第69話 九条邸の門
慣れない馬で長距離を駆け抜けた橘萩尾が京に到着したのは昼を過ぎた頃のことだった。
備中国からの長い道程をほとんど休まず走ったつもりだったが、旅慣れている山吹のようにはいかない。
自分の足で走ってみて初めて、山吹や紅葉が風雅の君の指示で諸国の情報集めを苦にせずこなしていたことに感心した。
今頃、風雅の君はどうしているだろうか。
山科に託した文が滞りなく九条時華の手元に届いたなら、何らかの手を打ってくれることだろう。
萩尾と時華とは、直接の接点はない。
だが、萩尾は時華の人となりを昔から評価していた。
萩尾のいた頃の朝廷は、位に胡座を掻いて仕事をしない官吏たちが闊歩するような腐った場所だった。
それゆえに優秀でも身分が低い官吏は次々と朝廷を去っていった。
そんな折だった、時華の噂を耳にしたのは。
萩尾がまだ弾正台にいた頃のことである。
「お聞きになりましたか、萩尾様? とうとう九条家では反乱が起こったようですよ」
弾正尹として書簡の整理をしていた時のことだ。
ある官吏がそう言いながら戻ってきた。
弾正台は朝廷の規律を守るために日夜、官吏たちを監察している。
不正がないか目を光らせているうちに、様々な噂話が聞こえてくるのは至極当然のことだった。
「反乱?」
九条家には3人の兄弟がおり、全員が朝廷勤めをしているがまともに働くのは3男の時華だけだというのは有名だった。
長兄、次兄はこぞって九条家の財産を食い潰していることから、朝廷の金子に手をつけているのではないかと弾正台でも目を光らせていたところだ。
摂家といえども不正があれば追求することができるのが弾正尹なのである。
「九条家の3男である時華殿が何かと働かないふたりの兄を糾弾していたのはご存知ですよね」
「ああ、耳にしたことがある。だがそれは九条家の中でのことであろう? それとその反乱というのはどう繋がるのだ?」
「それが驚くなかれ。時華殿を煙たがっていたふたりの兄はついに弟を暗殺しようとしたのです」
「何……!? それで、時華殿は!?」
「ご安心ください、萩尾様。時華殿はご無事です」
「暗殺は失敗に終わった、ということか? 彼が武芸に通じているとは聞いたことがないが……」
「いえ、時華殿は暗殺者を返り討ちにしたのではなく、味方にしたようです」
「味方、だと?」
「ええ。その上で暗殺者を仕向けてきた兄ふたりを制裁した、とか。おかげでついに時華殿が家督を継ぐことになったようですから、これからの九条家は変わるかもしれませんねぇ」
おもしろおかしく言う官吏の話を萩尾は信じられない思いで聞いていた。
公家には後継者争いなど存在しない。
序列は生まれた順番にすでに決まっており、長子が病や事故で亡くなることがない限り、その子どもが後を継いでいく。
つまり次男、3男には家督を継ぐ機会がほとんどないのである。
それに自分を殺そうとした者と味方につける、とは一体どういうことなのだろうか。
味方になったと見せかけて寝首を掻かれるのがおちではないのか。
「それで味方なったという暗殺者はその後、どうしているのだ?」
「どうやら当主となられた時華殿に雇われ、九条家の家臣となったようですね」
「…………」
萩尾には全く意味がわからなかった。
殺しに来た者をそばに置いて雇う、などと誰が想像するだろうか。
「そうそう先刻、その家臣となった者に朱雀門の辺りで声をかけられましてね。それで九条家のことを思い出したのです」
「朱雀門で何をしていたのだ」
「さぁ……? 時華殿に使いを頼まれたとかで道を訊かれました。とても暗殺者には見えませんでしたね。確か……松島、とか名乗っておりました」
人の考えや行動がそんなにも簡単に変わるものだろうか。
しかし時華はその松島という男を信じたからこそ、そばに置いているのだろう。
萩尾は改めて九条時華という男の器の大きさに感嘆したのだった。
その後、九条家当主となった時華はみるみるうちに手腕を発揮し、凌霄の信頼を得るようになった。
よく内裏に出入りするようになり、萩尾も見かけることはあったが声をかけることはなかった。
弾正尹である萩尾は特定の官吏と親しくするべきではない、と思っていたからである。
弾正尹の職は望んだものではなかったが、他でもない、友の凌霄が朝廷の掃除を望んだから続けているものだった。
他の官吏から弾正尹が特定の誰かを贔屓していると思われることは任命した凌霄の責任を問われることに繋がると考えていたため、萩尾は朝廷の中では孤独であれ、という信念を貫いた。
だがもし、弾正尹でなかったのなら萩尾は時華に近づいたであろう、と思う。
なぜなら時華こそ、凌霄の推奨していた改革に大きく貢献したからである。
鳳仙が推奨していた地位や名誉を重んじる政策に賛成していた近衛家を抑え、凌霄が推奨する実力を重んじる政策を九条家が支持し、協力を惜しまなかった。
だからこそ凌霄が飛び出した妹の蘭子に悩んでいた際、時華に嫁がせてはどうかと薦めたのだった。
今、帝となった榛紀の敵は朝廷の外にいる。
かつての栄光や亡霊に取り憑かれ、榛紀を玉座から引きずり下ろせば望みが叶うと思い込んでるのだろう。
だがそうはさせない。
そして事情をわかってもらえれば、九条時華は必ず力を貸してくれる。
萩尾はそう信じて備中国を出たのだった。
人通りの多い場所に入って、萩尾は馬を降りた。
馬を引きながら歩くとかつて住んでいた場所とは思えないほど町の景色は変わっていた。
考えてみれば備中国へ潜入したのはもうずいぶんと前のことである。
その間に町が発展していても不思議はない。
萩尾は遠い記憶を頼りに大路へ入った。
行き交う人々には活気があり、榛紀の進める政治がうまくいっているのだと安心する。
早くに両親を亡くし、唯一の頼りであった兄とも離れ離れになった彼がどのように成長したのか遠くから心配したものだが、それもこれもやはりそばで時華が支えてくれたおかげなのだろうと萩尾は改めて頭が下がる思いだった。
しばらく歩いていると以前と変わらない巨大な邸が見えてきた。
長く朱雀門の近くまで続く塀はその権力の大きさを示す。
だがこの権力は人々を虐げるものではなく支えるものである、と萩尾はよく知っていた。
門の前まで来て立ち止まると門番の訝しげな視線が刺さった。
無理もない。
門番からすれば萩尾は不審者極まりないのである。
「ここは九条家のお邸であろうか」
萩尾は堂々と門番に声をかけた。
簡単に取り次いでもらえるとは思っていない。
九条家に関わる者に知り合いはひとりもいない。
訪ねようとしている時華のことでさえ、顔は朧げにしか記憶にないのだ。
まして相手は萩尾の顔や名前も知らないことだろう。
「いかにも。この門は九条家に関わる方しかお通しすることができぬ」
「まあ、そうであろう。ご当主の時華殿はまだ御所におられるのだろうな」
「お答えはできかねる」
「夕刻にはお戻りになるだろうから、ここで待たせていただくとしよう」
萩尾がそう言うと門番は目くじらを立てて反論した。
「時華様はすでにお戻りだ。そこで待たれても迷惑なだけだっ」
「ほう、ではご在宅か」
門番は余計なことを口走ったことにはっとしてさらに声を荒げようとした。
するとそこへ予告なく帰宅した菊夏と楓が現れたのだった。
「どうかしたのですか」
「お、奥方様っ」
深く頭を下げる門番の様子に萩尾は目を見張った。
時華が後妻を迎えたとは聞いたことがない。
嫡子の月華の妻は輪廻の華であり、今は備中国にいるはずである。
「奥方様? あなたは九条家の方ですか」
「……ええ。そうです」
「失礼ですが、奥方というのはまさか時華殿の年の離れた後妻でいらっしゃる?」
「えぇぇぇ!? 違いますっ。わ、私は九条家次男の妻で菊夏と申します」
「あ、ああ、陰陽師の。いや、今は陰陽頭でしたか。それは大変失礼した」
萩尾が笑い飛ばすと、赤面しながらあたふたする菊夏を守るように楓が前に出た。
眉根を寄せている。
「私は朝廷で官吏をしている今出川楓と申す。あなたはずいぶんと九条家の事情に詳しいようだがどういったご関係だろうか」
「……今出川、と申したか」
「ええ。それが何か?」
一層顔をしかめる楓に萩尾は微笑んだ。
旧友に会ったような嬉しさだった。
「そなた、梓殿の弟君では?」
「……確かに姉は梓というが、失礼ながらあなたような知り合いはいないように思うが」
「ああ、そうであったな。申し遅れた。私は橘萩尾と申す。梓殿のことは長い間、備中国で見てきた。それこそ彼女が京から嫁いできた時からな」
「……あなたは妹尾家の方、なのか」
「いや、私は名乗った通り、妹尾家の者ではない。だが多くの事情を知っているのは確かだ」
萩尾が鼻の先で一笑すると楓はさらに警戒心を露わにして言った。
「妹尾家の事情を知っているという方が何しに九条家へいらしたのか。今、九条家の大事な方が事件に巻き込まれていることを知らないのか」
「いや、知っている。知っているからこそさらなる事件を防ぐために参ったのだ。すでに時華殿へは助けを乞う文を出してある。目を通してくださっておればいいのだが」
鋭い視線を向けてくる楓から、萩尾は視線を逸らすことができなかった。
その堂々たる姿はどこか梓のそれを思い出させる。
梓は嫁いできた頃こそ吹けば飛んでしまうような女子だったが今では立派な妹尾家の嫁となった。
萩尾にはそんな芯の強い梓のような一面が楓の中に見える。
ふたりが無言でばちばちと火花を散らしていると天真爛漫な菊夏の声がそれに割って入った。
「萩尾様、とおっしゃいましたか……九条家当主にお会いになりたいのですか」
「え、ええ」
「あいにくまだ御所にいると思うので——」
そう言った菊夏に門番は、時華が戻ってきていることを耳打ちした。
「——萩尾様。義父は戻っているようなので一緒に参りましょう」
菊夏は門番に言いつけて門を開けさせた。
そのまま萩尾の馬を預かるように指示する。
「き、菊夏殿。よいのか、この人を信用して」
楓が菊夏の袖を引っ張って囁いたものの、菊夏は聞く耳を持たなかった。
「大丈夫でしょう。だってすでに父上様に文を出していらっしゃると言うではありませんか。それにこの方は武器も持っていらっしゃらないのですよ?」
「確かに刀の類は持っていないようだが、紫苑殿や雪柊様のような武術使いだったらどうするのだ」
「その時は松島さんが守ってくださるから大丈夫ですよ。ご心配でしたら楓様もどうぞ。お暇でしたら花織の顔でも見ていきますか?」
萩尾は菊夏と楓のやり取りを呆気に取られて見ていた。
どう見ても楓の反応が普通である。
何の警戒心もなく見知らぬ男を邸に入れてしまうのだから驚きだ。
萩尾は菊夏の天真爛漫さに哄笑した。
さすがは九条家の男に選ばれた女子。
この器量がなければ九条家の嫁は務まらないのだろう。
萩尾は菊夏の導きで九条邸へ足を踏み入れたのだった。




