が急に顔を歪め出した。

 まるで悪い夢を見ているかのようである。

「湖薄っ」

 何度か続いた檜緒の問いかけに目を覚ました青年はぼんやりと天井を見つめていた。

 桂田は茜音とともに安堵の息を漏らした。

 このまま眠り続けられたらどうしようかと思っていただけに桂田も胸を撫で下ろしたのだった。

 兄妹のようなものだというふたりが再会を喜び合っているそばで桂田は言った。

「茜音様、ここはお任せしてもよろしいでしょうか」

「構いませんけどお前はどこへ行く気なの?」

「あの少女が西から来たと言っていたのが本当だとするなら、とりあえず彼らは九条家とは関係なさそうですので、私は若君と九条家の様子を探って参ろうかと」

「そう、わかりました。では彼らのことはお任せなさい。杏弥のこと、頼みましたよ」

 茜音に深く首を垂れると桂田は西対を出た。

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