第60話 現世と常世の間
目を開けると芙蓉は別の世界に立っていた。
空には澄み渡った青がどこまでも続き、辺り1面には真っ赤な曼珠沙華の庭が広がる。
桐江から話に聞いてはいたが、芙蓉が実際にこの空間に来るのは初めてだった。
桐江はここのことを『曼珠沙華の庭』と呼んでいた。
曼珠沙華の庭は風もなければ音もない不思議なところである。
大きな川が近くに流れているが、川のせせらぎも聞こえない無の世界。
「ここが曼珠沙華の庭……」
かつて桐江に教わったことがある。
現世と死者が向かう常世の間には曼珠沙華の庭がある、と。
常闇の術は、本来なら生身の体では行くことができないはずの現世と常世の間を行き来することができる異能である。
呼吸が止まったり、心の臓が止まってもこの曼珠沙華の庭に漂っているうちは、現世に戻すことができるらしい。
ただし桐江によれば5つの術にはそれぞれ使用する回数に上限があるという。
それは術者が自分の寿命と引き換えに術を発動するからだ。
『常世渡り』
『常世戻し』
『業縛り』
『業解き』
『解』
最も負担になる『常世渡り』の術は川を渡ってしまった相手を自らも川を渡り連れ戻すため、使えるのは1度しかない。
川を渡ってしまえば完全に死んでしまうため、死者を生き返られせる方法とも言える。
それゆえに寿命は半分に削られるほどに負担になるのだ。
桐江によれば『常世戻し』の制限は数回だと言う。
川を渡り切っていないとはいえ1度、常世へ向かおうとした魂を現世に戻すのはそれなりにに大変なことである。
負担が少ない『業解き』に回数制限はないが、使えば使うほど寿命が削られることには変わりない。
どこまでも広がる赤の世界で芙蓉は辺りを見回した。
「どこかに先刻の男がいるはずだけど……」
ひとりごちた彼女に返答する者は誰もいない。
すると前方に音もなく曼珠沙華を掻き分けて歩く者を見つけた。
慌てて駆け寄るも、こちらの動きも音を発しないため前方を行く相手は芙蓉の存在に全く気がついていなかった。
芙蓉は相手の腕を掴むと強く引いた。
「お待ちください!」
振り返った相手はまさしく滝口の近くで倒れ込んだ男であった。
「誰だ」
土気色をした顔が無表情に言った。
男は自分の身に何が起こっているのかわかっていないようだ。
「お待ちください。あなた様はどこへ向かわれているのですか」
男は行く先にある川を指差した。
「どこってあの川の向こうへ向かっている」
「川の向こう!? それはいけませんっ」
芙蓉が掴んだ腕をさらに引くと、男はそれを振り払った。
「無礼者っ」
「無礼は承知しております。ですがあの川を渡ってはなりませぬ」
「私がどこへ向かおうと私の自由だ。そなたの指示を受ける謂れはない」
男は芙蓉が止めるのも無視して歩みを進めた。
足早に川に近づく男を追いかけると、男はそのまま川に足を踏み入れた。
流れのある澄んだ川だったが、水の音はしない不気味な流れである。
芙蓉は男を止めるため川に入ろうとして、一瞬躊躇った。
この先は常世に繋がっている。
川に入ってしまえばもう『常世戻し』の術は使えない。
川を渡り始めた男の背中を見つめ、芙蓉は思った。
このままでは『常世渡り』の術を使うしかない。
1度しか使えない術をこの知らない男のために使うべきだろうか。
悩んでいる間にも男はずんずんと進んで行く。
芙蓉はもうなるようになれ、と覚悟を決めて川に入ったのだった。
「気がついたか?」
目を開けた芙蓉の目に入ってきたのは、覗き込む男の顔だった。
そう、曼珠沙華の庭まで迎えに行った相手である。
驚いて目を見開くと男は嬉しそうに微笑んでいた。
芙蓉は辺りを見回した。
豪華な刺繍が施された布で囲われた小さな空間でその中に敷かれた布団で寝ていたようだが、全く見覚えのない場所である。
宮中とはいえ、下女が寝る布団がこれほど高級なわけはない。
(もしかしてこれは夢かしら……?)
体を起こそうとすると、男がそれを手伝ってくれた。
芙蓉は男の顔をまじまじと見つめた。
この顔には確かに見覚えがある。
滝口で偶然見かけ、苦しみながら助けを求めていたように見えた男に間違いない。
たがよく見ると男の身なりはその時とは比べ物にならないほど豪華なものになっている。
まるで別人のようだった。
(衛兵かと思っていたけど、もしかして高貴な役人か何かなのかしら……)
そんなことを思っていた芙蓉も、やがて困惑した表情を見せるようになった。
先刻まで確かに曼珠沙華の庭にいたはずである。
川を渡ろうとした男を追いかけて自分も川に入ったところまでは朧げに覚えているがその後は記憶に残っていない。
どうやって現世に戻ってきたのかもわからないし、なぜ知らない寝床で寝かされているのかもわからなかった。
それにふかふかの布団に寝かされていたせいか、妙に肩が凝っている。
(まさか、全部夢だったなんてことは……でもそれならこんなところで寝ているはずはないわ)
芙蓉が百面相のようにころころと表情を変えるので男は訝しげに言った。
「言っておくが、夢ではないぞ」
「…………!」
心を読まれたのかと思い、絶句したがそんなことはありえないと思い直した。
「そなた、もしかして川の向こうへ辿り着いた時のことを覚えていないのか」
「…………!?」
やはり男は庭で会ったことを覚えているらしい。
しかも川を渡ったことまで知っているのだから、芙蓉が夢を見ていたわけではないという男の主張は正しいのだろう。
しかし川に入った後の記憶がないだけに、何をしでかしたのか恐ろしくなった芙蓉は徐々に青ざめていった。
「はははっ。今頃思い出して青ざめているのか」
「い、いえ、思い出すどころか途中から記憶にないものですから……」
「記憶にない、だと?」
「はい。ご迷惑をおかけしていたのでしたら、お詫びいたします」
芙蓉が深々と頭を下げると男は腹を抱えて笑った。
「はははっ。おもしろいな、そなたは。覚えていないというのなら教えてやろう。そなたは川を渡った私の腕を掴んで離さなかっただけでなく、人も話も無視して強引に引っ張って行ったのだ」
「えぇぇぇ!?」
驚愕のあまり芙蓉が口元を抑えると、男は面白がって続けた。
「私が何度戻らないと言ってもそなたは受け付けなかった。猪突猛進とはあのような行動を言うのだろうな。あっという間に曼珠沙華の咲く畑に戻された」
再び男は大笑いした。
覚えていないとはいえ、芙蓉はここまで笑われると穴があったら入りたい気分になった。
滝口で偶然発見した時に見た彼の顔が助けを求めているように見えたから助けたはずだったが、実際に曼珠沙華の庭であった男は確かに引き止めることに不満を抱いていた。
勝手に後を追ったのは芙蓉の方である。
本当は助けを求めたわけではなかったのだろうか。
現世に引き戻したのは芙蓉の自分本位な行動だったのだろうか。
「——だが、なぜあそこまで必死になって川を渡らせまいとしていたのだ?」
「それは……あなた様が倒れられた時に一瞬、助けを求めていらっしゃるように見えたからでございます」
「だが、私とそなたは赤の他人。別にあそこで私が倒れようとそなたには関係ないのではないか」
「ですが、お助けする方法を知っているのに見て見ぬ振りはできませんでした」
「助ける方法とやらが川を戻ったことと関係あるのか? そもそもあそこは何なのだ? 随分と不気味な場所であったな」
「あれは、現世と常世の狭間。本来なら死んでいる者しか行くことができない世界です」
「私もそなたも1度死んだのか」
「いいえ、亡くなったのはあなた様だけでございます」
しばらく考えた後、男は大真面目に言った。
「そなた、もしや妖の類か」
「違いますっ」
すると男は再び腹を抱えた。
からかわれたと思い芙蓉は少し苛立ちを覚えた。
「私はあの世界に出入りすることができる異能を持つ者。あなた様が急に倒れる寸前、助けを求められている気がしたので、あの庭に行ったまでですっ」
「庭?」
「あなた様もご覧になったはずです、一面真っ赤な曼珠沙華の畑を」
「あぁ……あの畑は曼珠沙華の庭というのか」
「そのようです」
不機嫌な声で答える芙蓉に男は目を細めた。
まるで品定めされているかのような気になる。
現世に戻したことを責めているのだろうか。
芙蓉は自分本位に行動してしまったことに焦りを感じ始め、恐る恐る訊ねた。
「あの……もしかしてお助けしたことはご迷惑だったのでしょうか」
「迷惑ということはないが……少し思うところがあっただけだ」
「……ご病気か何かだったのでしょうか」
「病? こう見えても病などとは無縁の人生であった」
「では何か気に病むことでもおありでしたか」
「気に病むほど暇ではないが……ただひとつ、後悔していることならある。毎夜、ひとり床に就くとその後悔の念が波となって押し寄せてくるのだ——随分と私の事情に立ち入ってくるのだな、そなたは」
芙蓉は立ち入ったことを訊きすぎてしまったことを指摘され、赤面しながら平頭した。
高貴な官吏かもしれないと思っていたはずなのに、下女の分際で深入りしすぎてしまったと思った。
「も、申し訳ございませぬ! 余計な詮索でございました」
すると男は優しい声音で言った。
「いや、責めているわけではないのだ。あれは一刻の気の迷いであった。全てを投げ出したくなってしまったのだが、そうするべきではなかったから、引き戻してくれてよかったのかもしれぬ」
芙蓉が肩をすくめていると男は優しく微笑んだ。
「体は大事ないのか」
「…………?」
「人ならざる力を使ったのだろう? 体に影響はないのか」
芙蓉は体を小さくしながら頷いた。
「そうか……。これからはここで生活するとよい。私は一旦、離れるがまた後で様子を見に来るとしよう」
そう言い残して男は去っていった。
男は芙蓉の異能のことを『人ならざる力』と言った。
眉唾ものだと思われるのが普通のはずなのに男はなぜすんなりと受け入れたのか、芙蓉にはわからなかった。
結局、ここはどこで男は何者なのか何ひとつわからなかったが、今は考えないことにした。
芙蓉はどっと疲れを感じていたからである。
1度しか使えない術を使ってしまい、芙蓉の寿命はすでに半分に削られているせいだろう。
だが後悔はなかった。




