第76話 疑惑はとめどなく溢れて
刑部省で少輔たちと別れた九条悠蘭は朱雀門を飛び出した。
九条邸に向けて一路、走り出す。
父、時華に詰め寄ろうと太政官へ寄ったものの、目当ての相手はすでに御所を出た後だった。
なぜ陽の高い時分に帰宅したのかはわからなかったが、悠蘭は父を追いかけて御所を出ざるを得なくなった。
少し傾き始めた陽を眺めながら、悠蘭は頭の中を整理するのに必死だった。
結局、母は何者なのか今だにわからずじまいである。
幼い頃に亡くなってしまった母のことはほとんど記憶にない。
邸の者は全員、禁句であるかのように母の話をしない。
考えてみれば、母がなぜ亡くなったのさえ悠蘭は知らなかった。
母の顔さえ記憶にないのに、母の出自が皇家かもしれないと言われても全く実感がない。
悠蘭はふと、兄の月華のことを思い出した。
兄はどこまで知っているのだろうか。
少なくとも母の記憶はあるに違いない。
兄にはいろいろと訊きたいことがある。
母の話になったきっかけの、榛と呼ぶ弾正尹のことも。
だが残念ながら今は叶わない。
月華は大切な妻を取り戻すために備中国へ行っているのだから。
気落ちしながら邸に向かっていると門の前にいるはずのない兄の姿を見かけた。
慌てて駆け寄り、声を張り上げる。
「兄上っ!」
月華は百合を抱きかかえながら馬を降りた。
「すぐに門を開けろ」
悠蘭の声が聞こえなかったようで月華は珍しく門番に詰め寄っている。
門番が慌てて開門するとそのまま中へ入ろうとしたので悠蘭はもう1度声をかけた。
「兄上、お待ちください!」
息を切らせて追いかけた悠蘭を認めると月華は強張った顔を僅かに緩めた。
「悠蘭、こんなところで何をしている? 今頃は出仕しているはずだろう?」
振り返った月華が抱える百合は腕の中でぐったりとしている。
連れ去られた先で何かあったのではないかと心配した悠蘭は眉根を寄せた。
「出仕はしたのですがちょっと父上に話があって……ってそんなことはどうでもいいのです! 義姉上はご無事なのですか!?」
悠蘭は百合の顔を覗き込んだ。
百合は悠蘭の顔を見るなりわずかに微笑んだ。
意識はあるようで安心したが、彼女はそのまま静かに目を閉じた。
「あ、義姉上!?」
「心配ない。外傷は特にないんだ。悠蘭、菊夏殿は出仕しているのだろう? 悪いが呼び寄せてくれないか。百合のことを預けたい」
「……え?」
「外傷はないが、体調が良くないのは変わりないんだ。頼む」
「菊夏なら……もう邸に戻っているはずです」
「戻っている? どういうことだ」
「出仕していたのですが、顔色が悪いので帰したのです」
「具合が悪いのか」
「いえ、邸まで送ると言ったのですがひとりで帰れると自分で帰宅したので義姉上を看るくらい問題ないと思います」
肩を並べて門を潜った兄弟は家臣の松島を呼ぼうと名前を呼んだが、いつもならすぐに駆けつけてくるはずの彼は気配すらなかった。
何度か呼んだところで、月華の乗っていた馬を引いた門番が言った。
「松島様なら先ほどお出かけになりました」
「出かけた? どこへ?」
悠蘭の問いに門番は首を傾げるだけだった。
「行き先は伺っておりませぬ」
悠蘭は珍しいこともあるものだと首を傾げた。
「おかしいですね」
「何がだ?」
「父上は邸に戻っているはずなのです。父上がいるのに出かけるなんて……使いに出されたのかな」
「何だ? 父上も具合が悪いのか」
「さぁ……理由は訊いていません。あ、兄上……兄上にもお訊きしたいことがあるのですが」
こんな時にする話ではないかもしれない。
内心はそう思ったが、悠蘭はこの胸のもやもやを晴らさなければ何も手につかない状態だった。
叱られた子どものように俯いた悠蘭に月華は小さくため息をついて言った。
「わかった。話は中で聞こう」
百合を抱えたまま歩き出した月華についていくと、彼は華蘭庵に向かった。
池にかかる橋を渡り中島へ到着すると建物のそばに、かつてもうひとりの兄と慕った土御門皐英の慰霊碑があった。
悠蘭はその慰霊碑の前で足を止めた。
頭が混乱する……。
前の左大臣だった近衛柿人に加担して輪廻の華を追っていた皐英。
先帝の残した皇子だった風雅の君の友だったという。
風雅の君は宮中を追われてから備中国にいたのだ。
だが輪廻の華を欲していたのは風雅の君ではなかった。
本当に輪廻の華を、もっと言えば百合が持っている異能を欲しているのは誰なのだろう。
百合を攫った者が備中国に向かったというのだから、彼の国に黒幕がいるのは間違いない。
備中国から百合を連れて戻った月華は全てを知っているのだろうか。
はやる気持ちを抑え、悠蘭は先に行った月華の背中を追って華蘭庵に入った。
中に入るとふたりの女中が交代で花織の世話をしていたようで、月華が眠る百合を連れて帰ったことに驚き、床につく手伝いをするとふたりは静かに辞していった。
悠蘭は眠る妻と娘を愛しげに見下ろす月華に言った。
「兄上、備中国で何があったのですか」
「……気になるのか」
「当たり前ですっ。俺も兄上たちを追う鬼灯様に同行を願い出たのですが、残れと言われて……」
「確かに鬼灯様が正しい。お前は来なくて正解だったよ」
「俺が役に立たないからですか?」
「そうじゃない。備中国の妹尾家はまるで戦場のようだった。武士ではなく官吏であるお前にはあんな惨状は見せたくない」
よく見ると月華の容姿は普段の様子からは想像もつかないほど汚れていた。
泥で汚れているだけでなく、全身に返り血のような染みがあり、顔は鍛冶場を抜けてきたように煤けていた。
それだけで凄惨な戦場であったことは想像できる。
「すべて片付いたのですか」
「いや。俺は棗芽様から百合を受け取ってそのまま出てきた。もしかしたら戦いはまだ続いているかもしれない。だからひと休みしたら備中へ戻るつもりだ」
「え? 戻るのですか?」
「雪柊様や白檀も置いてきたしな。みな百合のために力を貸してくれたし、安全な九条邸に百合を連れてくることができたのだから、次は俺が力を発揮する番だろう?」
月華の決意は揺るぎない。
目を見ているだけでわかる。
あれだけ毛嫌いしていた白檀のことも助けようというのだから、備中へ向かうまでの道中でふたりの間に僅かでも信頼関係が生まれたのだろうことは想像に難くない。
悠蘭は少し嫉妬していた。
同じように役に立つ力を持たない白檀は同行して兄と絆を深めているというのに自分は何も教えてもらえず疎外感を感じている。
それが少し腹立たしかった。
「——だが、備中に戻る前にお前の質問とやらに答えないといけないな。それで? お前が俺に訊きたいこととは何だ? そいういえば父上にも訊きたいことがあって戻ったとか言っていたよな。父上ではなく俺に訊きたいことがあるのか」
そう言われ、悠蘭は唐突に帰宅した目的を思い出した。
白檀に嫉妬している場合ではない。
もっと他にも問題は山積しているのだ。
「父上にお訊きしたかったことと、兄上にお訊きしたかったことは同じです」
「改まってどうしたんだ? まさかまた一生のお願いとか言うんじゃないだろうな?」
「ち、違いますっ。お訊きしたかったのは母上のことです」
「母上の? 今さら何を訊きたいと言うんだ?」
悠蘭は居住まいを正して言った。
「母上は皇家の出身なのですか」
悠蘭の質問が思いがけなかったのか月華は唖然としていた。
じっと目を合わせたまま、何も言おうとしない。
すぐに否定しないということはやはりこれが真実なのだろうか。
「……もしそうだったとしたら、何か問題があるのか」
「否定しないということはやはりそうなのですね、兄上」
月華は答えなかった。
「何度も父上が九条邸に弾正尹様を連れてくることをおかしいと思っていたんです。あの人、母上の親戚なのではないですか?」
「なぜそう思う?」
「始めは父上の婚外子なのかと思いました。でも、今でも母上の打掛を飾るほど母上をあいしていらしたあの父上が外で子を成すなど、やはり考えられません。あの人は朝廷ではどこの家の者か誰にも知られていない。名前すら誰も知らなかったのに、兄上は『榛』と呼んでいた。長年、鎌倉に身を置いていた兄上があの人とそんなに簡単に親しくなるのは、おかしいではないですか。本当は父上も兄上も昔からあの人のことを知っていたのでしょう? もし母上の出自が皇家なら、その親戚の中に家を明かせない弾正尹様がいてもおかしくありませんよ。兄上はご存知だったんでしょう? あの人が母上と関係があることを。そうでなければ説明がつきません。違いますか」
そう言いながらも少し辻褄の合わないところあることを悠蘭は感じていた。
母が皇家の出身だとして、榛と名乗る弾正尹が母と関係があるとすれば皇家とも関係があることになるが、先帝の子は風雅の君と帝しかいないはずである。
母の遠い親戚のような人物を九条家当主と次期当主がそれほど擁護するようには思えなかった。
「お前の推理は近いところにある。だが、正解ではないな。それに、そんなことを知ったところで何か意味はあるのか」
「はぐらかさないでください。なぜみんな隠そうとするのですか。鬼灯様も朝廷の守りを固めよとおっしゃるだけで詳しくは教えてくださらないし。父上も、危険が及ぶから関わるなと言うだけでそれ以上は何も教えてくださらない。その上、兄上まで——」
「父上がそんなことを言ったのか」
「ええ。今朝、禁書を持ち出していたことを見つかって叱られました」
「禁書?」
「『橄欖園遊録』という禁書です。李桜さんは『常闇日記』と『白蓉記』という禁書に目を通しています。紫苑さんや楓殿は他にも……」
「そうか」
月華はおもむろに立ち上がった。
「兄上、どこへ?」
「父上は邸に戻っているのだろう?」
「そのはずですが」
「それなら俺よりももっと詳しい父上から聞きたくはないか? 俺も父上には訊きたいことがあるんだ」
悠蘭はさっさと華蘭庵を出ていった月華の後を慌てて追った。
外に出ると月華は迷いなく寝殿へ向かった。




