第6話 足元を掬われた瞬間
橘萩尾は文机に向かっていた。
ゆっくりと目を開ける。
目の前にはまっさらな紙があり、硯には磨り立ての墨汁がたっぷりとあった。
文を書こうにも誰に何をしたためれば最適なのか、判断しかねている。
萩尾は腕を組みながら白紙をじっと見つめた。
かつての友である先帝の凌霄と風早橄欖のことを思い出すのはいつぶりのことだろう。
ふたりはすでにこの世にいない。
あの平和だった頃を思い出してしまったのは、事態が動き始めているからなのかもしれない。
必ず橄欖の力にもなると約束したのに、それを果たすこともなくむざむざと死なせてしまった。
何の助けにもならなかった自分が不甲斐ないことこの上ない。
そして橄欖を陥れ、死に追いやった者も許すことはできない。
いつか必ず報いを受けさせる。
そう心に誓いはしたものの、今の萩尾は何の力も持っていない。
長く朝廷を離れ、その人脈のほとんどは失われてしまった。
今はわずかな人脈が残っているだけで、できることは少ない。
だが萩尾は決して諦めてはいなかった。
機会が巡ってきた暁には必ずあの者の息の根を何としても止める、萩尾はそう決めていた。
風雅の君が忽然と姿を消したのは昨日より前のことだ。
萩尾は奥の牢部屋に風雅の君を入れることに賛同してはいなかったが、牢とは言っても鉄格子が嵌められ自由に出入りできない部屋なだけであって、畳の敷かれた普通の部屋であることには変わりないと思い、表立って反対はしなかった。
山吹が戻るまでの措置であることもわかっていた。
それがまさかこんなことになろうとは……。
昨日の朝、妹尾家家臣の遺体が邸の入口から風雅の君がいた牢部屋までの道に沿って何体も発見され、邸の中が騒然とし始めた。
一昨日の深夜、奥の牢部屋に風雅の君がいることを妹尾菱盛が確認しているというから、誰も気がつかなかったとはいえ消えたのはその後、朝までの数刻の間ということになる。
風雅の君は果たして自身の意思で邸を出たのか、それとも何者かに連れ去られたのか。
聡い彼のことだから、山吹が戻るまでの人質にされたことは理解していたことだろう。
それをわかっていながら邸を出たということは、やはり彼の意思ではないのだろうか。
萩尾は再び目を閉じた——。
妹尾家に居つくようになってから数年が経ったある日。
萩尾が邸の廊下を歩いていているととある人物に呼び止められた。
「あの……」
萩尾が振り向くとそこには見知らぬ男が不安な表情で立っていた。
年のころは若いが若者特有のはつらつとした雰囲気はない。
少し控えめな仕草は何か重大なことを抱えているようにも見えた。
「私に用ですか」
京に住んでいた頃はこんな丁寧な物言いをすることはなかったが、この備中国では借りてきた猫として本来の自分を偽らなければ暮らしていくことができない。
そう考えてきた萩尾は、誰よりも、誰に対しても丁寧に接することがすっかり身についていた。
「すみません、慣れないお邸で少し迷子になってしまいまして」
「新しい奉公人ですか」
「い、いいえ。あっしは全国をまわる行商人です。こちらのお邸でも商売をさせていただいたところなんですが、自分がどこにいるのかすっかりわからなくなってしまったんで」
「ああ……確かに。この邸は不自然に増築を繰り返したせいで複雑になっていますからね。住んでいる私でもたまに迷ってしまうくらいです。それで、どこに向かっているのですか」
「実はひとつ、個人的なお届け物があるのでその方をお探ししてるんですが……」
上目遣いに見つめてくる行商人はもじもじしてなかなかその先を言おうとしなかった。
「誰宛の荷物ですか。私が代わりに届けましょうか」
「そ、それがご本人に直接手渡すように仰せつかったもので、お願いするわけにはいきません」
「では宛先の方まで連れて行ってあげましょう」
「ほ、本当ですか? それはありがたい!」
萩尾は内心、ひょんなことから面倒なことを請け負うことになったと思った。
急いでいるわけではなかったので寄り道をするくらい何でもないことだったが、もし宛先が好まぬ相手のところだったとしたら、その顔を見ることになるだけで憂鬱だ。
「それで、一体誰宛なのですか」
行商人は懐から1冊の本を取り出した。
「橘萩尾様宛だそうです」
面食らった萩尾は数回瞬きをすると、素直にそれが自分であることを行商人に告げた。
行商人は本人に手渡せたとそっと胸を撫で下ろし、萩尾に本を差し出す。
ぱらぱらとめくってみたものの、大した内容のない単なる物語のようである。
眉根を寄せて萩尾は行商人を問いただした。
「これは誰から預かったものですか」
「朝廷の——中務省とかいうところの方です。確かお名前は山科……あれ、何ておっしゃったかな? ちょっと忘れてしまいました。宛先の方にはお渡しすればわかるから、と言われたもんで。とにかく厳しい方でこっちは終始震えが止まりませんでしたよ」
と、行商人は苦笑しながら答えたのだった。
行商人と別れ、意味の分からない本を受け取った萩尾は自室に戻って改めて頁をめくった。
差出人は山科槐珠だという。
槐珠は萩尾が官吏をしていた時代からの親しい友人であった。
今もときどき朝廷の様子や京のことを文で知らせてくれる、萩尾にとっては重要な情報源であったが本を送られたのは初めてのことだった。
本は決して新しいものではなく、読み古したそれはところどころ色褪せている。
いつもなら文に何かしらしたためてくる友人の、友人らしからぬ不可思議な贈り物に違和感を覚えた萩尾は念入りに頁をめくる。
するとちょうど真ん中あたりに不自然な1頁があった。
他の頁とは明らかに紙質が違い、後からその1頁を足して製本し直したとわかる状態だった。
萩尾は急いでその頁に目を通した。
中にはこう記されていた。
『先日、宮中で行われた春の園遊会で大変なことが起こった。
茶人の風早橄欖が凌霄陛下を弑逆しようとした罪で投獄された。
今年の園遊会では橄欖の一番弟子である風雅の君のお披露目会を兼ねていたが、こともあろうか橄欖は風雅の君が帝に点てた茶に毒を入れたようだ。
もちろん風雅の君がしたことではないことは近しい者すべてが理解しているが、多くの公家が風雅の君の弾圧に乗り出している。
毒を盛られた帝は生死の狭間を彷徨われたが、何とか一命を取り留められた。
しかし何の因果が帝の生還と刻を同じくして風雅の君の母上である芙蓉様が亡くなられ、宮中は大変な混乱の中にある。
このままでは風雅の君も京を追放されるかもしれない。
どうしたものか。
知恵を貸してはもらえないだろうか』
1頁を読み終えた萩尾は自室で驚愕に声を震わせた。
「こ、これは一体どういうことだ……!?」
中身を読んで、槐珠がこのような不可思議な方法で知らせてきたことを萩尾は理解した。
帝が弑逆されそうになった上にそれを帝の親しい友人である橄欖が主導し、帝の息子にさせるという前代未聞の醜聞である。
外に漏らすことなど到底できるわけがない。
いずれある程度の内容は京の外にも漏れてしまうだろうが、風雅の君の行く末を案じる萩尾の事情を知っている槐珠だからこそ、いち早く知らせてくれたのだ。
手の中の本がはらりと床の上に落ちた。
萩尾には現実として受け止められない内容だった。
橄欖とともに凌霄のもとで夜が更けるまで語らった日々が昨日のように思い出される。
その橄欖が友である凌霄を殺そうとした……?
橄欖はかつて、自分の娘たちには茶の湯を教えるつもりはないが凌霄の子がそれを望めば喜んで教えると言い、現実、橄欖は有言実行した。
年齢に似合わずどんな官吏も頭を抱えるほど聡明で風雅の君という二つ名を持つようになった凌霄のひとり目の子である白椎を誰よりも可愛がり、茶の湯を教えていたと萩尾は思っていた。
これには何か理由があるはずだ。
萩尾はそう信じて疑わなかった。
橄欖にはそうしなければならない何かがあったのだ。
ということは橄欖にそれをさせた人物が他にいるはずである。
だが残念ながらそれを橄欖に直接問いただすことはできない。
弑逆未遂の罪で投獄されたからには極刑は免れないだろう。
もしかしたらすでに刑に処されているかもしれない。
萩尾は天井を仰いだ。
なぜこのようなことになってしまったのか。
凌霄のためを想ってこの妹尾家に潜伏して早数年。
こんな結末になるのなら、京を、凌霄のそばを離れるのではなかった。
萩尾は強い後悔の波に押しつぶされそうだった。
足元を掬われるとはまさにこのことではないか。
目尻からひと筋の涙が零れそうになるのを萩尾はぐっと堪えた。
まだやることがある。
風雅の君を何とかしなければならない。
萩尾は慌てて自室を出ると一目散に走り出した——。
再び目を開けた萩尾は深く息を吐いた。
風雅の君はかつての友人であり今は亡き先帝——凌霄の落とし種である。
事件が起こり宮中に置いておくことができなくなった白椎を引き取るべきだと、菱盛と御形を説得したことが昨日のように思い出される。
風雅の君は一体どこへ行ったのだろうか。
妹尾家嫡子の敦盛が風雅の君を追っているが果たして見つけることができるだろうか。
内心はすぐにでも自ら風雅の君を探しに行きたいところである。
だが今はまだそうするわけにはいかない。
備中国の者にはまだ正体を知られるわけにはいかない。
長年、人格を偽り気弱な男を演じてきたことが無意味になってしまう。
萩尾は動けない自分の代わりに、万が一京に風雅の君が現れた時のために助けを請う文をしたためることにした。
1通は今も現役の官吏として中務省にいる山科槐珠に、そしてもう1通、事情を知れば必ず手を貸してくれるだろう人物へ向けて筆を執った。
萩尾はぼんやりと天井を仰ぎぽつりと呟いた。
「私からの文を信じてくれるだろうか」