第7話 不安な夜に
九条家当主が亡き妻の幻を見た夜。
連れ去られた義姉を追うと言う北条鬼灯に同行を断られた九条悠蘭は肩を落とした。
一緒に行くつもりで用意した2頭の馬のうち1頭はそのまま残されてしまったため、 悠蘭は仕方なく厩へ1頭を戻しに行くとその足で自分の邸へ向かった。
悠蘭の邸は寝殿の裏手にある書院造りの建物である。
そこに行くまでには、回廊を抜け、寝殿の裏手まで伸びる廊下を突き抜けて行く必要がある。
静まり返った邸内は、深夜にも関わらず回廊の足元に等間隔で小さな灯篭が置かれ、廊下を照らしている。
誰ともすれ違うことなく回廊を抜けた悠蘭は、自分の邸に入ると湯殿へ直行した。
湯殿の前室には女中が用意したと思しき悠蘭の夜着が置かれていた。
着物を脱ぐと、汚れた着物以上に全身が痣だらけであることに驚いた。
腕だけでなく足や腰にいたるあちこちに打撲のような跡がある。
いろいろなことがあり過ぎてすっかり失念していたが、連れ去られそうになっている百合を助けようと隻眼の武士に向かっていった時、簡単に跳ね飛ばされたことを思い出した。
全身に残る跡はその衝撃の強さを物語っているようである。
何と情けないことか……悠蘭は小さく息を吐くと、湯殿へ足を踏み入れた。
浴槽に体を沈めると生き返るようだった。
今夜起こったことがすべて夢であればどんなにいいことか。
そう思いながらも悠蘭はその考えを打ち消した。
夢であるはずがない。
全身に残る痣がそれを証明している。
悠蘭は湯につかりながらぼんやりと考えた。
風雅の君とともにこの九条邸から消えたはずの弾正尹をなぜ鬼灯が連れてきたのだろうか。
この邸から忽然と消えた弾正尹と白檀と思しき人物は、門番の話によれば邸の前に停まっていた牛車でどこかへ向かったのだと言う。
行き先は六波羅御所だったということだろうか。
それにしては鬼灯がここへ連れて来たのが弾正尹だけだったのは引っかかる。
白檀はどこへ行ったのだろう。
弾正尹のことは結局、兄の月華いわく「榛」と名乗ったということ以外に何もわかってはいない。
どこの家の者なのかもわからない。
そもそも彼に家はあるのだろうか。
なぜいつも九条邸に戻ってくるのか。
いくら右大臣である父と懇意にしているからといって、自分の邸ではなく九条邸に担ぎ込まれるのは不自然ではないだろうか。
弾正尹のことだけではない。
以前、京の女子たちを脅かした毒殺事件に関わっていたらしい白檀と弾正尹は見知った仲なのだろうか。
父の時華にふたりの正体を問い詰めた時には今はまだ知らなくてよい、亡き母がそう望んだから、と教えてはもらえなかった。
悠蘭は眉間に皺を寄せながら深いため息をついて湯の中に深く体を沈めた。
鬼灯は朝廷の守りを固めよと言い残していったが、これから何が起こるのかまったく想像がつかない。
輪廻の華と呼ばれる百合を取り戻しに行ったことと朝廷が関係するとはとても思えない。
だがあの鬼灯が言い残していったのだ。
無関係ではない、ということだろう。
考えれば考えるほど答えの出ない難題を抱え、疲れ果てた悠蘭はとうとう思考が停止したのだった。
湯殿を出た悠蘭は肩にかかる赤茶色の髪から水が滴るのも構わず、夜着に着替えて頭に手ぬぐいを乗せたまま書院へ向かった。
廊下を歩きながら悠蘭は菊夏のことを想った。
菊夏は百合が異能を持ち、かつて輪廻の華と呼ばれていたことを知らないはずである。
近衛柿人の事件以来、表立って百合が狙われることはなかったから、特に菊夏に説明する必要もなかった。
おそらく月華も百合についての詳細を語ってはいないだろう。
そう考えると、今夜星祭り会場で起こった一連の騒ぎは菊夏にとって不可思議なことばかりだったに違いない。
相当な疑問を持っているだろうに、彼女は邸に戻ってからもこれといって詰め寄ってくることはなかった。
だましているわけでも、秘密にしているわけもないがどこか後ろめたい心地はぬぐえない。
悠蘭にとっては心苦しいことだった。
書院の前に辿り着き、悠蘭は襖を開けることを一瞬躊躇した。
もし菊夏が起きていて、すべてを語ることを求められたら?
話すべきなのかどうか心の準備ができていないままこの襖を開けていいのだろうか。
そう思いながら、悠蘭は恐る恐る襖を開けた。
すると、そこには布団の上に正座する妻の姿があった。
悠蘭は固唾を呑みつつ、平静を装って何とか言葉を発した。
「菊夏……まだ起きていたのか」
心の準備どころか、見つめてくる菊夏の視線が状況説明を求めていることはひと目でわかった。
一瞬、動きを止めたがすぐに後ろ手で襖を閉めると彼女の前に腰を下ろす。
「この状況でとても眠れるわけはありません」
「……ああ、そうだよな」
やっとの思いで絞り出したが、そんな意味のない言葉しか出てこない自分に幻滅する。
濡れた髪から滴る水が着物の肩に染みを作る。
悠蘭は悠久にも感じるこの瞬間、黙って菊夏の次の言葉を待った。
「百合様のことが心配で……一体何が起こっているのでしょうか」
「何って?」
「とぼけないでください。百合様を攫った相手は物取りには見えませんでした。明らかに百合様とわかって攫っていったのではありませんか。それにあなたは最初に百合様を攫った隻眼の男のことを、人攫いには見えなかったと六波羅でおっしゃいましたね?」
「…………」
「伯父上も雪柊様も李桜様もみなさん、百合様が攫われた理由をご存じのような口ぶりでした。私にはさっぱり理解できませんでした」
「いや、だから——」
必死に言い訳しようとする悠蘭の言葉を遮るように菊夏は言った。
「悠蘭様、『輪廻の華』とは何のことですか」
「え……?」
「あなたは紫苑様が連れて来た官吏の方に『輪廻の華と呼ばれる方は俺の義姉上なのだから』とはっきりおっしゃいました。つまり百合様のことを指しているとしか思えないのですが?」
まっすぐに見つめられた悠蘭は答えることができなかった。
彼女に真実を話すべきか、まだ心の準備ができていない。
どう答えようか迷っていると、菊夏は深くため息をつき失望したかのように立ち上がって悠蘭に背を向けた。
閉められた障子を開け、外を眺める。
夏虫の声がより鮮明に聞こえ、さえずる庭の木々を背景にこちらに背を向ける菊夏の後姿は哀しみなのか、怒りなのか、少し震えて見えた。
世の中には知らない方が幸せなことはたくさんある。
知ってしまったが最後、巻き込まれてしまうということもあるのだ。
兄と自分だけが知っていると思っていた百合の異能のことを父は知っていた。
ということはおそらく、松島も知っているのだろう。
義妹の菊夏が知らないというのもまた、理不尽だとも思う。
そんな時、悠蘭はふと同じようなやり取りを父とも交わしたことを思い出した。
白檀と弾正尹のふたりが邸から消えた時のことだ。
あのふたりが何者なのか父を追求した折、
——……お前はまだ知らなくてよい。
そう言われた。
父も兄も松島もみな事情を知っているように感じた悠蘭は、自分だけが知らないことに一種の疎外感を持った。
今、自分が菊夏にしていることは時華にされたことと同じではないだろうか。
そう考えると菊夏が背中を向けている気持ちが痛いほどわかった。
悠蘭はたまらず、立ち上がって菊夏を後ろから抱きしめた。
そして初めて菊夏が涙を流していることを知った。
「私はそんなに九条家の嫁としてふさわしくありませんか」
「そうじゃない」
「確かにまだあなたのお子も授かっていない私は嫁として失格なのかもしれませんが——」
「そうじゃないんだ、菊夏」
「だからって私だけ退け者にしなくても……私だって百合様のことが心配なのです」
「菊夏……」
「もう私は不要ですか」
「違う! そんなこと言っていないっ」
「でも——」
どこまでも感情的になり話を聞こうとしない菊夏の顔を引き寄せると悠蘭はそのまま強制的に口づけた。
菊夏の頬を伝う涙が溢れ出てくるのも構わず深く口づけていく。
言葉にしなくても絡まる舌からすべてが伝わってしまえばいいのに、とさえ悠蘭は思った。
最近思い悩んでいたようだった菊夏をここまで追い詰めたのは自分なのかもしれないことを悠蘭は十分理解した。
月華に言われたとおり、こんなにも追いつめる前に彼女と気分転換の旅にでも行くべきだった。
悠蘭が大きな後悔の波に呑まれながら唇を離すと、菊夏は腰砕けになり膝をつきそうになった。
しっかりと抱き留めると見上げる菊夏の目にはまだ涙が溜まっていた。
ひと筋、頬を伝って流れ落ちるのを親指で拭う。
「菊夏、すまなかった。秘密にしているつもりはなかったが、話す機会を持たなかった俺が悪い。君はかけがえのない俺の妻であり、九条家の一員なのだから最初にすべてを話しておくべきだった。今からすべてを話すから聞いてくれるか?」
悠蘭の偽りない心意気に虚を突かれた菊夏は、一瞬言葉を失っていたがすぐにひと言呟いた。
「冷たい」
「は……? 何が」
「髪から滴る水、冷たいです」
確かに濡れた髪から滴る水は菊夏の頬に落ちていた。
「髪……? ああ、そういえば湯殿から出て来てそのままだったな」
「悠蘭様、ここに座ってください」
「え……?」
「いいから座って下さい!」
「は、はいっ」
悠蘭はわけもわからず言われるままにその場に膝を折った。
「菊夏?」
「こんな濡れたままだと風邪を引きます。話はこの髪を拭いてからでもいいでしょう?」
そう言って菊夏は悠蘭の濡れた髪を拭き始めた。
初めは子供にするようにぐるぐると掻き回しながら手ぬぐいを揺らし、全体を拭き終えると少しずつ髪を束にとって軽く叩くように水分を丁寧に取っていった。
それはまるで菊夏の無言の抗議のようだった。
途中、何度も鼻をすすり、涙を拭うような仕草を見せる菊夏に悠蘭の心はこれ以上ないほど傷んだ。
悠蘭はこの夜、天真爛漫な彼女がここまで悩み深く傷ついていることにこれまで微塵も気がついていなかった自分の愚かさを思い知ったのだった。