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第77話 悔恨の夜

 月華つきはなたち九条家の兄弟が去った華蘭庵からんあんの静寂の中で、百合ゆりはそっと目を開けた。

 見慣れた天井が見えると安堵が広がる。

 顔を傾けると愛娘がすやすやと寝ていた。

 やっと帰って来れたのだと実感した。

 百合は体を起こすのさえ億劫に感じ、そのまま天井を眺めた。

 徐々に体の自由が効かなくなってきているように感じる。

 これは異能のせいなのだろうか。

 やはり月華が言った通り、星祭りに行くべきではなかった。

 あの場に行かなければ、備中国びっちゅうのくにに連れて行かれることもなかったし、他の人を巻き込むこともなかった。

 それに最近は誰かの記憶のような夢を頻繁に見る。

 まるでその人物に自分が侵食されていくかのようだ。

 目を閉じて、次に目を開けた時には自分の存在がなくなってしまっているのでないかと思うほどである。

 目を閉じるのが怖い。

 でも長く意識を保っておくことができない。

 そうして百合はまた眠りの底に落ちていった——。



 偶然、助けることになった男は10日も日を空けてふらっと現れたかと思うと、散歩をしながら自ら芙蓉ふように名を明かした。

 凌霄りょうしょう

 芙蓉が助けた男はそう名乗った。

 それは忘れもしない、復讐を誓った憎き相手の名であった。

 平穏に暮らしていた里を焼き払った帝の名を忘れるはずがない。

 不覚にもあの晩、心を開いてしまったことを彼女は深く後悔したのだった。

 芙蓉は今も変わらず宮中に留め置かれており、上等な着物や住まいと女中を与えられ、姫のような扱いを受けている。

 復讐するために内裏へ入り込み、何とか帝に近づく機会を持てないかと模索していたところに訪れた好機。

 何とかして寝首をかけないものかと画策するも、肝心の凌霄はあれ以来、姿を見せない。

 凌霄が何者なのかわかったあの晩、夜の散歩を終えて戻ったところは登華殿とうかでんと呼ばれる建物だとわかった。

 つまり帝の妃を置いておくところだ。

 命の恩人だからということなのか、凌霄にとっての特別な存在になってしまったらしい。

 なぜこのようなことになってしまったのだろう。

 死にかけていた男を自らの寿命を削ってまで助けたことに後悔はないはずだったのに。

 芙蓉は深い悔恨に呑まれそうだった。

 それでも必ず復讐を遂げる。

 そうでなければ今際の際にこの異能を引き継いで亡くなった桐江きりえにも顔向けができない。

 そんな思いだけが芙蓉の中に残っていた。

 復讐を遂げられないもどかしい日々が過ぎ、さらに数日が経過したある日、女中が凌霄からの贈り物だという1本足のかんざしを持って現れた。

 翡翠の飾りがついたものだった。

 なぜこのような贈り物をされるのかわからないまま呆然としていると女中によってあれよという間に髪を結い上げられた。

 そこにかんざしを差す。

「芙蓉様、お似合いでございます」

 他人から贈り物などされたことがない芙蓉はかんざしを差した自分の姿を手鏡で見て、高揚した。

 普段はおろしたままの長い髪も結い上げればこれほどまでに雰囲気が変わるものか、と。

 まるで別人になったかのようだった。

 不覚ににも赤らんだ顔が鏡に映っているのを見て芙蓉はすぐに鏡を手放し、かんざしを髪から抜き取った。

 ぱさりと髪がおろされ、いつも通りの長い髪の自分を改めて鏡で見て、このままでいいのだと自分に言い聞かせる。

 これ以上、凌霄に心を開いてはいけない。

 かんざしは大事にしまい込むことにした。

 翌日、芙蓉はかんざしのことが気になって女中が不在にしていることをいいことに、再びしまい込んだかんざしを取り出した。

 別人になった時の高揚感が忘れられなかったのだ。

 もう1度だけ、と取り出したかんざしで髪を結い始めた。

 が、慣れないことはするものではない。

 うまく結えなかった上に、試行錯誤しているうちにかんざしの先が指先に刺さった。

 鋭利というほど尖ってはいないが勢いよく刺さったせいで見ると指先から血が出ていた。

 そこへ戻った女中が大騒ぎしたのは言うまでもない。

 だが芙蓉は血が出ていることよりももっと重要なことに気がついた。

 これを首に突き刺せば殺せるかもしれない。

 復讐を遂げたくとも武器がなければ何もできない。

 非力な芙蓉が凌霄の首を絞められるわけでもないし、復讐のためには何らかの武器となるものが必要だった。

 芙蓉は最高の武器を手に入れた、そう思った。

 それ以来、彼女は大人しく室内に留まるようになった。

 そうして凌霄が来るのをじっと待った。

 3日後の夜、芙蓉が復讐を誓っていることを露とも知らない凌霄が登華殿にやって来た。

 やるなら今夜しかない。

 芙蓉はそう思った。

 凌霄が人払いしたのをこれ幸いと、芙蓉は膝を突き合わせて腰を下ろした。

「凌霄様、今宵はどういったご用でしょうか」

 芙蓉は白々しく訊ねた。

「ふむ。用は……特にないのだ。ただそなたの顔が見たかった」

 まるで恋仲の相手に向けるような柔らかな表情を見せる凌霄に芙蓉は戸惑った。

 かつての居場所を奪ったのが帝である。

 しかし使者が勅書を持っていたというだけで、それが本物である証拠はない。

 あれほどの虐殺を指示するのだから、帝とは傲慢で荒々しい人柄のはずだと決めつけていたが、目の前の凌霄が帝であることには違和感を感じる。

 こんな穏やかな顔をする男が虐殺のようなことをするのだろうか、と。

 だが心のどこかでもうひとりの芙蓉が、凌霄は仇だと囁く。

 芙蓉は右の手先をそっと袖に入れた。

 そこには忍ばせたかんざしがある。

 いつでも凌霄に向けられるようにと用意していたからだ。

 これを彼の首筋に刺すには、もっと近づかなくてはならない。

 芙蓉は女子らしく、凌霄に擦り寄ろうとしたが彼はおもむろに懐から1枚の布を取り出した。

 それは美しい桜の刺繍がされた布だった。

「先日贈ったかんざしが手に刺さったそうだな。怪我はしておらぬか」

 凌霄に突然、傷を確認するように左手を掴まれた。

 右手は袖の中に入ったままだった。

 本気で心配してくる凌霄に芙蓉は不覚にもどきりとした。

 すぐに手を引っ込める。

「だ、大事ございませぬ」

「そうか……それなら良いが。ところで……かんざしを差しているところを見せてはくれぬのか」

 かんざしの贈り主は凌霄である。

 本当なら丁重に礼を言って差して見せるのが筋だろうが、芙蓉はそうしなかった。

 なぜなら彼女にとってかんざしは飾るものではなく、復讐の道具だからである。

 だがなぜか芙蓉は袖からかんざしを取り出せなかった。

 今ここでかんざしを凌霄の首に刺せば復讐を遂げられるかもしれないのに。

「では私は仕事があるゆえ、今宵はこれまでだ」

 登華殿を去っていく凌霄の背中を見送ると芙蓉はその場に座り込んだ。

 手元には桜の刺繍が施された布が凌霄の気遣いとともに残っている。

 仇を取る絶好の機会だったはずなのに、なぜあの男の首を狙うことができなかったのか。

 芙蓉は自分でも自分がわからなくなっていた。

 それ以来、芙蓉は凌霄から贈られたかんざしを差すようになった。

 それは小さな心境の変化だったのかもしれない。

 それからさらに数日が経ったある日、白昼堂々と凌霄は登華殿へ駆け込んできた。

「芙蓉、芙蓉はおらぬかっ」

 切迫した様子に芙蓉が出迎えると凌霄はまるで鬼に追われる子どものように縋りついてきた。

「芙蓉、頼む。半刻でよいから匿ってくれ」

 何を言っているのかさっぱりわからなかったが凌霄は有無を言わさず登華殿に入り込んだ。

 芙蓉が目を白黒させていると、

「官吏に追われていてろくに休んでいないのだ。少し休ませてくれぬか」

 とその場に座り込んだ。

 芙蓉もその場に腰を下ろす。

「そのかんざし、使ってくれているのだな」

 嬉しそうにする凌霄に、芙蓉は思わず赤面した。

 するとこともあろうか凌霄は横になって、座った彼女の膝に頭を乗せた。

「り、凌霄様!?」

「しばしこのままで……」

「…………っ」

 芙蓉は困惑したが、嫌ではなかった。

 復讐するべき相手のはずなのに、彼の本当の人柄に触れれば触れるほど、復讐心が揺らいでいく。

 芙蓉の膝枕で目を閉じた凌霄はほくそ笑みながら言った。

「帝とは因果なものだ。下したくない命も下さなければならぬし、全員が納得する答えを出すことなどできぬ。一方を立てれば一方が立たぬのが関の山だ」

 一方を立てれば一方が立たない——つまり片方に傾倒すれば片方からは反感を買うと言うことを言っているのだろう。

「芙蓉——」

「はい」

「私を許せなければ殺しても構わぬぞ」

 唐突にそんなことを言う凌霄を見下ろした芙蓉は一瞬、言葉を失った。

 彼は芙蓉が復讐のために命を狙っていることを知っているのだろうか。

 いや、そんなはずはない。

 そんな素振りを見せたことはないはずである。

 動揺を隠しきれずに、芙蓉が沈黙するとうっすらと目を開けた彼と視線が合った。

 何もかもを受け入れているような、そんな覚悟が見える。

「芙蓉。そなたがここにいるのは私を殺したいほど憎いからなのだろう? 躊躇うことはない。そなたに救われた命だが1度は捨てようとした命だ。ここでそなたの手に討たれるのなら悪くないかもしれぬ」

 凌霄の言うとおりだ。

 今を逃せばこの先、2度と機会はないかもしれない。

 芙蓉は髪に差してあるかんざしに手をかけた。

 躊躇いなく抜き取ると解かれた長い髪が前に垂れる。

 芙蓉は凌霄の眼前でかんざしを握りしめた。

 これを思い切り首に刺せば大量の血が噴き出て、この男は死ぬ。

 自分もすぐに捕えられて極刑に処されるだろうが、復讐を遂げられるのなら本望ではないか。

 そう思うのにかんざしを持つ芙蓉の手は震えていた。

 見かねた凌霄の手が芙蓉の頬に触れる。

「何を躊躇っている? やるなら今しかないぞ」

「なぜ……なぜ、そのようなことを……」

「悪いがそなたのことは調べさせた。私が滝口の近くで苦しんだのは偶然だが、そこに異能を持ったそなたがいたのは都合が良すぎると思ったのだ。そなたがあの里の生き残りだと知ってかなり驚いたがな」

「……知っていたのならなぜ私を捕らえなかったのですか」

「そなたは私の恩人でもあるしな。それに——」

 狼狽える芙蓉をよそに、それまで横になっていた凌霄は半身を起こした。

 そしてかんざしを持つ芙蓉の手を掴み、その1本足の先をあえて自らの首に当てる。

「あの焼き討ちは間違いだった。ああするべきではなかったと今は後悔している」

「こ、後悔するならなぜあのようなことをなさったのですかっ!?」

「あの御形ごぎょうという男を生かしておきたくなかったのだ。あの男は父の時代に多くの命を奪ってきた。だからあの男を始末するための方法が他に思いつかなかった」

「…………」

「あの男が相当な術者で、一筋縄ではいかないことはわかっていた。だが、他の者たちを巻き添えにする必要はなかった」

 凌霄の首に当てられたかんざしの足が彼の手によってさらに首筋に食い込む。

 そのまま刺せば首筋に食い込むだろうに、芙蓉はそうしなかった。

「お、おやめください」

「なぜだ? 殺したいほど憎いのではないのか」

「…………」

「そなたに殺されるなら私は本望だ」

 なおも首に強くかんざしを押し当てる凌霄に、芙蓉は声を荒げて言った。

「できませぬっ」

 こんなはずではなかった。

 里を追われて流れ着いたみやこで知らなかったとはいえ、仇と思っていた帝に出逢い、図らずも言葉を交わすほど親しくなってしまった。

 凌霄が極悪非道な帝なら何も問題はなかったのだ。

 だが実際にはあまりにも想像と違った。

 自分の行いを悔いて、討たれることを望むなど考えもしなかった。

 だからこれ以上、彼を憎み続けることはできない。

「こんなことなら、復讐など考えなければよかった……」

 絞り出した芙蓉の声は涙に震えていた。

 同時にかんざしを持つ手は力なく下されたのだった。

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