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第67話 差出人の謎

 九条時華くじょうときはなは自身の文机に何度も指をとんとんと打った。

 図書寮ずしょりょうから戻ってからというもの、ずっとこの調子で昼餉の時刻を過ぎてもその音が止むことはなかった。

 右大臣である時華に用のある官吏たちもその様子を見て急ぎでない者は、出直すと言い置いて踵を返す始末だった。

 官吏たちは、今日の右大臣様はよほど虫の居所が悪いらしいと口々に噂したものだが、実際は考え込み過ぎて眉間に皺が寄っているだけで不機嫌なわけではなかった。

 時華が考えていたのは妻が残した日記のことだった。

 まさか、禁書の中に蘭子らんこが生きた証が残っていようとは想像すらしなかった。

 ある意味、発見できたことは亡き妻に想いを馳せるきっかけになり良かったのかもしれないが、中身は不可解なものであった。

 先帝である凌霄りょうしょうを毛嫌いしていた内容が目についたが原因については書かれていなかった。

 彼女が雪の降る夜、九条家に嫁ぐことを望む前に何があったのかはわからない。

 さらに蘭子は父である鳳仙ほうせんのことも非難していた。

 人の道に外れたこと、とは一体何を指しているのだろうか。

 確かにひとつは『鳳仙呪録ほうせんしゅろく』に書かれていた御形ごぎょうという稀代の陰陽師の所業を示しているようである。

 正義感が強く快活だった蘭子のことだ。

 あれに書かれていたことを指示していた鳳仙のことを許せなかったであろうことは容易に想像がつく。

 では凌霄が行った人の道に外れたこととは何だろうか。

 時華には想像もつかなかった。

 そして最大の謎は『橘萩尾たちばなはぎお』という人物の文だ。

 風雅の君が備中国びっちゅうのくににいたことや彼が凌霄の子であることを知っている者は今では少なくなった。

 その上、亡き凌霄陛下の御子たちをあなたに託します、と結んだ萩尾の文は謎だらけである。

 懐から萩尾の文を取り出した時華は開こうとしてその手を止めた。

 ふとこの文を手渡してきた鳶尾誠どびおまことの言葉を思い出す。

 ——右大臣様宛の文なのですが、さる方からお預かりしたものです。

 さる方と言うからには鳶尾は明らかに差出人が誰なのかわかっていたことになる。

 鳶尾と橘萩尾は知り合いだということだろうか。

 鳶尾は長く朝廷に仕えている官吏である。

 差出人はかつての官吏なのだろうか。

 時華はおもむろに立ち上がった。

 文を懐に入れると太政官の建物を出た。

 外に出ると陽が頭上から燦々と降り注いでいた。

 いつの間にかすっかり昼刻になっていたようである。

(つい先刻、書庫で悠蘭ゆうらんに遭ったばかりだと思っていたが……)

 眩しさに手庇をしながら空を眺めていると時華を呼ぶ声が聞こえた。

「右大臣様、そんなところで立ち尽くしてどうなさいましたか」

 声がした方を振り返るとそこには年配の官吏が立っていた。

 見るからに疲労感満載な様子だった。

 多くの官吏はみな人不足で彼のようであることを時華はよく理解しているが、人材にも限りがある。

 すべてを希望のとおりにはできないのだ。

「……そなたは——」

中務なかつかさ省の山科やましなにございます」

「ああ、そうであったな。それで私に何か用か?」

「いえ。お声をおかけしたのはどこか遠くを見ていらしたので何かあったのかと思いまして」

 山科は淡々と答えた。

 時華よりは少し年上に見える山科は、先帝の御世から朝廷に仕える重鎮である。

 長く中務省におり、今出川楓いまでがわかえでとは違った意味で少輔しょうゆうである西園寺李桜さいおんじりおうを支える存在であった。

 これまで朝廷で起こったことをその目に焼き付けてきた生き字引のような貴重な人材とも言える。

「別に大したことではないのだ。ときが経つのが早いと思っておったところだ」

「まさにおっしゃるとおりです。私もいつの間にやらこんなに歳を取ってしまいました」

 はにかんだ顔にも疲労が滲んでいる。

 それは単に中務省が万年人不足だからなのか、それとも長年の朝廷勤めのせいなのか。

「それは私も同じこと。ところでそなたはこんなところで何をしていたのだ?」

「私は単に通りすがっただけにございます。図書寮から中務省へ戻るところでございました。それでは私はこれにて……」

 深々と頭を下げてから背を向けた山科を時華は引き止めた。

 山科の見せる疲労感が妙に気になった。

「山科」

「……何か?」

「怪我をした楓の代役として愚息が世話になっていると思うが、役に立っているのだろうか」

月華つきはな殿のことですか」

 山科は訝しげに時華を見た。

 臨時の官吏として中務省へ放り込んだ月華のことを官吏たちへは親戚と説明していた。

 真実を知っているのは李桜と楓だけなのだが、その秘密を時華はあえて山科に打ち明けた。

 長く朝廷に身を置く彼は情報の取り扱いをよく理解している、と信頼しているからだった。

 時華が何も答えなかったことを是と捉えた山科は小さくため息をつくと仏頂面で言った。

「右大臣様の親戚と伺っておりましたがご子息だったのですか。どうりで少輔が親しげにしているわけですな」

 山科のそれは官位も家格も上の相手にするような態度ではなかったが、時華はさして気にも留めなかった。

 山科もそれを見越しているのだろう。

 長年、曲者揃いの優秀な官吏の中で暮らしてきたのだ。

 これくらいの器量がなければ務まらない。

 李桜の性格によく似ている。

「騙すつもりはなかったがあまり大ごとにしたくなかったのでな。本業が休暇中だというから来させたのだが……使いものになっているのか気になっておったところだ」

「役に立つどころか大変助かっております。できれば臨時と言わず、ずっといていただきたいくらいです。ですが……そう言えばここ何日か見かけていませんね」

「今は別の仕事をさせておるのだ。李桜も承知しておる。まもなく戻れば再び世話になるであろうからよろしく頼む」

 任せているのは単なる仕事ではなく、九条家の嫁を取り返すという重要な仕事である。

 そう簡単に収拾がつくとは思っていないが、楓の怪我はまだ回復していないのだから、戻ったら再び臨時の官吏をさせるのが当然だと時華は思っていた。

「さようですか。右大臣様が鳶尾を宮内省から異動してくださったおかげで今のところ、何とかやっております」

 わずかに微笑むと山科は再び辞そうとした。

 その時、時華は思い出したように言った。

「そう言えばその鳶尾を見なかったか?」

「鳶尾、でございますか」

「ああ。実は鳶尾から文を受け取ったのだが、差出人に心当たりがないのだ。直接、鳶尾に確認しようと思っていたところだ」

 時華は懐から取り出した文を山科に見せた。

 彼は受け取った文の裏書を見て、わずかに眉を動かしたが時華が気づくほどではなかった。

「この橘萩尾という人物だが、そなた、聞き覚えはないか?」

「私が、でございますか」

「どうもいろいろな事情に詳しいようだから昔、官吏だったのではないかと思ってな。もし私が朝廷に仕える前のことであったなら、そなたや鳶尾の方が詳しいのではないかと思ったのだが……」

「申し訳ございませぬ。私は存じ上げませぬ」

「そうか……。いや、手間を取らせて悪かった。仕事に戻るがよい」

 そう言って差し戻された文を懐に入れると、時華は立ち去る山科を見送った。

(鳶尾を探しに行くか……? いや、それよりも先に今は榛紀しんき様の様子を確認するのが先か)

 鉄壁の守りを誇る九条邸の中にあって狙われるようなことはないだろうが、文の内容が真実だとすれば凌霄の御子たちを狙う3人の名は明らかになっている。

 3人のうちひとりは『鳳仙呪録』に記されていた稀代の陰陽師である可能性が高い。

 彼らを2人の皇子に寄せ付けないようにするのが叔父としての時華の役目でもあるのだ。

 時華は急ぎ御所を後にした。



 時華の前を辞した山科はその足で中務省へ戻った。

 入口で待ち構えていたかのように壁に背を預け、腕を組む鳶尾が彼を出迎えた。

 一瞬、視線が合ったが山科は何ごともなかったかのように沓を脱ぎ始めた。

 山科槐珠やましなえんじゅと鳶尾誠は決して不仲ではないが、驚くほどに馬が合わなかった。

 馬が合う相手に出会うのも珍しいが、これほど馬が合わない相手も珍しい。

「図書寮へ行っていたのではないのか。ずいぶんと遅かったではないか」

「鳶尾か……何か用か」

「何か用か、とは。心配してやったのに相変わらず連れないな、山科は」

「……途中で右大臣様を見かけてな。空を眺めてぼんやりされていたので思わず声をかけてしまった」

「それがまずいことなのか」

 沓を脱いだ山科は他の官吏に聞こえないように細心の注意を払って鳶尾の耳元に顔を寄せた。

「例の文のことを訊かれた。萩尾様のことがご記憶にないのか、そなたのことを探していたぞ」

「わ、わたくしのことを!?」

「声が大きいっ」

 山科は咄嗟に鳶尾の口元に手を当てた。

 鳶尾の目は左右を泳いでいたが幸い、誰にも気づかれてはいないようだった。

「そ、それで右大臣様は中務省ここへ来られるのか!?」

「何を怯えているのだ。何かやましいことでもあるのか」

「い、いや、そうではないが余計なことを言って萩尾様の足を引っ張りたくない」

「同感だ。だから例の文を見せられて萩尾様のことを訊かれたが知らぬ存ぜぬを通した」

「ず、ずいぶん大胆なことを……いや、同じことがあればわたくしもそうしたに違いない」

「我々は萩尾様が何をなさろうとしているのかは聞かされていないのだから、何も話せることはない。あの方が具体的に指示してくださるまでは静観しているより他にどうしようもないのだ」

 ふたりは互いに頷き合った。

 珍しく息が合った瞬間だった。

 そうして彼らは老体に鞭を打って仕事に戻ったのだった。

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