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第70話 生きる意味と絆

榛紀しんき様がいない!?」

 滅多なことでは声を大きくすることがない時華ときはなも、この時ばかりはそうはいかなかった。

 目の前に平伏す松島を唖然と見つめる。

「弁解のしようもございませぬっ。どうかお好きなように処分してくださいませ!」

「そんなことはどうでもよい。一体何があったのだ!?」

「それが……」

 松島は榛紀が自ら九条家の牛車を使って内裏へ戻った際の全てを包み隠さず話した。

 命じられたとはいえ、邸から外に出してしまったことを後悔しているのか時折、松島は声を詰まらせたが彼を責めることはできない。

 その時点では誰も皇家のふたりが狙われていることなど知らなかったのである。

 時華でさえ、療養のために邸に留め置いていただけだった。

「松島、顔を上げよ」

 時華は自ら膝を折って松島の肩に手を置いた。

 思いの外、その肩はか細く感じた。

 ずいぶんと苦労させているのかもしれない。

 松島自らが望んでしているとはいえ、邸の管理から息子たち夫婦の世話に加えて今や孫娘の世話までしてくれているのだ。

 その上、滞在中は帝の世話までさせていたことを時華は申し訳なく思った。

 これまで同志として長い間、寝食をともにしてきたがいつの間にか互いに歳を取った。

 かつての松島であれば難なくこなしたであろうこともそう容易いことではなくなってきているのかもしれない。

(松島に甘え過ぎているのかもしれぬ)

 時華はふと、松島と出会った夜のことを思い返した。

 当時、西対にしのたいに暮らしていた時華を暗殺せんと兄たちが放った刺客として松島が忍び込んできた時のことである。

 その頃の時華は深夜までよく書を読み漁っていた。

 先人の知恵とはよく言ったものだが、書に残された先人の記録は様々な手がかりをくれる。

 読書をしてから寝るのがすっかり習慣になっていた。

 そんなある夜、外に人の気配を感じた時華は行燈の明かりを消した。

 何があってもすぐに対処できるように闇に目を慣らすためである。

 時華は、堕落した兄たちに命を狙われていることをよく理解していた。

 彼らを実弟である時華が糾弾しているからだった。

 兄たちに個人的な負の感情はない。

 だが朝廷に出仕してもろくに仕事をせず、帰ってきては財産を食い潰して贅の限りを尽くす彼らをこのままにしておけば、いくら摂家といえども没落していくのは目に見えていた。

 先人たちの残した九条家を守るためには愚兄たちを排除するのは仕方がないことなのだ。

 そんな時華のことを兄たちが疎ましく思わないわけはなかった。

 いつ刺客を差し向けられてもおかしくないような兄弟関係である。

 同じ邸に暮らしている以上、常に神経を研ぎ澄ませていた。

 目を閉じて腕を組んだままじっと耳を澄ます。

 ほとんど足音らしきものは聞こえなかったがわずかに衣擦れの音が聞こえ、目を開けようとした時にはすでに、冷たい鋭利な何かが首に当てられていた。

 刺客の襲来だった。

「動かれますと首が斬れます」

 闇になれた時華の目には黒い影のような人物が映った。

 人数はたったひとり。

 目元以外は全てを黒で覆われたまるで影のような存在だった。

 身構えていたとはいえ、実際に遭遇すると全身が震え上がる思いがした。

 時華は日頃、文机に向かう文官として働いており、武官のような武術の心得はない。

 刺客に対抗する術は何も持ち合わせていなかった。

「兄たちに命じられたのだな」

 精いっぱいの虚勢を張って時華は言った。

 しかし刺客は答えなかった。

 答えないということはやはり愚兄たちが雇った者なのだろう。

 時華は静かに固唾を呑んだ。

 喉に当てられているのは間違いなく刃物だ。

 少しでも動けば首を斬られ大量に血が出る。

 たとえ動かなくともこの刺客の匙加減ひとつで命を取られるのだ。

 絶体絶命の状況で時華は妙に冷静になって思った。

 刺客はなぜ現れてすぐに斬らなかったのだろうか、と。

 躊躇することなくひと思いに斬ればよかったものを。

 動けば斬れると忠告するということは何か理由があるのだろうか。

 時華はこの状況を脱する糸口がそこにあるように直感した。

「殺したいのなら殺せばよい」

 そう言ったものの、これは本心ではない。

 全身の毛穴から吹き出る冷や汗は止まる気配がなかった。

「…………」

 刺客が動かなかったので時華は続けた。

「——だが私を殺したところでお前が望みの報酬を得られるとは限らぬぞ」

「…………」

「お前の望みは何だ。金か? それとも名誉か?」

「…………」

 刺客は答えなかった。

 しばらく緊張の沈黙が続いたが、やがて刺客が呟いた。

 それは自信なさげな消えそうな声だった。

 雇われたとはいえこれから人を殺そうかという者の声とは思えなかった。

「……意味を探しております」

 時華には刺客の言わんとしていることが理解できなかった。

 眉根を寄せて言葉に詰まっていると、刺客は顔の下半分を覆っていた布を下げた。

 闇に慣れた目に映ったのは、同じような年頃の男の顔だった。

 その瞳が真っ直ぐに時華を見つめている。

 何かを言いたげな瞳だった。

 その瞳は光を失っていないように見える。

 闇に生きる刺客の目には見えなかった。

 だが顔は晒しても自らの役割はまだ忘れていないようで、刃物は首に当てられたままだった。

 時華の命運は男に握られているも同然であった。

 言葉は慎重に選ばなければならない。

「……意味とは?」

「生きる意味、でございます」

 時華は言葉を失った。

 何を言い出すかと思えばずいぶんと難しいことを言う。

 時華自身、そんなことは考えたこともなかった。

 ただ今を懸命に生きるだけでは満足できないのか、そう口から出そうになるのをぐっと堪えて時華は言った。

「生きるのに意味がなければならないのか」

 すると男は深くため息をついた。

「あなた様はこのような立派なお家に生まれ落ちたから多くの方に必要とされていることでしょう。ですが私のようなどこの馬の骨ともわからない生まれの者は誰にも必要とされていないのでございます」

「いや、そうでもないだろう?」

「どういうことでしょうか」

「現に今、私は消されようとしているではないか。必要ないから刺客をさし向けられたのだろう?」

 男の発想に合わせたからではなく、単純に事実だけを述べたつもりだった。

 誰かに必要とされていることが生きる意味だと言うのなら、時華もまた意味を持たないことになる。

 妻子がいるわけでもなく、唯一の肉親である兄ふたりには疎まれているのだから。

 だが男は時華の予想に反して瞠目していた。

 するとやがて首に当てられていた刃物は取り下げられた。

 力なく投げられた手にはまだ鋭利な刃物が握られているが、もうその刃が時華に向けられることはなかった。

「あなたは同じ九条家の方でありながら私の雇い主とは全く違うようですね」

「同じでは困るではないか。あの愚兄たちと同じことをしておればやがてこの九条家は滅んでしまうわ」

 苛立たしげに時華が吐き出すと、男はわずかに笑った。

 すでに戦意は喪失している。

 何を悠長に刺客と会話しているのか、そう思う反面、時華は少しこの男に興味が湧いていた。

「それで、お前は私を殺すのか、殺さないのか」

「もうおわかりでしょう? 私の負けです。最初から気が乗らない依頼でした」

「気が乗らない、とは?」

「兄が弟を殺すなど……私には考えられません。家族がいるだけで羨ましく思ったものですよ。どんな事情があるのかわかりませんでしたので葬りたいほど人となりに問題があるのかと、とりあえず請け負いました。ですが、なぜあなたを亡き者にしたいのか私にはわかりかねます」

 男は深くため息をついた。

 男と依頼主である時華の兄たちがどこでどう出会ったのかはわからない。

 知りたくもなかった。

 だが、刺客とはいえ項垂れて肩を落とす男を時華は哀れに思った。

「いかようにでも好きになさってください。どうせ帰る場所も家族もおりませんので、闇に葬られても誰も気づきますまい」

 生きるために人殺しさえ請け負うこの男の方が、ろくに仕事をしない愚兄たちよりかよほど役に立ちそうである。

 このまま処するのはあまりにも惜しい。

 いつの間にか時華はそう思うようになっていた。

 これだけ自分の存在意義を見出すことに渇望しているのだから、うまく懐柔できれば助けになるかもしれない、時華はふとそう思った。

「お前は家族もなく帰る場所もないと言った。待ち人もなく、それが誰にも必要とされていないと錯覚させているのだろうな。だが、まだ出会っておらぬだけでお前を必要とする者は必ずこの世のどこかにいるはずだぞ」

「……暗殺家業などろくな職ではありませぬ。これも生きるために始めたことでやりたかったわけでもなし、法外な報酬が得られるとも限らない。このような闇に生きる私のことなど誰が必要としましょうか。ましてこの先、出会うなど——」

「今夜出会ったではないか」

「…………は?」

「今夜、お前と私は出会った。これは曲げようもない事実だ」

 面食らった様子の男に時華は続けた。

「お前は生きる意味を探していると言うが、お前が本当に必要としているのは居場所だ。帰る場所と言ってもよいかもしれぬな」

「帰る場所……」

「私の暗殺に失敗して処分される覚悟があるのなら、お前、私を手伝わぬか?」

「手伝う?」

「そうだ。私は近々、お前の雇い主を排除するつもりだ。その手伝いをお前がしてくれるというのならこれほど心強いことはない。その代わり私が九条家当主となった暁にはお前を家臣として生涯、そばに置くと誓う。どうだ? この話に乗るか反るかはお前が決めよ。反るというのならこのままここを去れ。私にはお前をどうこうしようという意思はない——」

 時華は全ての判断を今夜会ったばかりの刺客に委ねたのだった。



「松島、顔を上げよ」

 そう主人に言われ、松島は恐る恐る顔を上げた。

 すると膝を折った主人の顔が目の前にあった。

 普段は決して主人の前に立つこともなく、視線は見下ろすこともなく、むしろ見上げるように位置取りすることを基本としている松島からすると、時華と同じ目線で視線が合うなどありえないことだった。

 こんなことは初めて出会った夜以来である。

「私がお前を処分したことがあったか? 榛紀様をお止めすることはこの私にもできなかったに違いない。お前には非はないぞ、松島」

 松島は時華に出会って人生が変わった。

 目の前にいる主人が居場所を与えてくれたからだ。

 殺そうと忍びいった暗殺者を逆に手元に置こうなどと考えるのは時華くらいのものだろう。

 最初はおかしなことを言い出すと思ったものだが、全ての選択を預けられた時、なぜだかこの人について行きたいと思った。

 だから家臣として生涯そばに置くと言ってくれた時華とともにあることを選んだのだ。

 気がついた時には大粒の涙が流れていた。

 それは失態した自分に対する後悔などではない。

 主人の優しさに再び触れたからである。

 慌てて着物の袖で涙を拭った。

 この方は決して他人ひとを責めない。

 この方のために生きることが我が道。

 改めて松島がそう思った時、膝をつくふたりの元に女中が現れた。

 取り込み中の彼らに女中は申し訳なさそうに言った。

「お取り込み中、申し訳ございません」

 立ち上がり女中に相対そうとしたのを時華が軽く手で制した。

「よい。何があったのだ」

「時華様にお取り次ぎをと、菊夏きっか様がおっしゃっております」

「菊夏殿が? 取り次ぎなどせずに堂々と入ればよいではないか」

「それが……お客様をお連れなのです」

「客人? 誰だ」

「おひとりは以前にもいらしたことがある今出川楓いまでがわかえで様です」

 九条家の女中はよく教育されている。

 月華つきはな悠蘭ゆうらんが邸に連れてくる友人さえもよく把握していた。

「何だ、別に何の問題もない。すぐに通せ——ん? 今、『ひとりは』と申したか?」

「はい。菊夏様はもうひとりお連れなのです」

 もったいつけられたような焦ったさを感じた時華は苛立たしげに言った。

「だから、それは誰なのだ!?」

「……橘萩尾たちばなはぎお様とおっしゃっております」

 思わぬ名を聞いた時華と松島は互いに顔を見合わせた。

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