第75話 暁の蛍火
夏の夜の内裏は静かだった。
帝である父——凌霄が不在の時に清涼殿を訪れ、弟の榛紀の相手をすることは珍しくない。
腹違いなのに榛紀が兄と慕ってくれるので弟と過ごす刻は白椎にとっても癒しである。
すっかり遅くなってしまったが、図書寮書庫から内緒で持ち出した禁書を写し終えた白椎は原本と写しの両方を懐に入れて清涼殿を出た。
細い体ではふたつの書が懐でかさばったが、彼は落とさないように大事に抱えながら住まいである登華殿へ向かった。
昼間であれば護衛代わりにと常に雪柊がついて歩くがさすがに日も暮れた真っ暗な夜なので護衛は衛府の者が数人ついてくるだけだった。
ここは帝が住まう内裏の中だというのにどこに危険があるというのだろうか。
白椎は常々そう思っていたが、帝の命らしく護衛は遠ざけてもつかず離れずついてくるので、そのうち存在を気にしないようになった。
登華殿は清涼殿よりも少し離れた北側にある。
歩き始めると敷き詰められた砂利を踏みしめる音が妙に大きく響いた。
何となく悪いことをしているような気持ちになる。
父である凌霄は白椎とその母、芙蓉を登華殿から出したがらなかった。
理由は教えられていない。
母はそれに不服を申し立てることなく従っているが、白椎は納得できずにいた。
同じ父の子でありながら榛紀は清涼殿に入り浸っているのに、なぜ自分だけがこそこそと父のいない刻を狙って出入りしなければならないのだろうか。
白椎はそんな不満を常に抱えていた。
北に向かって少し歩き始めるとまもなく建物に沿って作られた水路にいくつもの蛍が光っているのが見えた。
白椎は足を止め、その場に膝を折ると水路で光る蛍をじっと眺めた。
「お前たちは自由にあちこちへ行けてよいな」
無数に光る蛍を眺めて白椎はそんなことを呟いた。
自由に飛び回り、自分のしたいことをして自分の行きたいところへ行く。
そうなれたらどんなに幸せなことだろう。
白椎は内裏の外の世界をほとんど知らない。
どんなに大人顔負けの量の書物を読み漁っても一見は百聞にしかずで、自らの目で見て触れて感じたものに敵うものはない。
だが奥に閉じ込められ、人前に出ることをほとんど許されない今の白椎には望んでも手に入らないものだ。
その上、帝の血を引く者なのだから自由が与えられるはずはないのだ。
小さな肩を落として白椎は帰路についた。
登華殿に戻ると、入口で母の芙蓉が待っていた。
「母上……」
「白椎、榛紀様はどうでしたか」
「どうって……いつも通り何も変わりませんでしたよ」
白椎は冷めた返事を返した。
誰も彼もが榛紀の心配をしている。
それが少し気に入らなかった。
芙蓉の前を通り過ぎようとすると、肩を掴まれた。
「白椎、少し話をしましょう」
今さら何を話そうというのか。
半分不貞腐れながらも白椎は芙蓉に従った。
登華殿の中には驚くほどに何もない。
だだっ広い空間に必要最低限のものだけが置かれており、生活感はない。
それは贅沢を望まない母の希望なのか、自分たち親子を必要としない父の仕打ちなのか。
とにかく白椎はこの登華殿にいることが嫌いだった。
まるで牢獄のように感じていたからである。
芙蓉に促されて置き畳に腰を下ろすと、向かい合って膝をつけた芙蓉が小さくため息をついた。
「白椎。何がそんなに不満なのですか」
「……私はただ蛍のようになりたいだけです」
「蛍?」
「登華殿は窮屈すぎます。母上だって蛍のように自由に飛んでいけた方が幸せではありませんか」
「そうですね。でも私は今のままで十分幸せですよ」
「幸せ? こんな軟禁されているような状態が、ですか!?」
珍しく声を荒げた白椎に芙蓉は微笑んだ。
「軟禁はされていませんよ。私たちは希望すれば自由に登華殿を出られます」
「それは監視の者がついているからです。それを自由とは言いませんよ、母上」
「あなたの父上が望んでいるのですから、これは仕方がないことなのです」
「それは……父上が帝だからですか? 帝の命だから従わないといけないのですか」
「白椎……」
芙蓉に両手を握られ、白椎は両肩に力が入った。
帝を批判するようなことを言ったのだ。
叱られても当然である。
だが、白椎の懸念に反して芙蓉は優しかった。
「父上がここに私たちを置くのは疎ましいからではありません。むしろあの方は恐れているのです、私たちの身に害が及ぶことを」
「恐れている……? 一体何があるというのですか」
「もうあなたも気がついているはずですよ」
そう言うと芙蓉は白椎の前に手を出した。
「懐に隠している私の書を出しなさい、白椎」
白椎の鼓動は急に速まった。
禁書となった芙蓉の書——『常闇日記』を持ち出していることを知られているとは思っていなかった。
持ち出し禁止の上、閲覧制限のある禁書を持ち出していることを知られてしまえばどんな仕打ちが待っているのか想像することもできない。
だから写し終えたらこっそりと書庫に戻すつもりでいたのだ。
なかなか出そうとしない白椎にさらに芙蓉は迫ってきたため、彼は致し方なく自らが写した方をおずおずと差し出した。
受け取った芙蓉は中を確認することなく自らの後ろに書を置いた。
白椎は内心、安堵した。
写しであることには気がついていないようである。
「これは明日、書庫に戻しておきます。白椎、禁書を持ち出すなど罪に問われるとは考えなかったのですか」
「……申し訳ありません」
「責めたいわけではありません。あなたの身に危険が及ぶことが心配なのです。あなたは帝の血を引く皇子です。禁書を持ち出したところで厳罰に処されることはないでしょう。ですが、この書に関わることはあなたの身を滅ぼすことになるかもしれないのです」
身を滅ぼすことになる、とはどういう意味だろうか。
白椎が言葉を失っていると芙蓉はまるで幼子をあやすように白椎の頭を撫でた。
「白椎、この書の内容は忘れなさい」
「……母上、この書に書いてあった常闇の術という力をお持ちなのですか」
「……ええ。ある方から受け継ぎました。ですがもう使うことはないでしょう。何より、この異能を使うことを凌霄様がお許しにならないから」
「父上もご存知なのですか」
「私がこの異能で父上をお救いしたことがご縁だったのですよ。でも今はこの内裏に来たことが間違いだったのではないかと思います」
芙蓉に抱きしめられ、ぬくもりを感じる反面、その手は小刻みに震えているのを白椎はかすかに感じていた。
その後、芙蓉に促されて白椎は床についた。
日付もとうに変わった深い夜のはずなのに、白椎は目が冴えて全く眠れなかった。
ぼんやりと天井を眺めながら考える。
常闇の術という異能を持った母はこの内裏で父と出逢った。
あの異能のことを考えれば母は父の命の恩人といったところだろう。
父は我々に害が及ぶことを恐れていて、登華殿に置いているという。
つまりそれは母の異能を狙っている者がいる、ということだろうか……。
白椎は考えれば考えるほど謎が深まるような気がして余計目が覚めてしまった。
気がつくと外が明るくなってきているようである。
おもむろに床から出ると白椎は登華殿を出た。
さすがに誰もが寝入っている時分とあって、ついてくるものは誰もいない。
薄暗い中を散歩がてら歩いているとうっすらと蛍火が見えた。
蛍火はひとつ。
そこは昨晩、蛍を眺めた水路だった。
「こんな暁にまだいるなんて……」
ひとりごちて近づくと、消えそうな光を放つ1匹の蛍に釘付けになる。
本来、蛍は夜にしか光らないはずなのに明け方に光っているのはほとんど見たことがない。
「まるで命を燃やしているみたいですね」
急に背中から声をかけられ、驚いて振り返るとそこには弟の榛紀が立っていた。
「し、榛紀!?」
思わず大きな声を出してしまったがすぐに両手で口を押さえた。
榛紀も口元に人差し指を立てている。
「兄上、そんな大きな声を出されては蛍も逃げてしまいます」
気にするところはそこか、などと思ったが白椎は黙って頷き声を潜めた。
「こんなところで何をしているのですか」
「それは兄上も一緒でしょう?」
屈託なく微笑む榛紀を見ていると心が和む。
それまで悩んでいたことが馬鹿らしくなってきたほどだった。
羨ましく思う相手であっても弟を愛しいと思う気持ちに変わりはない。
「何だか目が覚めてしまったのです。兄上も同じでは?」
白椎は大人びたことを言う弟の頭を撫でた。
「蛍を見ていたのですか」
「ええ。偶然ですが。こんな時分にまだ光っているなんて珍しいと思いまして」
「本当ですね」
「蛍は死んでもなお光ると言います。もう命が燃え尽きているのかもしれませんね」
「寂しいですね」
「え?」
「この蛍は1匹だけではないですか。ひとりで死んでいくなんて……寂しいです」
「……そう、ですね」
ひとりで死んでいくのは寂しい。
なぜだか年下であるはずの榛紀の言葉がぐさりと重く刺さった。
「でも私と兄上はこれからもずっと一緒ですから、死ぬ時も一緒ですね」
「何を言っているのですか、榛紀。私はあなたより年上なのですから私の方が先に死ぬに決まっているでしょう」
「そ、そんなの、嫌です! 兄上にもしものことがあった時は私も一緒に——」
「馬鹿をおっしゃい。そんなこと、私が許しませんよ」
兄弟は互いの顔を見合って笑った。
暁の蛍火を見た朝の記憶。
それはもう遠い記憶の彼方に封印されてしまったものだと思っていた——。
木陰とはいえ、夏の日差しは容赦なく体力を奪う。
「榛紀……」
夢にうなされた白檀は目を開いた。
心配そうに見下ろす雪柊の顔が目に入る。
「お目覚めですか、白椎様」
「雪柊……」
「随分とうなされていらっしゃいましたが、悪夢でもご覧になりましたか」
「悪夢? 悪夢といえば悪夢か……。遠い昔のことです」
体を起こした白檀は言った。
「あれからどれだけ刻が過ぎましたか?」
「さあて、どれくらいでしょうね。1刻ほどではないでしょうか」
「大変だ、急がないと……。百合の元へ早く——」
立ちあがろうとした白檀の視線の先に砂煙を上げて近づいてくる影があった。
雪柊とともに目を細めているとそれはどんどん近づいてくる。
「雪柊、あれは何でしょう……」
「…………」
ふたりの視線にも気づかずに影は彼らの目前を通り過ぎていく。
それは1頭の馬だった。
駆け抜ける瞬間に見えたのは、駿足の馬を操る黒い影。
その横顔には見覚えがある。
舞い上がる砂埃にひとしきり咳き込んでから、去っていった影を見つめ、彼らは驚愕した。
「あれは……御形!?」
白檀の叫びに雪柊も頷いた。
「間違いありません。ですが、あの男、どこへ向かっているのでしょうか」
白檀も同じことを考えた。
備中国の妹尾家にいるはずの御形がなぜ同じ道を辿っているのだろうか。
妹尾家には北条鬼灯たちが討ち入りしたのだ。
邸の騒ぎに気づいて出てきたとしても、そう簡単に邸を出られるはずがない。
「まさか、鬼灯たちに何かあったのでは……」
「白椎様、あの男を追いましょう」
「え? 鬼灯たちのところへ戻らなくていいのですか」
「何かあったのは間違いないでしょうが、今はあの男を追うのが先です。あの男、おそらく百合を追っているのでしょう。もし百合の異能を欲しているのなら、月華だけでは荷が重いかもしれません」
そう言うと雪柊はすぐに支度を整えた。
確かに術を使う御形との対峙は死闘を極めるものになるだろうが、鬼灯と棗芽のふたりがいたにも関わらずそれを振り切って邸を出てきたことを考えると武将たちも無事ではないのかもしれない。
「雪柊、やはり——」
戻ろう、と声をかけようとしたが支度を終えた雪柊を見て白檀は何も言えなくなった。
拳は強く握られ、肩は震えている。
「いや、何でもありません。急ぎましょう、雪柊」
馬の背に乗った雪柊の後ろに乗ると白檀は気持ちを新たに京を目指した。




