第81話 暗闇に沈む心
深い深い暗闇の底。
ここはどこなのか。
ただ暗くて何も見えない。
親も兄弟もいない。
世界に捨てられて行くところはどこにもない。
とにかく腹が減った。
このまま死ぬのだろうか——。
湖薄が目を開けるとそこは見知らぬ場所だった。
覗き込んでくる人影は逆光で顔も見えない。
ゆっくりと体を起こそうとすると手を差し伸べられ、引き起こされる。
ようやく相手の顔が見えたかと思ったら見覚えもない男だった。
剃髪した頭は形も良く、顔は穏やかに微笑んでいる。
袈裟を着ているところを見ると僧侶なのだろうが、それにしては随分と若いように見えた。
辺りを見回すと、そこは簡素な家のようだった。
四隅に建てた柱を板で囲い、茅葺き屋根をつけただけの小さな空間で、建てつけの悪そうな扉が1枚あった。
他に部屋はなさそうだ。
僧侶がいるのに寺という感じでもない。
室内には特に目立った家具などはなく簡素な寝台が置かれているだけで、湖薄はそこに寝かされたようだった。 男が言った。
「気がつきましたか」
「…………」
僧侶に声をかけられても湖薄は何も答えることができなかった。
なぜ自分がここにいるのか全く理解していなかったのである。
記憶にあるのはただ暗闇が広がる世界のことだけ。
すると僧侶越しに見える扉が開いた。
入ってきたのは見覚えのない女だった。
「樹光様、気がつきましたか? 彼」
「ええ。ですがまだ茫然自失のようです」
「それは大変っ。まずは温かいものでも飲んではどうかしら」
樹光と呼ばれた僧侶を押し除けるように女は湯呑み茶碗を差し出してきた。
女に差し出された茶碗には白湯が淹れられている。
半分強制的に押し付けられた茶碗を両手で掴むとその温もりを感じた。
湯気が上がるのを呆然と見つめていると樹光が言った。
「覚えていないのかもしれませんが、あなたはこの近くの薄野原で倒れていたのですよ。偶然私が通りかかったからよかったものの、誰も通らなければ大事になっていたかもしれません」
倒れていた——そう言われて朧げに思い出してきた。
確かに行く当てもなく彷徨っていたような気がする。
最後には空腹で意識が遠のいた、そんな気がした。
「まだ子どものようだが、親はいないのですか」
「……親も兄弟もいません」
湖薄は絞り出すように答えた。
親も兄弟もいない。
それは事実である。
物心ついた時から湖薄はひとりだった。
路地で物乞いをしたり、追い剥ぎまがいのことをしたりして生きてきたが、そろそろ限界を感じていた。
「少年、名は何というのですか」
「……名はありません」
「名がない?」
「物心ついた時からずっとひとりだったし、名を付けてくれるような人はいなかったから……。みんなそんなものでしょう? 自分と関係のない者は目に入らない」
湖薄の話を聞いていた僧侶と女は互いに顔を見合わせている。
いつもこうだ。
誰も相手にしてくれはしない。
まるで世間から存在を認められていないかのように。
だからいまだに名もない。
湖薄が視線を逸らすと、突風でも吹いたかのように扉が勢いよく開いた。
驚いて視線を移すも誰かが入ってきたようなのに人影は見えない。
何があったのかと首を傾げていると、間もなく異変が起こった。
「誰? 誰?」
ふと気がつくとどこから現れたのか、小さな女の子どもが寝台に上がり込んでいた。
湖薄の足元で小動物のようにころころと転がりながら見つめてくる少女はまだ2、3歳に見える。
無邪気にはしゃいでいた。
「あらあら、檜緒様。そんなお行儀の悪いことをしてはいけませんよ」
湯呑み茶碗を持ってきた女が少女を寝台から排除する。
「芙蓉、離してっ」
抱き上げられた少女は女のことを芙蓉と呼んだ。
芙蓉は抱き上げた檜緒という少女を床に静かに下ろす。
親子というには芙蓉はまだ若いよう見えるし、ふたりの関係もそういった風には見えなかった。
芙蓉の手を離れた檜緒は湖薄の寝台に擦り寄ってきた。
改めて少女にじっと見つめられる。
まさに言葉を発しない小動物のようだ。
まじまじと見つめられ、湖薄は戸惑った。
家族も兄弟も持たない湖薄がこれほどじっと誰かに見つめられるのはこれまでなかったことなのである。
「あの……」
視線に耐えかねて湖薄が口を開くと、それを遮るように檜緒が言った。
「透き通った目ね。湖みたい」
何を言っているのは湖薄にはわからなかったが、樹光は嬉しそうに笑い出した。
「本当だ」
樹光にまで凝視され、湖薄は赤面した。
腕を組み顎に手を当てながらしばらく唸った後、樹光はおもむろに言った。
「湖薄」
「…………?」
「あなたの名です」
「…………!?」
「薄野原で見つけたことだし、孤独な生活をしてきたようだが確かに透き通った目をしている。あなたに相応しい名ではないですか。芙蓉殿、そうは思いませんか」
樹光が話を振ると彼女は何度も頷きながら同意したのだった——。
再び暗い底へ落ちていく——。
底は見えない。
煙が辺りに充満し息が苦しくなってきた。
それに顔が熱い。
まるで何かに焼かれているような……。
「湖薄、しっかりなさい!」
その声で彼は目を開いた。
目の前には樹光の顔があった。
それは悲痛に歪んでいる。
声を張ることなどない心穏やかな僧侶であるはずの彼がなぜ苦痛に満ちた顔をしているのか。
理由はわからなかった。
「樹光様……」
なぜか体の自由が効かない。
手足も思い通りに動かないし、声を出すのも縛り出すようにしかできない。
一体自分に何が起こったのか、湖薄は全く理解できなかった。
「湖薄! あぁよかった。何とか意識が戻りましたね。一時はどうなることかと思いました」
「……何があったのでしょうか」
「何も覚えていないのですか」
湖薄はかろうじて頷いた。
「何と……。いいですか、落ち着いて聞いてください。あなたたちが暮らしていた里は帝の勅使によって焼き払われてしまったのです」
「焼き……払われた!?」
衝撃的な言葉に驚いてその真を質そうと目を大きく見開いた時、湖薄はこれまでに感じたことのないような激痛に襲われた。
顔の右半分が引き裂かれたように痛む。
慌てて何とか動かした右手で顔に触れると、ぬるっとした感触と触れた部分に再び激痛が走った。
「いけません、湖薄。あなたは顔の右半分に火傷を負ってしまったのです。これから手当をしますから触れてはいけませんよ」
焼き払われただの、火傷を負っただのと言われても湖薄には記憶になかった。
樹光に拾われて湖薄という名をもらい、異能者の集まる里に暮らすようになって数年が経った。
樹光という僧侶は拠点とする寺が近江にあるようだが、修行のために全国を行脚しているらしく、近くを通る時には必ずと言っていいほど立ち寄り、湖薄を気にかけてくれていた。
里に根を下ろすようになり、湖薄の目を湖のようだと言った檜緒という少女のお守りをするようになった。
他にすることもなかったし、これをすれば寝食に困らなかったので湖薄はそれに満足していた。
檜緒の世話は里の偉大な術使いである御形という男から任された仕事だった。
時折、簡単な術を教えてくれるものの湖薄には才能がないようで、同じ年頃の御形自らが拾ってきて育てたという皐英という少年のようにはなれなかった。
檜緒の世話係——それが湖薄の、この里での存在意義である。
そうだ、檜緒。
檜緒はどうしたのだろう。
樹光の姿しか見ていない。
急に不安になった湖薄は力を振り絞って半身を起こした。
すると眼前には見たこともないような光景が広がっていた。
自分の周りにも何人も負傷した者が横たわっていた。
それを樹光が懸命に介抱している。
辺りには焼け焦げた臭いが充満し、黒い煙と燻る炎があちこちで見られる。
建物は崩壊し、何も残っていなかった。
「な、何だこれ……」
思わず呟いた湖薄の声を聞いた樹光が他の者の介抱を中断して近づいてきた。
見ると彼の着物や袈裟はところどころが破れてぼろ布のようになっており、煤けてもいた。
「湖薄、無理をしてはいけません。まだ休んでいないと——」
「樹光様っ、これは……」
樹光の言葉を遮るように詰め寄った湖薄に、彼はゆっくりと説明した。
「帝の勅使が突然現れて、異能者を生かしておけないと里を焼き払ったようです。私が近くを通りかかった時にはもうすでに多くが破壊された後でした。瓦礫の下から呻き声が聞こえたので何人か助けましたが動ける者は散り散りに逃げたようですね」
「逃げた? 御形様や皐英は? それに他のみんなも?」
「さぁ。誰が生き残って逃げ延びたのかは私にはわかりません。とにかく、私が助け出せたのはここにいるあなたたちだけなのですよ」
「ひ、檜緒は!? 檜緒はどこですか」
湖薄が迫ると樹光は視線だけで近くに座り込む檜緒を指し示した。
見ると彼女は地面に座り込んだまま、呆然と遠くを見ている。
溌剌とした天真爛漫な少女の見る影もなかった。
「あなたが守ったのですよ」
「守った?」
「瓦礫の下敷きになっていたあなたは檜緒を隠すように覆い被さっていました。顔の火傷はその時に負ったのかもしれませんね」
そう言われても思い出すことができない。
湖薄は樹光が止めるのも聞かずに這うように檜緒の元へ行った。
肩を掴み揺らしても反応がない。
目は開いているのに遠くを見たままで、檜緒の焦点はどこにも合っていない。
「よほど衝撃的なものを見たのかもしれませんね。彼女の心はどこか遠いところにあるようなのです」
追いかけてきた樹光にそう言われ、湖薄はなぜか責任を感じた。
心音がどんどん速くなり、不安が心いっぱいに広がる。
「檜緒……」
すると湖薄の声を聞いた檜緒の瞳に一瞬光が差したように見えた。
何の力にもなれない自分の無力さを噛み締めるように湖薄は檜緒を強く抱きしめた。
こんな小さな少女をここまで追い詰めたものは何なのか。
「湖薄……?」
掠れた声でそう言った檜緒に驚き湖薄はもう1度、彼女の顔を覗き込む。
すると焦点が合い出した檜緒の目から大粒の涙がひとつ溢れた。
「湖薄、湖薄、湖薄っ」
「もう大丈夫だ、檜緒。ずっとそばにいるから。決して離れないから。だから安心しろ」
再度、檜緒を抱きしめた時、湖薄の中に少しずつ記憶が蘇ってきた。
琵琶湖のほとりで檜緒を遊ばせていたことで自分たちは難を逃れたのだ。
黒い煙を見て慌てて戻ってきた時には、すでに惨状になっていた。
御形と修行に出ていた皐英が戻って来ていて火消しを手伝った。
そして——。
「あのね、湖薄。母様が死んじゃったの」
「湖薄っ!」
耳元で叫ぶ檜緒の声で湖薄は目を覚ました。
なぜだろう。
とても不快だ。
遠い記憶のような夢を見ていたようにも思うが、何も思い出すことができない。
湖薄は半泣きの檜緒を見つめ、変な違和感を覚えた。
見下ろす彼女の頭に手を乗せて撫でながら言った。
「檜緒、大きくなったな……」
内容は微塵も覚えていないが、つい口をついて出た言葉がそれだった。
自分でもなぜそんなことを言ったのかはわからなかった。
「な、何ばかなこと言ってるのっ」
檜緒は顔を赤らめた。
「でも、無事でよかった! 馬から落ちるなんて、らしくないわ」
そう言って檜緒は横たわる湖薄に抱きついたのだった。




