第72話 蘭子の影
「それで、お前は何を聞きたいんだ? あの禁書、読んだんだろう?」
紫苑は腕を組みながら言った。
人払いした室内は静寂で満たされており、彼の声はよく通った。
日頃から声は大きい方だが、静寂の中では一際大きく聞こえる。
内緒話をするには向いていない類だ。
紫苑が杏弥の隣に陣取っていたので、悠蘭と李桜は文机を挟んで向かいに腰を下ろした。
「読んだよ。でもあんたが言うとおり謎は深まった」
李桜は顔をしかめた。
「だろう? 俺も何とか月華の助けになりたいと思っていろいろ調べたんだが、あれはひと筋縄ではいかねぇな」
「確かにね」
「いくつもの事件が複雑に絡み合ってる。おまけに関係者はほとんど亡くなって確認しようがねぇから、余計に難しくなってるんだろうな」
ふたりがそんな会話をしているそばで悠蘭は彼らの話を耳に入れながら話題とは違うことを考えるという器用なことをしていた。
考えていたのは『橄欖園遊録』のことだった。
無理やりに李桜から押し付けられた禁書である。
それには先帝——凌霄が友人のようにそばに置いていたという茶人、風早橄欖が毒を盛って帝を弑逆しようとした事件について書かれていた。
その禁書によって風雅の君こと白檀と名乗る先帝の御子がなぜ備中国に行くことになったのかはわかったが、結局あの事件がなぜ起こったのかは何もわからなかった。
「後は当時、この朝廷にいたかも知れねぇ人物に片っ端から訊いて歩くか、読みきれなかった禁書をさらに漁るかだな」
「当時、朝廷にいた官吏か……何人か心当たりがあるよ」
「本当か?」
「中務省に生き字引みたいな官吏がひとりいる。それに最近、右大臣様の計らいで宮内省から異動してきた男も昔は中務省にいたって言ってたよ。もしかしたら鳶尾も何か知ってるかも」
「へぇ。叩けば何か出てくるかもな。そういや右大臣様だってある意味、生き字引だよな?」
紫苑と李桜の会話を聞きながら、悠蘭はふと朝、図書寮の書庫で偶然、父に遭遇したことを思い出した。
——この私でも調べものをすることはある。
時華はそう言っていたが一体何を調べていたのだろうか。
奥から出てきたことから察すると禁書の棚で何かを探していたに違いない。
『橄欖園遊録』を取り上げられた時の様子も少しおかしくはなかっただろうか。
それを持ち出して読んでいたことをまるで驚いていなかったし、しまいには関わるなと忠告してきたくらいである。
「久我紫苑、お前は恐ろしいやつだな。九条家当主を問い詰めようなどと」
それまで静観していた杏弥が言った。
書き物を中断して偉そうにふんぞり返っている。
今置かれている状況をどこまでも理解していない男だ。
「問い詰めるなんて人聞きの悪いことを言うな。俺はただ時華様も何かご存知なんじゃねぇかと思ってるだけだ」
「九条家当主はあの名無しの弾正尹とも親しいのだぞ? お前は朝廷を追われるのが怖くないのか」
「俺は清廉潔白だっ! 追われるわけねぇだろ。お前と一緒にするな」
杏弥の余計なひと言に紫苑が噛み付いた。
しかし悠蘭は内心、杏弥の言うことにも一理あると思っていた。
なぜ弾正尹が時華と親しくしているのか、おそらく九条家の中で悠蘭だけがわかっていない。
弾正尹の年齢は兄の月華とさほど変わらないように見える。
そんな息子とも思えるほど年の離れた者と友人だと言うには無理があるように思えてならない。
「名無しなわけないじゃないか」
杏弥に反論した李桜は冷笑した。
「誰も名を知らないのだから名無しも同然ではないか」
「あの人、『榛』とかって名乗ってたよ。本名かどうかは知らないけど。少なくとも月華は榛って呼んでたね」
「何だと? 九条家当主といい、九条月華といい、なぜそれほど弾正尹と親しいのだ。親子ともども仲がいいなどと、まるで親戚ではないか」
そう、まるで親戚のようだ。
榛と名乗る弾正尹の彼に危機が及ぶと父が手助けしているように見える。
何の関係もない者の面倒を見るほど暇ではないはずである。
ふたりの間には特別な関係があるに違いないのだ。
まさか婚外子……!?
「いや、父上に限ってまさかっ」
大きなひとり言を呟いた悠蘭に、その場にいた3人は目を丸くした。
「何だって?」
「え、あ、いや、何でも——」
悠蘭が口元を押さえ、狼狽えて答えると李桜は小さくため息をついた。
「何もなさそうに聞こえなかったけど? 父上に限ってまさかってどういう意味?」
3人の針のような視線に刺されて悠蘭は正直に吐かないわけにはいかなくなった。
「……その弾正尹様なんですけど、最近よく九条邸に来るんですよね」
「どういうこと?」
「父上の客人として来てるとか何とか。兄上も松島もみな事情を知ってるようなんですが、父上でさえ教えてくれないんです。だから、まさか父の婚外子なのかと一瞬思ってしまって……」
「まさか。それはないでしょ。だってあんたたちの父上だよ? 月華の百合殿に対する溺愛ぶりを見たら、浮気なんてするような父親には見えないよ」
呆れ顔で言う李桜に珍しく杏弥も賛同した。
「そうだ。月華は自分の妻子に手を出したら首を落とすと脅すような男だぞ? そんなやつの父親が浮気性だとはとても思えぬ」
「お前、そこまで月華を怒らせてよく無事だったな」
紫苑がからかうと杏弥は唾を飛ばしながら吠えた。
「あいつが勝手に怒っていただけだっ!」
ふたりのやり取りはまるで目くじらを立ててきゃんきゃん吠える小型犬が動じない大型犬に噛みついているかのようだった。
李桜はそんなふたりを無視して話を続けた。
「……それにしても悠蘭の言う弾正尹様の動きは気になるね。もしかして母君の親戚なのかな。確か、あんたたちの母君って亡くなってるはずだよね? どんな方だったの」
「俺が幼い頃に亡くなってしまったので、実はあまりよく知らないんですよね」
悠蘭はそう答えながらふと疑問に思った。
そう、確かに母のことは何ひとつ知らない。
母の実家については耳にしたことすらないから、親戚がいるのかどうかさえ聞いたことがない。
考えてみれば、子どもの頃から邸に出入りするのはお抱えの商人だけで、親戚らしき来客など見たことがなかった。
最近でこそ北条鬼灯や雪柊が訪ねてくることはあるが、それも月華が邸に帰るようになったからである。
父と兄と松島。
この3人だけが悠蘭の身近な存在だったのだ。
すでに亡くなっている父の兄弟には子どもたちがいるのかもしれないが、時華が九条邸への出入りを制限しているのか、その存在すら悠蘭は知らない。
ただ昔から噂話だけが耳に入ってくるだけだった。
「結局、振り出しに戻る、だな」
重い空気の中で紫苑はだらしなく手足を投げ出した。
「せめて蘭子様が見つかれば状況が進展すると思うんだけどな」
紫苑の呟きに反応したのは李桜だった。
悠蘭はその名を聞いて母のことを思い浮かべた。
今は亡き母の名は蘭子といった。
幼い頃の記憶ながら父が母のことをよく「蘭子」と呼んでいたことは耳に残っている。
「蘭子様……? どこかでその名前、見たような気がするけど」
「先帝の妹君らしいぜ。凌霄様の妃だった芙蓉様付女中が書いた『白蓉記』っていう書に出てこなかったか?」
紫苑の話を聞いて悠蘭は不思議な気持ちになった。
先帝の妹、つまり現帝の伯母上が母と同じ名だったとは偶然でも悪い気はしない。
「あ、そうそう、それだよ。清涼殿に出入りしてたくらいだからある程度身分の高い方だったんだろうと思ったけど、やっぱりそうだったんだ。でもよくわかったね、素性は詳しく書かれてなかったのに」
「禁書の中に蘭子様自身が書かれたものもあったんだ。当時は行方不明ってことになってたらしいが、実は自ら内裏を出て行ったらしいぜ? もう、あの方を頼るしかないとか何とか最後の頁に書いてあった」
「あの方って?」
「さあな。具体的に誰かは書いてなかった」
「ふぅん。でも先帝の妹君が頼ろうとするくらいだからそれなりの身分の方だろうね。それこそ清涼殿に出入りできる立場じゃなきゃ、蘭子様と知り合えるわけないもんね。摂家の誰かかな。まさか、時華様だったりして」
笑いながら言った李桜の言葉に他の3人は絶句した。
気まずい沈黙が流れる。
「嫌だな。冗談だよ、冗談。いくら何でも、それは飛躍しすぎでしょ」
「いや、そうでもないかもしれないぜ? だって考えてみろよ。凌霄陛下の前の鳳仙陛下の時代は今じゃ考えられないほど家格を重んじていたんだ。その名残りが凌霄陛下の時代にあったとしたら出入りしてたのは摂家出身の重臣だけだったかもしれねぇだろう?」
「まあ、確かにね」
「今の帝は、顔も見たことねぇけど年は俺たちとさほど変わらないはずだ。先帝の第1子だった白檀殿よりも年若いはずなんだからな」
「…………」
冗談で言ったはずの話が俄かに現実味を帯びてきたことに李桜は固唾を呑んで黙した。
「確かに今の九条家当主がどこの家から姫を娶ったのか摂家の中でも誰も知らぬな」
杏弥は同じ摂家である鷹司家の嫡子として知り得る情報の中からそんなことを言い出した。
1番驚いたのは悠蘭である。
もし仮に先帝の妹が何らかの理由で九条家を頼っていたとしたら……?
時華だけでなく、松島でさえも母の出自を明らかにしないのは行方不明とされている姫だからだったとしたら……?
つまりそれは自分たち兄弟の中に皇家の血が流れていることになる。
悠蘭は寝物語のような展開に、単なる想像とはいえ身震いした。
「悠蘭? どうしたんだよ、青い顔して」
紫苑の問いに悠蘭は声を絞り出すように答えた。
「……亡くなった母の名も蘭子というんです」
「まじかよ!?」
李桜は黙って頷く悠蘭の肩を掴んだ。
「まさか、行方不明の姫があんたたちの母君ってこと!?」
「そんなこと、俺にだってわかりませんよっ」
「確かめる方法はひとつしかねぇな」
紫苑の言葉に悠蘭は強く頷いて立ち上がった。
真実を知っているのは父、時華だけである。
ふと朝に書庫で遭遇した父の言葉を思い出し、悠蘭は背筋が凍る感覚がした。
——お前たちの身に危険が及ぶかも知れぬ。
同じようなことを備中国に向かう前の鬼灯が言っていた。
朝廷の守りを固めよ、と。
そして李桜は、狙われているのは帝なのではないかと推測した。
時華は知っているのかも知れない。
備中国に、皇家に強い恨みを持つ輩が潜んでいることを。
関わる血筋の者を狙っているのかもしれないことを。
「李桜さん、紫苑さん、俺は父上を探して真相を探ります。だからあなたたちはこれ以上、関わらないでください」
「ここまできて何言ってるの、悠蘭?」
「そうだぜ。水臭いじゃねぇか」
「実は今朝、禁書を書庫に戻そうとしたら父上に見つかったんです」
「まさか、僕も禁書を持ち出してることを時華様に知られてるの!?」
「……ええ。追い詰められて吐かされました。すみません、李桜さん。でも父上はそれを咎めるつもりはなさそうでしたよ」
「え? どういうこと?」
「咎めるどころかむしろ関わるなとか、身に危険が及ぶ、とか何とか。李桜さん、言ってたじゃないですか。狙われてるのは帝かもしれないって」
それだけ言い残すと悠蘭はそそくさと立ち去っていった。
悠蘭がいなくなった室内に残された3人は互いに顔を見合わせながらも、誰も何も言わなかった。
しばらく緊張感のある沈黙が流れた後、最初に言葉を発したのは紫苑だった。
「……もし月華と悠蘭の母君が蘭子様だったら、この先どうなっちまうんだろうな」
「何も変わらないよ」
「何だって?」
「だってすでに摂家の筆頭は九条家なんだよ? つまり、皇家に1番近い家格ってことじゃないか。その後継たちが皇家の血を引いてることがわかったって、よりその立場が揺るがないものになるだけだよ。それに異を唱えられる家が他にあるの?」
李桜はあえて同じ摂家である杏弥に視線を向けた。
問われた摂家の嫡子は面倒そうに手を頭の後ろで組むとだらしなくのけ反った。
「中務少輔の言うとおりだな。つまり俺がしてきたことは我が鷹司家にとって大いなる逆効果だったというわけだ」
李桜も紫苑も、杏弥の言葉に全てが集約されているような気がした。
杏弥が、鷹司家が摂家の中で少しでも上位になるために画策したことの何もかもは九条家を刺激し、風雅の君さえも怒らせた。
これでは到底、今より立場がよくなることは望めないだろう。
悪くすると家を取り潰される可能性もあるのだ。
すっかり開き直って天井を見つめる杏弥に、ふたりの少輔は同情したのだった。




