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第66話 賭けに負けても

紅葉くれはが飛び出したのはほとんど無意識だった。

 気がついた時には敦盛あつもり棗芽なつめの間に立っていたのである。

 ——君が家族同然に暮らしてきた仲間を斬ることになるかもしれないことは申し訳ないと思うが、誰も斬らずにこの事態を収集することはできない。

 棗芽がそう言った時には、それは仕方がないことだと思った。

 が、そう理解したつもりになっていたのはこの惨状を想像できていなかったからだ。

 今、紅葉の目の前に広がるのは戦場そのものであった。

 名前は知らなくとも邸の中ですれ違ったことくらいはある家臣たちが大量に息絶えて横たわり、当主の菱盛ひしもりは首を斬られた。

 そして今まさに敦盛の右腕の肘から下が斬り落とされ、その上討ち取られようとしている。

 妹尾せのお邸に戻った紅葉に棗芽が怒りを露わにしていたのは、この惨状を見せたくなかったからなのだとようやく理解した。

「お願い、これ以上この方を斬らないで!」

 紅葉は節目がちに懇願した。

 気持ちはその場に土下座をするような勢いだった。

 棗芽とはとても目を合わせることができない。

 彼が至極不機嫌な空気を醸し出したのをひしひしと感じた。

 だがなぜだか敦盛を見捨てるようなことはできなかった。

 何か言い訳をしなければと思った矢先、背後から、

「紅葉……」

 と呟いた敦盛の声が聞こえた。

 まもなくどさっと倒れる音が聞こえ、紅葉は思わず振り返った。

「敦盛様っ」

 敦盛が紅葉の声に反応することはなかった。

 倒れた彼の体の周りはどす黒く染まっている。

 斬られた腕から滴った血が当たりを染めているのだ。

 紅葉が倒れた敦盛に寄り添おうとすると突然、あずさの声が響いた。

「旦那様っ」

 騒ぎを聞きつけて邸の中から出てきたらしい梓が駆け寄って来た。

 梓は紅葉と棗芽が輪廻の華を連れ出した時には確かに敦盛とともに深い眠りの底にいたはずだが目を覚ましたのだろう。

 これだけの騒ぎである。

 気がつかないはずはない。

 梓が敦盛の体を譲ったが小さく呻き声を上げるだけで意識は遠い彼方にあるようだった。

「く、紅葉。一体何があったのですか」

 梓は消えるような声で言った。

 悲痛な視線が紅葉に刺さる。

「…………」

 紅葉は彼女の問いに答えることができなかった。

 自分が妹尾邸ここに連れて来た男が敦盛を討とうとしているなどと言えるわけがない。

 たが紅葉は紅葉なりに何とかしてこの事態を収拾しなければならないと思っていた。

 山吹やまぶき同様、敦盛もこのまま放置すればやがて命を落とすことになるからである。

「棗芽、お願い。これ以上、この方を斬らないで……」

 紅葉は深く頭を下げた。

 今できることはこれしかない。

「紅葉」

 状況に反して意外に優しい声が頭上から降り注いだ。

 それでも紅葉には懇願することしかできなかった。

「あ、あなたが敦盛様を討ちたいのはわかってるけど、もう十分じゃない。当主の菱盛様も討たれたのに、その上敦盛様まで討たなくても妹尾家はもう終わりよ」

「紅葉」

「ど、どうしても敦盛様を斬らなきゃならないならせめて梓様だけは見逃して。この方はあたしを妹のように可愛がってくださった方なの。この戦いとは関係ないんだし、それに——」

 何度も名前を呼ぶ棗芽の声は聞こえていたが紅葉はひたすらに言い分をまくし立てた。

 何とか棗芽に思いとどまってもらうためにはとにかく想いを伝えるしかないと思った。

 すると聞き入れない紅葉に剛を煮やした棗芽は最後には声を荒げたのだった。



「紅葉!」

 棗芽は紅葉の腕を右手で掴んだ。

 太刀の刃を握りしめたことでできた右手のひらの深い傷から滲む血が、掴んだ紅葉の袖を汚した。

 敦盛の腕を斬ったのは、誤算だった。

 本当は首を刎ねるつもりだったが、御形ごぎょうが操っていた鷹にえぐられた肩や、敦盛の刀を受け止めるために太刀の刃を握った手のひらから血を流しすぎたために一瞬、焦点が定まらず手元が狂ってしまったのだ。

 鬼灯きとうが妹尾家当主の首を刎ねたのは目に入っていた。

 あとはこの敦盛の首も落としてしまえば一旦は事態を収束できる、そう思っていたが中途半端に生かしてしまったためにかえって面倒なことになった。

 まさか紅葉が飛び出してくるとは思わなかったのである。

 棗芽に腕を掴まれた紅葉はここで初めて顔を上げた。

 今にも泣きそうな顔をしている。

 棗芽は込み上げてくる不愉快な気持ちを何とか押し込めることに必死だった。

 どうしても眉間に皺が寄ってしまう。

 紅葉は敦盛を守るように立ちはだかり、何やらぶつぶつと言い訳を並べていたが、棗芽の耳には何ひとつ入って来なかった。

 それほどこの死にそうな男が大事なのか。

 今すぐ首を刎ねてしまおうか。

 だが、そうするには紅葉を退かさなければならない。

 そんなことをすれば紅葉はますます足元に縋って懇願するのだろうか。

 他の男の命乞いをする紅葉の姿など見たくもない。

 負の感情と戦いながら紅葉をじっと見つめていると、しばらくして彼女は視線を逸らした。

 なぜ目を逸らすのか。

 そう問いただそうとした時、紅葉は血に染まる袖を見て声を震わせた。

「あ……あ、な、棗芽、血、血が……」

 戦うことに必死で意識していなかったが、思えばずいぶんと満身創痍だった。

 紅葉が青ざめるのも無理はない。

「大丈夫だ。致命傷ではない。血なら時期に止まる」

「で、でも、手当てしなきゃ……」

「私のことはいい」

 棗芽はこの時、恥ずかしながら心の内で喜んでいた。

 敦盛よりも軽傷な棗芽を心底心配してくれたことが嬉しかった。

 と同時にもしここで、紅葉の目の前で敦盛を斬ってしまったら彼女に恨まれるのではないか、という懸念が脳裏をよぎった。

 もし仮に紅葉が懇願するのを無視して敦盛を斬ったとして、その後、紅葉が棗芽の元を離れていくようなことになったら……。

 考えただけで背筋が凍った。

(……私もずいぶんと尻に敷かれたものだ)

 棗芽はこめかみを押さえながら深くため息をついた後、近くで息絶えている者の着物を太刀の刃で切り取り始めた。

 紅葉と梓の視線を浴びながらあっという間に裾から大判風呂敷ほどの大きさを切り取る。

 棗芽は太刀を背中の鞘に収めると膝をついて敦盛の右腕に切り取った布を巻き始めた。

 止血をするためだった。

「な、棗芽……?」

「……斬ってほしくないのだろう? 死なせたくないのならすぐに手当てすることだ。これは単なる応急処置だから」

「助けて、くれるの?」

「……これ以上、君がこの男のために頭を下げる姿を見ていたくないだけだ」

 少し恥ずかしそうに棗芽が視線を逸らすと紅葉が勢い余って首に抱きついてきた。

「ありがとう!」

 ふわりと目の前に紅葉の髪が揺らいだ。

 これまで肩に担いでみたり、抱きかかえてみたりと彼女に触れたことはあったがこれほどまでに間近で密着したことはなかった。

「紅葉……?」

 名前を呼ぶと紅葉は一層、抱きつく腕に力を込めた。

 彼女の頬が密着すると心の臓が口から飛び出るほどに早鐘を打った。

 顔は火が出るほどに赤くなっているに違いない。

 すると紅葉は、その勢いのまま今度は棗芽の膝に乗った。

 驚きのあまり棗芽が後ろにひっくり返りそうになると紅葉は振り落とされまいとさらに首に縋った。

「く、紅葉っ、止めろ」

 血を失い過ぎたのか、踏ん張りきれなかった棗芽は紅葉を守るようにきつく抱きしめたまま尻もちをついた。

 上半身が密着して、どうしていいかわからずにおろおろしているところへ鬼灯が薄笑いを浮かべながら近づいて来た。

「棗芽。お前は敵前で何をしているのだ」

「な、何と言われましても……私にもよくわかりません」

 見上げると鬼灯はどこか笑いを堪えているように見える。

「あ、兄上……?」

「あの男は斬らぬのか」

「そのつもりです。利き手はすでに使い物になりませんし、これ以上戦う意思はないかと」

「自分に討たせろと言っていたのはどこの誰だったか……」

「気が変わりました」

「気が変わっただと? 棗芽、戦は囲碁ではないのだ。万が一、再起したあの男が幕府に楯突くようなことがあれば——」

「その時は私が責任を取ります」

「お前が?」

「はぁ……兄上もお人が悪い。大将を多く討った方が勝ちという賭けだったはずです。私が負けたのは明らかなのですから、兄上との約束は守りますよ」

 鬼灯が勝った際の望みはこの戦いが終われば棗芽に幕臣に戻ってほしいというものだった。

 だから万が一、見逃した敦盛が妹尾家を再興して反旗を翻した時は幕臣として棗芽が討伐の先頭に立つ、ということを宣言したのである。

「ほう。それは楽しみだ」

 怪しく煌めく笑みに棗芽は謂れのない恐怖を感じて固唾を呑んだ。

(これはこき使う気満々だな……)

 安易に幕臣に戻ると受け入れたことを棗芽は後に盛大に後悔することになるのだった。

 気を取り直して棗芽は目の前に迫る紅葉に視線を戻した。

 潤んだ瞳に吸い込まれそうになりながら正気を保つのが精いっぱいだった。

 先に口を開いたのは紅葉だった。

「棗芽、梓様のことは——」

「大丈夫だ。あの男とも約束した。女や子どもに手を出すほど非情ではない」

 紅葉は安堵したのか表情を和らげた。

 気がつけば紅葉もあちこち汚れており、顔も埃まみれになっていた。

 それでも棗芽には心を許してくている彼女が輝いて見えるのだから、相当な重症であるのは間違いない。

 まともに紅葉の顔を見ていられなくなった棗芽は視線を外して言った。

「そんなことよりも紅葉、そろそろ退いて、くれないか」

 棗芽の膝に居座っていた紅葉が慌てて立ち上がると、離れていく温もりに寂しさを覚えた。

 だがまだ戦いのすべてが終わったわけではない。

 月華つきはなたちを追った御形を追わなければならないのだ。

 ここでぬくぬくと休んでいるわけにはいかない。

 気を引き締めて立ちあがろうとした棗芽だったが膝を伸ばした瞬間、景色がぐるぐると回って見えた。

 まるで酒を呑み過ぎた後のように辺りが歪んで見える。

 白い光が差してきたように感じた直後に棗芽はその場に倒れた。

「棗芽っ!」

 鬼灯と紅葉が同時にそう叫んだ声も棗芽の耳には届かなかった。

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