第74話 孤独な刻の想い
寝不足のせいでまだ半分眠気が漂う中、今出川楓は案内された九条邸の寝殿の入口で菊夏と並んで控えていた。
突然、訪ねてきたらしい目の前の橘萩尾という男は、全身が汚れていた。
備中国から長旅をしてきたことは明らかだった。
彼の国は楓の姉である梓の嫁ぎ先である。
以前、義兄である妹尾敦盛から風雅の君の世話を頼まれたことがここに繋がってくるのかと思うと楓は複雑な気持ちになった。
あの時はまだ何も知らなかったからだ。
風雅の君のことも本当にただの茶人だと思っていたし、月華の妻である百合を狙っているのが妹尾家であることも知らなかった。
もしかしたら梓が妹尾家に嫁ぐことになったことも仕組まれていたのかもしれない。
梓が嫁ぐことになったのは、朝廷に仕えていた父の不手際を隠蔽する代わりに前の左大臣——近衛柿人から打診されたものだった。
今出川家のためになるなら、とふたつ返事で嫁いていった姉だったが、楓が西園寺李桜と親しくしてきたことを、利用価値があると思わせたのかもしれないとさえ思う。
近衛柿人が本気で倒幕と新しい朝廷を望んでいたのなら、官吏の中にも手助けする者は必要だっただろう。
実際には柿人が画策している途中で六波羅に征伐されることになったが、恩を売った今出川家を利用していた可能性があるのではないだろうか
近衛家と敵対する九条家、野心家の割に他の指示を受けることを嫌う鷹司家、何を考えているかわからない一条家や二条家を取り込むよりも、ある程度恩を売った清華家あたりが都合よかったのもしれない。
これまで友人たちが巻き込まれてきた様々な事件と自分は無関係だとある種、1歩引いて見てきたが気がついていなかっただけでむしろその中心にいたことを楓は改めて実感したのだった。
無意識に深いため息をつくと隣に並んでいる菊夏がぽつりと言った。
「申し訳ありません、楓様。変なことに巻き込んでしまったようで」
「あ、いや、別に菊夏殿のせいではない」
「何だか、いつも私はみなさんを巻き込んでしまっていますね。薬師として京に来たばかりの頃にも楓様に迷惑をかけたことがありましたものね」
菊夏は視線を時華たちに向けたまま、小さく苦笑した。
李桜と椿が仲違いしそうになっていた時のことを言っているのだろう。
何か月か前のことなのにもう随分と前のことのように感じる。
「迷惑だと思ったことはない、楓殿。私こそ、みなを巻き込んでいる元凶に最も近いところにいるのだから、謝らなければならないのは私の方だ」
「元凶? それはどういう——」
菊夏が問いかけたところで楓は思わず彼女を手で制して前のめりになった。
気がかりに思っていた言葉が不意に聞こえてきたからである。
——その名は『鳳仙呪録』で見た。
そのひと言で楓は凍りついた。
今朝方、紫苑たちと目を通していた禁書の内容が鮮明に蘇ってくる。
その禁書は2代前の帝の記録であり、途中で読むのをやめてしまったほど生々しい悪行の数々が残されていたものだった。
時華と萩尾は向かい合って1通の文について話しているようだが、内容はさっぱり要領を得ない。
あのおぞましい内容とふたりの間にある文は関係あるのだろうか。
耳を澄ませていると間もなく時華の後ろに控えていた松島が1通の文を手に寝殿を出て行った。
腹心とも言える彼をこのような状況で一体どこに使いに出したのだろうか。
「橘萩尾。そなたが何者で、なぜ皇家の皇子たちのことを案じておるのか、全て吐いてもらうことになるが、覚悟はできておるのだろうな?」
そう、時華が厳しいひと言を放ったところで、はやる気持ちが前に出過ぎた楓は前のめりになり過ぎて思わず転がりそうになる体を支えるために膝の前に強く左手をついた。
怪我をしている右手は使えない。
何とか左手1本で体重を支えたが腰は半分浮いたような状態だ。
大きな音を立てた楓がその場にいた3人の注目を集めたことは言うまでもなかった。
「何だ、楓。何か言いたいことでもあるのか」
訝しげな時華の視線に晒され、居心地悪そうにたじろいだ楓に助け舟を出したのは意外にも萩尾だった。
「時華様。長い話にになりますから彼らにも聞いてもらうというのはどうでしょうか?」
「何だと?」
「私は長年、彼の姉が嫁いだ家で暮らしていたのです。彼もそんなことが気になるのではないでしょうか。それにこれから話すことは彼女の義姉のことも含まれますので」
穏やかに微笑む萩尾の視線に、大人しく状況を見守ることすらできなかった自分の狭量に楓は赤面した。
結局、呆れた時華に近くへ呼び寄せられ、楓と菊夏が揃ったところで萩尾はおもむろに口を開いたのだった。
「さて、何からお話ししましょうか……。そうだな、まずは私の話からいたしましょう」
「ぜひそうしてくれ。私はいまだにそなたが何者なのかわかっておらぬのだからな」
時華の不機嫌な顔を見た萩尾は小さく笑った。
「ははは。これは手厳しい。ですが当然のことですね。私は、かつて朝廷で官吏をしておりました。代々宮内省に勤めておりましたが偶然、何の因果がある時、先帝の凌霄陛下と出会うきっかけがありました。以来、おこがましくも友と呼べるほど親しくさせていただいていたのです」
「初耳だな。先帝が風早橄欖を可愛がっておられたことは知っていたが」
「その橄欖を先帝にお引き合わせしたのは私なのです。しばらくは平和な朝廷勤めをしていたのですが、鳳仙陛下が崩御され、凌霄陛下の御世になった時から、あの方は朝廷の改革を徐々に打ち出し始めました。それまでの家格を重んじる政策から実力を重んじる方向へと舵を切ったのです。そのあたりは時華様もご存知なのではないですか」
「確かに……私もまだ駆け出しの頃だったが、目まぐるしく官吏たちが入れ替わったことを朧げながら思えている……ん? そなた、もしやあの頃の弾正尹か!?」
萩尾は軽く頷いた。
「そうか……どこかで見たことがあるような気がしておった」
「弾正尹は帝に直接奏上できる権限を持っておりますから、私もよく内裏を出入りしておりました」
「あの頃の弾正尹といえば誰も関わりたがらないほど恐れられておったからな。その名残りが今も朝廷の中にある」
楓は弾正尹と聞いて謂れもなく背筋に冷たいものを感じた。
全ての官吏が関わりたくないと思っているのは確かだろう。
「あの頃の私は毎日のように官吏たちの不正を暴いておりましたからね。そもそも弾正尹の職に就くのは不本意だったのですが、これが友のためになるなら、と歯を食いしばっておりました。来る日も来る日も帝のために働いたはずが、ある日私の知らないところで事件が起こってしまったのです」
「事件?」
「ええ。その時はそうは思いませんでしたが今思えば凌霄陛下、唯一の間違いだったと思います」
眉をひそめる時華をよそに萩尾は続けた。
「時華様、『鳳仙呪録に登場する御形という陰陽師のことは覚えておいでですか」
「そなたが危険だと言っている人物のことだろう?」
「そうです。御形は鳳仙陛下の崩御を機に職を辞して朝廷を去りました。そのまま放っておけばよかったものを、凌霄陛下は彼が暮らしていた里を攻め、御形だけでなく他の者をも、もろとも焼き払ってしまった。これが全ての始まりなのです」
「焼き払った?」
「私もどの程度のことなのかは存じませんが、凌霄陛下がおっしゃっていたのは、御形のような力を持った者が存在するとそれを利用しようとする輩が現れるから、全てを滅する必要があったということでした」
横で聞いていた楓は固唾を呑んだ。
滅するということは、跡形もなく、ということである。
つまりは女子どもに限らず、全てを排除するということを指している。
その里にどれほどの人々が暮らしていたのかは、焼かれてしまったというのだからわかりようもないが、老若男女が暮らしていたとすれば、まるで地獄絵図のような光景だったに違いない。
「で、でもそれってひとりでも生き残った人がいたら相当な恨みを買うのでは——」
両手を口元に当てながら驚愕な表情を見せる菊夏が思わず呟いた。
楓も同じことを考えていた。
もし、他の人とは少し違う能力を持っていただけでただ静かに暮らしていた者たちだったのなら、それは大義名分を掲げているようで、実はただの虐殺ではないか。
楓は固唾を呑んだ。
「その通りです、菊夏殿。私は凌霄陛下からこの焼き討ちの話を聞いた時からそのことを懸念していました。もし生き残った者がいれば当然、帝へ大いなる災いをもたらすかもしれないと思ったです。そして恐ろしいことに御形こそが難を逃れ生き残った」
「つまり災いの種である、と?」
「間違いないでしょう。もう凌霄陛下はおりませんので、その御子であるふたりの皇子を狙っているはずです。だから御形から彼らを守らねばなりません」
「わからぬな。そもそもそなたは今、朝廷を離れているではないか。凌霄陛下の御世で起こったことだとすればあれから随分と刻が経っておる。どうして今もその御形とやらが凌霄陛下の子孫を狙っていると言えるのだ?」
「私が朝廷を離れたのは御形を追うためです。御形は稀代の陰陽師、簡単に立ち向かえるはずはありませんでした。ですから別の者を焚きつけて御形を巻き込み、最も近くで監視することから始めることにしました。近くで監視することで何か行動を起こす時にはすぐに対処できるようにしようと思っていたのです。そしていつか御形に立ち向かえる力を持つ方と通じて機会を待とう、と」
「……それが備中の妹尾家だったというのですか」
楓の問いに萩尾は無言で頷いた。
その後も萩尾の話は延々と続いた。
萩尾が潜伏していた妹尾家の当主こそが前の左大臣を取り込み倒幕を目論んでいたこと、萩尾がそれに加担するふりをしながら情報収集活動をしていたこと、御形という陰陽師の動きを監視するために妹尾家に迎え入れたことなどが事細かに語られたが、楓からすればにわかに信じがたいことばかりだった。
楓が困惑していると、それまで静聴していた時華が口を開いた。
「風雅の君を備中に引き取ったのはなぜだ? もし御形とやらが凌霄陛下に恨みを持っていたのなら、敵の子をそばに置くということにならぬか?」
「まあ、そうなりますね」
「何だ、随分と歯切れが悪いな」
「助けた、というより罪滅ぼしのような気持ちが強かったと思います」
「罪滅ぼし?」
「橄欖が凌霄陛下に毒を盛らざるを得ない状況になってしまったのは半分、私のせいでもありるのです。橄欖が窮地の時には必ず力になると誓っていたのに私は友の事情にすら気づいていなかったのですから」
「…………」
「御形がどこで橄欖と接触したのかは不明ですが、橄欖を脅し、彼の弟子であった白椎様の手で凌霄陛下の命を奪おうとしたのはあの男に間違いないのです。ですから私は妹尾家の者たちに提案しました。風雅の君を引き取り、将来の傀儡として育てよう、と。倒幕を達成し朝廷をひっくり返したとしても帝を軟禁しておくことは現実的ではありません。今の帝を支持する者たちが必ず反乱を起こすからです」
「たがら傀儡を用意しようとしたわけか。だがあの方は大人しく傀儡になるような器の方ではないぞ」
「わかっております。時が来たら白椎様には私からことの顛末をご説明するつもりでした。何よりもあの時は備中に受け入れるより他にあの方を守る方法がなかった」
「敵の子を受け入れることをよく承服させたものだ」
「御形は難色を示していましたが、最後には受け入れましたね。凌霄陛下を殺したいほど憎んでいたはずですが、備中に引き取ってからは白椎様に手を出そうとはしませんでした。もしかしたら、私が監視していると勘繰っていたのかもしれない」
視線を落とす萩尾を楓は黙って見つめた。
これまでの萩尾の話は簡単にまとめられているものの、想像がつかないほどの長い年月が凝縮されていることは想像に難くない。
冷静に考えてみれば、橘萩尾という男はその人生のほとんどを先帝の凌霄に捧げたようなものである。
友であった凌霄も橄欖もすでにこの世にはなく、守ろうとする凌霄の御子たちもおそらく萩尾の存在がどういったものなのかは理解していないに違いない。
気の遠くなるほどの長い刻を孤独に生きてきた萩尾のことを想うと楓は胸が痛かった。




