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第73話 最後の望み

 偶然、邸の前で遭遇した菊夏きっかの案内で橘萩尾たちばなはぎおは九条邸の中に入った。

 かつてはみやこで暮らし、官吏として先帝のそばに仕えた萩尾も九条邸の中に入るのは初めてのことだった。

 よく管理された邸は建物の綻びひとつない。

 庭には雑草もなく、美しく剪定された草花が並ぶ。

 池の中島には、まるで池に浮かぶように建てられた茶室のような建物があった。

 摂家らしく伝統的な寝殿造の邸の中に書院造に似た建物が異彩を放っているのが気になった萩尾は思わず前を行く菊夏に声をかけた。

「菊夏殿、あの建物は何ですか?」

 萩尾が指差す方向を確認した菊夏は微笑んで答えた。

「あれは『華蘭庵からんあん』といって義父が近年建てたものらしいです。私が嫁いできた時にはすでに九条家の嫡子一家が暮らしておりました。もっと広い邸を、と義父も薦められたようですがあの狭い建物がいいと申しているようですよ。残念ながら今は誰もおりませんが」

「…………」

 視線を落とす菊夏に、萩尾は状況を理解した。

 九条家嫡子の妻は輪廻の華。

 その輪廻の華は妹尾敦盛せのおあつもりの手によって今は備中国びっちゅうのくににあるのだ。

 九条月華くじょうつきはなが必ず妻を取り戻しに来ると踏んで、萩尾はひとりで備中を出たのである。

(月華はまだ備中から戻っていないのか)

 輪廻の華を一緒に連れてこられればよかったが、乗り慣れない馬での移動を考えると、誰かを連れてというのは容易ではなかった。

 それにしても……。

 御形ごぎょうはなぜあれほど輪廻の華に執着するのだろうか。

 初めはあの異能を利用して人心を掴む道具にしようとしているのだと思っていた。

 だが、よく考えてみれば彼女の存在があったところで、それほど効果があるとは思えない。

 かつて彼女が輪廻の華と呼ばれるに至った奥州での戦いでは、彼女自身がその奥州の姫であったから最大の効果を得たのだ。

 それが彼女のことを誰も知らないような西国で祭り上げたところで何の役に立つというのか——萩尾は妹尾家で三公と呼ばれる立場にありながらずっと疑問に感じていたのだった。

「……様」

 おそらく御形には他に目的があるのだ。

 輪廻の華の異能を必要とするような。

「……尾様」

 だがどんな目的があろうと、これ以上御形に何もさせるつもりはない。

 橄欖かんらんの復讐をするためにも。

 そのために京まで舞い戻ったのだから。

「萩尾様っ」

 菊夏の一喝で我に返った萩尾は目を見開いた。

 菊夏もかえでも奇妙な視線を向けている。

 どうやらひとりで考え込み過ぎていたようだ。

「萩尾様、どうなさいました? 先ほどから何度もお呼びしたのにお返事がないので心配しました」

「あ、申し訳ありませぬ。すっかり考えごとをしておりました。それで、何の話でしたでしょうか」

「あちらに出迎えがおります」

 菊夏は示した先に見知らぬ人物が立っており、こちらに向かって深く頭を下げていた。

 それは寝殿へ向かう回廊の先であった。

「あちらは?」

「九条家家臣の松島です」

 顔を上げた松島を見て、萩尾はかつて弾正台だんじょうだいにいた頃の官吏の話を思い出した。

 時華ときはなの命を狙った暗殺者。

 当時の官吏は偶然道を訊いてきたという松島のことを暗殺者には見えなかったと言ったが、それは間違いなかったようだ。

 温和そうな男は緊張した面持ちで近づいてきた。

 互いに歩みを進めて対面すると、松島は言った。

「主の元へご案内いたします」

 九条家の家臣が板につき過ぎていて、とても元暗殺者には見えなった。

 


 寝殿に顔を揃えた一同は萩尾が何を言い出すのかと固唾を呑んでいるようだった。

 それもそのはずである。

 事前に文を出しているとはいえ、顔見知りでもない男が突然訪ねてきたのだ。

 不審に思わないはずはない。

 むしろよく邸に入れてもらえたものだ、と萩尾は時華の度量の広さに感心したのだった。

 寝殿に入って最初に目に入ったのは、飾られた美しい打掛だった。

 誰のものであるのかは容易に想像がつく。

 亡き蘭子らんこのものを今でも大事にしているところを見ると、転がり込んできた姫を仕方なく娶ったというわけではなさそうである。

 時華の蘭子への深い愛を感じた。

 促されて置き畳に膝を折った萩尾は向かい合う時華の顔をまじまじと見た。

 自分と等しく歳は取っているはずだが、内裏の中で何度が見かけたことがある、かつての印象とほとんど変わっていないことに萩尾は大層驚いた。

 現役の大臣であるだけでなく、九条家当主としての責務も抱える彼は歳を取っている暇もないのだろうか。

 それに比べてすっかり若さを失った自身を顧みて萩尾はうんざりしたのだった。

鳶尾誠とびおまことを使って私に文を寄越したのはそなたか?」

 時華は懐から文を取り出すと萩尾の前に出した。

 前振りも何もなく発せられた直球な物言いに萩尾は面食らった。

 何者か訊ねられるのではないかと身構えていたが、萩尾が何者なのかということよりも文にしたためた内容を確認したいという意思の表れなのだろう。

 その合理的な考え方に萩尾は大いに共感した。

「鳶尾? 山科やましなではなく? 私は山科にこの文を託したのですがどこでそうなったのやら……」

「何? 山科も一枚噛んでおるのか? あいつ、知らぬなどと……まあ今となってはもうどうでもよい。その文の差出人がそなたなのであれば直接訊けばよいだけのことだ」

 腕を組んで苦い表情を表に出す時華を見て、萩尾は急に笑い出した。

 どんな身分かも何者かもわからない見ず知らずの者と対等に会話する時華が急に愉快に思えた。

 本来なら時華は簡単に口を聞くことも許されない立場である。

 それなのにまるでかつての友に話すかのように接してくる時華に萩尾は感服した。

「いや、失礼。あなたがあまりにも普通にしていらっしゃるので、急におかしくなってしまいまして」

「普通だと? 私はそなたのことを十分不審に思っている」

「そうでしょうか。あなたほどの身分の方であれば、私のような不躾な者と直接口を聞くなど、それこそあり得ないのではないですか」

「くだらぬ。身分で人となりが変わるのか? その者をかたち造っているのは身分や権力ではない。私はそなたがなぜそのような文を私に寄越したのかと、この内容は真実なのかということを問いただしたいだけだ。それ以上でもそれ以下でもない」

 萩尾は時華を頼って間違いがなかったことを改めて痛感した。

 まさに時華は身分や権力ではなく実力を重んじるべき、と朝廷の改革をしようとしていた凌霄りょうしょうの考えを継承している。

 時華に支えられてきた現帝は本当に幸運だったと思う。

「あなたのような方が今の朝廷にいて下さることに感謝します。これで私が長年してきたことも報われる」

「……それはどういう意味だ」

 手元の文を時華に差し戻して萩尾は言った。

「この文にしたためたことは全て真実です。危険が迫っておりますので、何とかあなたのお力添えをお願いしたいのです」

 萩尾は深々と首を垂れ、額を畳に擦り付けた。

 しばらくの沈黙の後、時華はため息を漏らして言った。

榛紀しんき様や白椎はくすい様に危険が迫っているというのは本当なのだな?」

 萩尾は顔を上げるとしっかりと頷いた。

 眉唾ものと思われても仕方がない、時華にとっては根拠のない文の内容が真実であることを補填するには自らが赴くしかなかった。

 御形を備中国に残したまま出てきたため、動向を探れないことが一抹の不安を残す要素ではあったが、信頼できる力を持った者の助けがなければ自分ひとりの力だけではどうしようもないことはわかっていた。

「おふたりを狙っているという人物の名が書かれてあったが、あの御形というのは亡き鳳仙ほうせん陛下の御世で活躍していたという稀代の陰陽師のことなのか?」

「御形のことをご存知だったのですか」

「いや。くだんの人物については知らぬがその名は『鳳仙呪録ほうせんしゅろく』で見た」

「おっしゃる通り、御形は鳳仙陛下が頼みにされていた陰陽師です。『鳳仙呪録あれ』をご覧になったのでしたら、御形がどういう能力を持ち、どれだけ非情であるかご存知でしょう?」

「……他の2名は? 檜緒ひお湖薄こはくというのは何者なのだ? このふたりも術者なのか」

「それは……実はよくわからないのです。ですが御形の指示で動いているは確かです。危険であるのは変わりないかと」

 時華は腕を組みながら唸った。

 当然の反応だろう。

 『鳳仙呪録』に書かれている内容を知っているのなら、なおさらである。

 かつて鳳仙が楯突く官吏たちを人知れず闇に葬った記録は生々しく、まともな人間なら最後まで読むことはできないほど、おぞましいことが書かれているのだから。

 しばらく考え込んでいた時華は控えている家臣に筆と紙を持って来させると、さらさらと文をしたため始めた。

 あっという間に書き終えるとそれを松島へ差し出す。

「松島、榛紀様は内裏に戻られたと申したな?」

「……はい、さようでございます」

「ではお前は今から、お迎えに行くのだ。この文をあの方に直接手渡せ。私の署名を見れば内裏の者はお前を取り継いでくれる。幸い、榛紀様はお前の顔をご存知だ。お会いできれば従ってくださるだろう」

「あの……時華様、文には何とお書きに?」

「心の臓の病が再発して胸が苦しい。もう長くないかもしれぬから最期にひと目でもお会いしたい、と書いておいた」

 面食らった松島だったが、何も言わずにその場を辞していった。

 それ以上、確認することはないと理解したのだろう。

 長年の絆は揺るぎないもののようだ。

 萩尾はふと疑問に思ったことを時華に訊ねた。

「時華様、心の臓を患っていらっしゃるのですか」

「あれは嘘だ」

「……は?」

「かつては患っていたこともあるが今はよくなっておる。榛紀様は意外と頑固な方でな。こうでもしないと、危険だからと申し上げても動いてくださるような方ではないのだ。だがあそこまで書けばすぐに飛んでいらっしゃることだろう」

 とんだ狸だ。

 萩尾は内心、そう思ったがあえて口にはしなかった。

 嘘も方便とはよく言ったものである。

「ところで、風雅の君はお見かけになっていらっしゃいませんか」

「ああ、お会いした。だが今はここにはおられぬ」

「ではどちらへ?」

「今は私の愚息とともに嫁を取り返しに備中国へ行っておる」

「…………」

 風雅の君を追って出ていだはずの敦盛が輪廻の華を拾って戻った折には、行方がわからなくなっていたが、京に来ていたのか。

 しかも入れ違いに備中へとんぼ返りしていたとは。

「風雅の君はただの茶人のはず。一緒に出かけたところで何の役にも立たないと思いますが、なぜ……?」

「風雅の君自身の強い希望であったからな。まぁ、愚息に加えて鎌倉の猛将も一緒のはずだから、滅多なことはなかろう。そんなことより——」

 時華はうすら笑いを浮かべながら言った。

「橘萩尾。そなたが何者で、なぜ皇家の皇子たちのことを案じておるのか、全て吐いてもらうことになるが、覚悟はできておるのだろうな?」

 まっすぐに見つめてくる時華の瞳はまるで獰猛な獣のように萩尾を捕らえて離さなかった。

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