第62話 無力さを思い知って
白檀は戦場に戻った山吹と紅葉が向かった先を呆然と眺めていた。
寝不足の上に夏の日差しが差し込んできたせいで白檀は立ちくらみを起こしその場に片膝をつく。
「白椎様、大丈夫ですか!?」
雪柊に支えられてその場に腰を下ろした。
「すみません、雪柊。すっかり私は足手まといですね」
「何をおっしゃいますか。休まずここまで来ましたからね。日も高くなっていますし、もう少しここで休んで行きましょう」
「いいえ! 休んでいる暇はありませんっ。先を急ぎましょう」
立ちあがろうとしてまたふらついた白檀の体は雪柊によって強制的にその場に座らされた。
「無理をしたところで何の意味もありませんよ。目下、あなたが方法を明かさないから百合の異能を消すことができるのはあなただけなのです。無事に京へ辿り着かなければそれこそ、月華に締め上げられますよ」
雪柊は笑いながら言ったが、白檀には笑えない冗談に聞こえた。
月華ならやりかねないと思ったからである。
血の繋がった従兄弟だと知った今なら、容赦なく責め立てるよう気がする。
軽く想像して白檀は身震いした。
「今回は仕方がありません。慣れないあなたには過酷な旅路だったでしょう。夜中に旅立ち、寝る間も惜しんで消化活動を手伝った上、武家邸に討ち入りしたのですから。もしかしたら棗芽と備中国を出た時からほとんど休んでおられないのではないですか」
言われてみれば確かにまともに寝たのはいつだったのか思い出せないほど前のことだ。
白檀はため息をつくと黙って雪柊に従うことにした。
木陰の下で膝を抱えると白檀は先刻まで一緒だったふたりに想いを馳せた。
本当は行かせたくなかった。
だが紅葉はどう言っても聞き入れなかっただろう。
それほどまでに棗芽と紅葉は心が繋がっているのだと何となくふたりの行動を見ていて気がついていた。
こんな状況でなければ心からふたりを祝福したいところだが、今はそんな気持ちになれなかった。
山吹の葛藤を思うとそれもまた心が痛んだ。
手放すべき時は手放さなければならない、などと我ながら残酷なことを言ったと思う。
山吹はひた隠しにしていたが、彼が紅葉のことを妹以上に愛していることを白檀は知っていた。
その愛する相手を他の男の元に行かせるべきだと進言したのだから、山吹の心中を思うと居たたまれないところはある。
山吹は認めたくない一方で紅葉の幸せを想い、戦場へ戻っていったのだ。
「あのふたりなら大丈夫でしょう。最強の兄弟がついているのですから」
白檀の隣に腰を下ろした雪柊は目を細めた。
「北条家の兄弟はそれほど強いのですか」
「そうですね。強いと思いますよ。私は何度もあのふたりに負けていますから」
「ふたりに? 鬼灯だけでなく、棗芽にも?」
「ええ。あの子は私の弟子ですが本気になったあの子はある意味、最強ではないでしょうか。死ぬ寸前まで戦い続けられる気力の強さは誰にも負けません」
「それなら——」
「大丈夫。紅葉のことも山吹殿のことも鬼灯と棗芽が必ず守ってくれます」
白檀は安堵の息を漏らしたものの、不安が消えているわけではなかった。
悩みの種は三公のことである。
備中国に巣食う魔物のうちのふたりは姿が見えなかった。
白檀はそれが妙に引っかかっていた。
倒幕を目論んでいると思われる妹尾菱盛は北条鬼灯と棗芽の兄弟が敦盛ごと斬り伏せることだろう。
幕府に仇なす禍根を残すとは思えない。
輪廻の華に執着していた御形は百合が備中国を出たことに気がついているのだろうか。
気がついていなかったとしても北条家の兄弟が御形の存在を放っておくとは思えない。
邸の中にいたのなら遅かれ早かれ対峙するはずである。
気になるのは橘萩尾の存在だった。
戦いに身を投じるとは思えない。
早々に逃げ出したのだろうか。
「雪柊。朝廷にいた頃、橘萩尾という男のことを聞いたことはありませんか」
「橘萩尾、ですか? さぁ……記憶にはありませんね。私が朝廷を去ったのはあなたが宮中を出た翌年のことですから、随分前ですしね」
「私が京を出た後? まさかあの時の責任を取らされて——」
白檀は雪柊が朝廷を去ったのは妻子を殺されたからだと思っていたため、自分が原因だったのではないかと一瞬戦慄が走った。
「いいえっ、違います。春の園遊会で起こった事件の後、私はあなたの護衛をするという特別任務を解かれ、元の兵部省へ戻りました」
白檀がほっとして胸を撫で下ろすと雪柊は続けた。
「私の妻はね、風早家の血縁だったのです」
「え? 師匠の?」
「はい。妻の桔梗は当主であった橄欖殿がなぜあの事件起こしたのか調べるために宮中に潜り込み、夜な夜な朝廷の書庫の周りをうろついていたのですよ。それをきっかけに親しくなりましてね。結局は桔梗を迎えることを久我家に反対されたから自分から全てを捨てたのです」
平然と事実だけを話す雪柊に白檀の方が心が凍りつく思いだった。
雪柊が迎えた妻が何らかの理由で亡くなったことは白檀も風の噂で耳にしていた。
だがその妻が風早家の出自であったことは知らなかった。
すべてを捨てて妻を選んだのにその何よりも大切な妻を失ってしまったことはどれほど辛いことだっただろう。
言葉では語り尽くせない苦痛を味わったに違いない。
それでも雪柊は妻の後を追わずにこうして今もそばにいてくれている。
それが何より白檀にとってはありがたかった。
白檀もまた数奇な運命の元に生まれ、母を亡くし父からも見放され長年、唯一の肉親である弟にも会えなかった。
孤独の辛さなら白檀にも嫌というほどよくわかる。
白檀は無意識のうちに雪柊の腕を掴んだ。
「大丈夫ですよ、白椎様。1度は桔梗の後を追うことも考えましたが、今は全くそんなことは考えていません。命が尽きるまであなたたちのそばを離れないつもりです。役目を終えた時には妻が迎えにくるでしょうしね」
雪柊は屈託なく笑った。
その場凌ぎなどではなく本心からなのだと白檀にも十分わかる。
「さて、話は逸れましたが昔朝廷にいたという人物の話でしたね。その人物がどうかしたのですか」
雪柊に促され、本題を思い出した白檀は大きく頷いた。
「長年、妹尾家にいて当主の菱盛や異能者の御形とともに三公と恐れられていたのです。かつては朝廷いたらしいのですが何者なのかは誰も知りませんでした。あまり表立って出てくるような者ではないのですが、あの騒ぎの中で全く姿を見せなかったことが妙に気になっているのです」
「かつて朝廷にいたのに今は備中国にいる、ですか……。あの方ならご存知かもしれませんね」
「あの方?」
「時華様です。月華のお父上の」
意外な人物の名を耳にして白檀は面食らった。
時華とは知らない仲ではないが、萩尾のことを訊いてみようと考えたことはなかったからである。
「かつて朝廷にいた官吏となれば年齢的にも時華様に近いのではないですか」
「確かに……言われてみればそうですね」
萩尾の年齢は聞いたことがないが見た目からしても菱盛や御形と同じような年齢層であるのは間違いない。
40から50の間と思っていいところだろう。
「でしたらその頃から朝廷に身を置いておられる時華様はまさに生き字引のようなものでしょうね。それに蘭子様を妻に迎えられ、先帝の信頼も厚かったはずですからもしかしたら何がご存じかもしれません」
もし萩尾が三公として菱盛や御形と別の動きをしているとしたら、狙いは何だろうか。
菱盛は時華を中心とした親幕派が朝廷を動かしていることを面白く思っていない。
かつての贅を尽くした貴族社会を取り戻そうとしている。
だからこそ同じように倒幕派だった近衛柿人を引き入れて朝廷をひっくり返そうとしていたのだ。
その先に待っているのは……想像しただけでも不安で鼓動が速くなる。
白檀は恐る恐る雪柊に訊ねた。
「雪柊、もし妹尾家を中心とした西の勢力が朝廷を乗っ取るようなことがあったとしたらどうなると思いますか」
自分の考えが外れていてほしいと思う反面、もし同じ結末を想像するなら雪柊ならどう対処するのか聞いておきたかった。
雪柊は白檀のとんでもない質問に細い目を見開いた。
「恐ろしいことをおっしゃいますね、白椎様は。私はすでに朝廷を離れた身ですから、そんなことは考えたこともありませんよ」
「では今考えてみてください。お願いします、大事なことなのです」
白檀が懇願すると少し間を置いて雪柊は重い口を開いた。
「白椎様がおっしゃるように朝廷を乗っ取るだけの力が西国にあるのなら、まずは今の朝廷を支える摂家を取り込むか、討伐するでしょう。朝廷は帝おひとりが動かしているわけではありませんからね。支える重鎮たちを黙らせなければすぐに朝廷は機能しなくなります」
「近衛家を取り込もうとして失敗した彼らは次に鷹司家を取り込もうとした。しかしそれも失敗に終わっています……いや、失敗したかどうかはわかりませんね。嫡子の杏弥は使いものにならなかったが、当主の棕櫚はまだ顕在です」
「鷹司家を諦めたとして、一条家や二条家は摂家といってもさほど力を持ってはいません。こうなってしまっては九条家に手を出すことは考えていないでしょうから、あとは帝の榛紀様を手中に納めることを考えるのではないでしょうか」
「それはつまり——」
「ええ。榛紀様に危険が迫っている可能性がありますね」
白檀は自身も想像していた恐ろしい結末を改めて聞かされ、居ても立っても居られず立ちあがろうとした。
すると袖を強く掴まれ、そのまま元の場所に尻もちをつくことになった。
「お待ちください、白椎様」
「離してください、雪柊。榛紀に危険が迫っているかもしれないのに私だけここでのうのうと休憩しているわけにはいきませんっ。まさかとは思うが橘萩尾は榛紀を狙っているのかも……」
「不安な気持ちはわかりますが少し落ち着かれるべきです」
「そんな悠長なっ」
「榛紀様なら大丈夫です。今頃、九条家の庇護を受けているはずです。たとえ刺客といえどあの邸は簡単には入り込めません」
「そう、ですよね」
雪柊の話を聞いて少し冷静さを取り戻した白檀は頭を抱えながら答えた。
寝不足のせいか、考えすぎのせいか頭が割れそうなくらい痛い。
白檀は急激に疲労を感じ始めていた。
「今、あなたがするべきはまず休むことです。どうせ九条家に向かうのですから、到着すれば榛紀様にはすぐに会えますよ。あとのことはそれから考えれば良いではありませんか。私が見守っていますから、あなたは眠ってください」
雪柊の声がまるで子守唄のように聞こえ、白檀は自然と頭を雪柊の肩に預けた。
まるで子どもをあやすように優しく頭を撫でられながら白檀は徐々に意識を手放していった。
この時、ふたりはまだ榛紀が九条家を出て内裏に戻ったことを知らなかった——。




