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第68話 それぞれの事情

 間もなく九条邸へ戻った時華ときはなは牛車を降りると出迎えた松島の導きで門を潜った。

 昼に一時帰宅することがあまりない主人の出迎えに慌てた松島は、額に汗を滲ませていた。

「と、時華様。ずいぶんとお早いお帰りで……」

「うむ。思うところがあって戻ったところだ」

 ふたりは寝殿に向かって回廊を歩き始めた。

 すれ違う女中たちは陽が高いうちは邸内で見かけることがない主人に、一様に深く首を垂れた。

 夏の明るい日差しが中庭の池に反射しているのを目の当たりにして、時華は複雑な気持ちになる。

 本来なら、昨夏には見られなかった家族の笑い声が邸に響くはずだったのだ。

 長い間、邸に寄りつかなかった月華つきはなが助けを求めて帰ってきたのは昨秋のこと。

 それからのいうもの、時華の想像を遥かに超えることが次々と起こり、月日が目まぐるしく過ぎた。

 月華が妻を娶ったかと思えば、子を授かったと言うし、今春には悠蘭ゆうらんまで妻を迎えた。

 これまでばらばらだった家族が親しく顔を合わせるようになったのである。

 この庭にはそんな平和な団欒の景色が広がるはずだった。

 夜は蛍の光を眺めていたかもしれない。

 池の向こうにある、中島に建築して自ら名付けた茶室のような建物——華蘭庵からんあんを見据えて時華は言った。

「……月華はまだ戻っておらぬのか」

「はい」

「そうか……」

 娘の花織かおるをあやしながら百合ゆりと笑い合う月華の姿が華蘭庵の外に見えるかのようだった。

 輪廻の華という異名を持つ嫁の百合は無事であろうか。

 この邸の中にいればむざむざと攫われるようなことにはならなかったものを……。

 九条家の守りが鉄壁なのは時華がそれを望んでいるというより松島がそうしているからである。

 しばらく九条家の家族は離散していたが、昔のように元に戻った時のために万全の状態でいたいと言うから自由にさせてきた。

 かつて時華が九条家の血生臭い家督争いをしていた頃、堕落した兄たちに仕向けられた暗殺者が松島だった。

 あらゆる攻防について知識も豊富だったので、時華は松島に守りを任せたが、それは今でも適任だったと思っている。

 寝殿に入った時華は軽く着替えると休むことなくすぐに立ち上がった。

「時華様、どちらへ? 少しお休みになりませぬか。今、茶でも淹れますので」

「いや。気持ちはありがたいが確認せねばならぬことがある——その前に、邸の守備はどうなっておる?」

「変わりございませぬ。門番は九条家の関係者以外を邸へ通すようなことはございませぬし、邸の者たちにも女中や下女に至るまで全員に護身用の武器を持たせております。定期的に訓練もしておりますゆえ、有事の際の備えは万全です。まぁ、もともとあれだけ高い塀で囲まれたお邸ですので、何ぴとも簡単には侵入できますまい」

 松島は寝殿から見える邸の塀を指差しながら当然のように答えた。

 九条家の邸を囲う塀は人の身丈の2倍はあるほどの高いものである。

 確かにこれまでこの塀を越えて侵入されたことはなかった。

「そうか。それならばよい」

「何か心配ごとでもおありですか? 守備を確認されるなど珍しいですね」

「実はおかしな文を受け取ってな……」

「…………?」

 首を傾げる松島へ時華は鳶尾誠とびおまことから受け取った文を懐から取り出して手渡した。

 ひと通り目を通した松島は驚愕の表情を見せた。

「これは……」

「本当かどうかはわからぬ。だが用心するに越したことはないのでな」

 昨晩、蘭子らんこの幻が語った言葉も気になっている。

 ——あの子たちを守って。

 あの言葉はまるでこの文のことを指しているようにも思えた。

「ですがこの差出人、信用できるのですか」

「そこなのだ。これを手渡してきた者は昔からよく知る官吏なのだが、その者がどこまでこの差出人を知っているのかは掴めなかった。松島はこの人物に聞き覚えはないか?」

橘萩尾たちばなはぎお殿、ですか……記憶にございませぬな」

「そうよな。私でも記憶にないのだ。お前が知っているはずもない。まあよい。とりあえず東対ひがしのたいへ向かうとしよう」

 時華がそう言うと急に松島が狼狽え出した。

「ひ、東対でございますか!?」

「そうだ」

「な、何ゆえ……」

 松島はしどろもどろになり、視線も泳いで明らかに様子がおかしかった。

「何ゆえとはおかしなことを訊くの、お前も。榛紀しんき様の様子を伺いに行くに決まっておるではないか」

「榛紀様の、でございますか……!?」

「他に東対にいる者がおるのか」

「い、いえ。いらっしゃるはずもございませぬ。対屋たいのやは時華様のご家族のためにある場所でございますゆえ……」

「文にはっきりと書いてあったであろう? 榛紀様と風雅の君が狙われている、と。鬼灯きとう殿によれば白椎はくすい様は月華たちと一緒だと言うからひとまず問題なかろう。雪柊せっしゅう殿も一緒であろうしな。となればまずは榛紀様のご無事を確認しなくてはならぬ」

 時華が1歩踏み出すと、ますます松島がおろおろし始めたため、時華は剛を煮やした。

「松島」

「は、はい」

「その落ち着きのない様子は何だ。お前らしくもない。何かあったのなら正直に申してみよ」

 すると松島は時華の目の前に両膝をついた。

 深く首を垂れる。

 その額は床に付くほどだった。

「も、申し訳ございませぬっ」



 真っ昼間に朱雀門を潜って御所を出た今出川楓いまでがわかえでは足を止めた。

 深くため息をつく。

 まさかこんな昼間に御所から出てくることになろうとは考えもしなかった。

 振り返ると巨大な門の向こうにいそいそと慌ただしく仕事をする官吏たちの様子が見える。

(私は一体何をしているのだろう……)

 昨晩、ほぼ徹夜で久我紫苑くがしおんに付き合って禁書を読み漁っていた。

 そのせいでほとんどまともに書類整理すらできない状態だった楓は少輔しょうゆう命令で強制的に帰宅させられたのだった。

 確かに眠気に勝てずに居眠りをしていた自覚はある。

「楓、もういいから今日は帰りなよ」

 そう言われてはっと気がついた時にはすでに昼餉の時刻を過ぎていた。

 全身から血の気が引いていくのがわかった。

「いや、すまぬ。すぐに仕事を——」

「別に僕はあんたのことを責めてるわけじゃないよ。何でそんなに眠いのかもわかってるしさ。だから今日はもう帰ってしっかり休みなよ。傷にもよくないでしょ?」

 相変わらず書き物をしながら顔を上げることがない李桜りおうに楓は慌てて言った。

「いや、しかし月華殿もまだ戻らぬのに仕事を放り出すには……」

「だから早く帰って明日は今日の倍働いてって言ってるんだよ」

「李桜……」

 明日挽回しろ、などと言っているが今の楓は怪我をしていてほとんど役に立たないことを知っての言葉である。

 楓の代わりを務めるはずの月華もいない今、その負担は全て李桜の肩にのしかかっているというのに、平然と楓に気遣いを見せているのだ。

 そんな李桜の性格を理解しているだけに楓は何もできない自分がもどかしかった。

「さあ、行った行った」

 そうして楓は李桜に強制的に追い出されてしまったのである。

 仕方なく帰宅しようと前を向いたところで楓は聞き覚えのある声に呼び止められた。

「楓様……?」

 振り返るとそこには九条家の嫁となった薬師の菊夏きっかがおり、同じく朱雀門を潜るところだった。

「菊夏殿、こんな昼間に外出か?」

「……外出と言いますか……」

 歯切れの悪い菊夏の表情はいつにも増して沈んでいた。

 天真爛漫な天才少女だった北条家の姫は、嫁入りを機に少し大人しくなったようだと古くから彼女を知る者たちは言っている。

 だが、楓は恋に悩んでいる時の彼女の印象が強く残っていて、その頃とあまり変わらないような気がしている。

「菊夏殿は邸へ帰るところなのか?」

「はい……」

「では九条邸の前まで送ろう」

「い、いいえ! 私はひとりで帰れます。お忙しい楓様のお手を煩わせるつもりはありません」

「たった今、暇になったところなのだ。だから気にすることはない。さあ、参ろう」

「…………?」

 楓の言う意味がわからず困惑する菊夏に楓は苦笑しながら言った。

「我々は互いに事情があるようだ。歩きながら話そう、菊夏殿」

 ふたりは肩を並べて大路を歩き始めた。

 先に口火を切ったのは楓だった。

「菊夏殿。差し出がましいようだがもしや悠蘭殿と何かあったのか」

 驚いて一瞬肩を震わせた菊夏は眉尻を下げて小さく首を振った。

「いいえ、何かあったわけではなくただ私の体調がよくないだけです。悠蘭様が大事を取って帰って休んだ方がいい、と……」

「体調が優れないのにひとりで歩いて帰るところだったのか?」

「ええ、まあ。悠蘭様は送ってくださるとおっしゃったのですが、私が断ったのです。倒れるほど具合が悪いわけではないので」

 陰陽頭おんみょうのかみである彼女の夫は中務少輔なかつかさしょうゆうと対を張るほどに多忙なことで有名である。

 年頃の新妻なのに我がままをいうこともなく耐え忍ぶ菊夏を楓は哀れに思った。

「少しは夫を頼ってもよいのではないか?」

「今はそれはできません。月華様も百合様もまだお戻りではありませんし、悠蘭様も多くの仕事を抱えています。私ひとりがいつも通りに生活させていただいているのですから、我がままは言えません」

「悠蘭殿が多忙だから、か……気の毒なことだ」

「私は大丈夫です。みなさんが元の生活を取り戻せたなら、その時は悠蘭様に構ってもらいますので」

 菊夏は気丈にも微笑んだ。

「ところで楓様はなぜこの時分に?」

「理由はそなたとさして変わらぬ。私は右手を負傷していて書き物ができぬので、何の役にも立たぬのだ。それで李桜に帰宅を命じられてな」

 改めて他人に状況を説明すると楓は何とも情けない気持ちになった。

「そうだったのですね。右手はどんな調子ですか」

「動かさなければ痛みはないのだが、どうにも使い物にはならぬ。骨は折れていないようだからそのうち動かせるようになるといいのだが」

「そうですか。お大事になさってください、楓様。治癒の途中で無理をなさると元通りに回復できないことがありますから」

「お、恐ろしいことを言うなぁ、そなたは」

「ふふふ。薬師からの忠告です。外傷は私の専門ではありませんが、人の体というのは不思議なもので、自分で自分の体を治癒する力を持っています。でもそれを妨げるようなことをすれば、治癒が思うようにいかないのです。それだけは忘れないでくださいね」

 そんな互いの近況を話しているうちに、ふたりは九条邸の近くまでやって来た。

 人の行き交う大路に面して堂々とそびえ立つ長い塀は市井の人々には当たり前のものとして存在してして、誰もそれを気にしていないものだが、ただひとり馬を引いた見知らぬ男がじっと門を見上げている姿が見えた。

 ふたりは互いの顔を見合わせた。

「誰か門の前にいるな。菊夏殿、知っている顔か?」

「いいえ。私は存じ上げません。ですが私は九条家に来て日が浅いから知らないだけで、どなたかのお知り合いなのかもしれませんね」

 どうやら門番と揉めているようである。

 楓たちは、そっと馬を引く男に近づいていった。

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