第59話 寝待ち月の夜
九条月華はやっとの思いで取り戻した妻を抱え、急ぎ京を目指した。
腕の中の妻は一向に目を開ける気配がない。
休暇を取得して京に戻ったばかりの頃はまだ、百合が気を失うことなどなかった。
寿命が縮んでいるせいで横になる刻が増えていることはあっても、あれほど騒がしい場所で目を落としたままということはなかった。
異能を消す方法を知っていると言った白檀曰く、本人の意識がなければ異能を消すことはできないようだからあの場を去ったが、本当に百合の意識があれば異能を消せるのだろうか。
少し見直すところがあったとて、腹の中がわからない相手であることに変わりはない。
白檀という男を信用していいのだろうか。
月華は疑心暗鬼になり始めていた。
もしこのまま百合の異能を消すことが出来なかったら……?
もしこのまま百合が目を覚まさなかったら……?
考えるだけで月華は呼吸が止まりそうだった。
不意にこれまでの百合との想い出が脳裏をよぎる。
初めて彼女に逢った時は今とまるで逆だった。
満身創痍で死にかけていた月華を救ってくれたのは他でもない、百合だった。
望まぬ異能を持つ彼女はいつも狙われていた。
何度も悩み、苦しみ、それでも孤独に生きてきた彼女の強さに惹かれたのは必然だった。
妻に迎え、娘を授かりかけがえのない家族になった百合を失うなど、想像することすらできない。
月華は意識のない百合の体を強く抱きしめながら手綱を握り、走る馬の速度を上げた。
このまま別れるようなことには絶対にしない。
必ず百合から異能を消して、彼女の人生を取り戻す。
そう改めて誓った月華は自分の目尻から涙が筋となって流れるのも構わず先を急いだ。
温かい。
九条百合の意識は暗く何も見えない空間を漂っていた。
ここはどこなのだろう。
何も見えない。
何も聞こえない。
なぜここにいるのかもわからないのに、ほんのりと温もりだけを感じている。
そしてそのまま深い夢の淵へ落ちていった——。
異能者が集まる里が不条理に焼き尽くされてから1年後、芙蓉は下働きとして宮中に潜り込んでいた。
焼き討ちにあった里は帝の勅使だと名乗った男の指示でどこまでも破壊し尽くされた。
暮らしていた家も、人もみな消えてなくなった。
縁があって世話をしていた桐江も亡くなり、騒ぎに乗じて散り散りに避難した生き残りは行方知れずとなった。
桐江のひとり娘だった檜緒も檜緒を護衛していた湖薄も、術者の御形もその弟子の皐英も。
みなどこへ行ってしまったのだろう。
芙蓉も追っ手を逃れるのに必死だった。
ほとぼりが冷めた頃、芙蓉はひとりで散った里の生き残りを探し始めたが、結局誰も見つけることはできずやがて1年が過ぎた。
この1年、不毛な捜索をしているうちに芙蓉は気がつくと京に辿り着いていた。
京に知り合いがいたわけではないが、ある種の執念が芙蓉を導いたのだろう。
他に行く当てもなかった芙蓉は宮中の下女として働き始めた。
女中が高貴な身分の人々の世話をするのとは対照的に下女は炊事や洗濯、掃除などきつい陰の仕事を任されていた。
芙蓉が宮中の下女となったのには理由があった。
それは復讐するためであった。
芙蓉はどうしても、何の罪もない異能者が集まる里を焼き払った帝を許すことができなかった。
芙蓉が暮らしていた里は普通の人との暮らしに馴染めず流れて来た、いわば流れ者の集まりだった。
全員が異能を持っていたわけではなく、流れ者同士、分け隔てなく平和に暮らしていたはずなのにその暮らしを壊した帝はどうしても許すことができない。
死んでいった者たちのためにも、一矢報いなければならない、そんな執念だけが芙蓉を動かしていた。
焼き討ちにあった日、崩れた瓦礫の下敷きになりそうになった芙蓉を助けようとした桐江は今際の際に自らの異能を芙蓉に託して旅立ってしまった。
桐江を殺してしまったようなものだ、と悔やんだ夜もあった。
だからこそ、残された檜緒のためにも桐江が死ぬに至った焼き討ちを望んだ帝を弑する必要がある。
芙蓉は桐江から引き継いだこの異能には人の命を奪う能力がないことをよく知っていた。
御形や皐英のように人を殺めることはできない。
だから芙蓉にできる復讐は可能な限り帝に近づき直接手を下すことだけだと考えていたのである。
下女として宮中で仕事を始めてふた月が過ぎた頃のことである。
「ねぇ、新人さん。あんた、どうしてこんなところにいるのよ?」
洗濯場で洗い物をしていた芙蓉は同じ下女仲間に声をかけられ、面食らった。
「えっ? どういう意味、でしょうか」
芙蓉は何とか平静を装っていたが内心は心の臓が口から出てしまうのではないかと思うほど動揺していた。
「どういう意味って、意味なんてないわよぉ。だってあんた、とっても美人さんなのにこんなとこで下働きしてるの、違和感あるのよね。みんな言わないだけでそう思ってるって」
下女仲間の女はそう言ってけらけら笑ったので芙蓉はほっと胸を撫で下ろした。
(ただの噂話だったのね……)
芙蓉は、差し違えてでも復讐を成し遂げる覚悟で宮中に忍び込んだため、なるべく話題にのぼる存在にはなりたくなかった。
働き始めてからふた月が経っても洗濯場に集まる数人の下女たちと馴れ合おうとしない芙蓉は浮いた存在だったが、芙蓉自身にとってそれはどうでもよいことだった。
復讐を成し遂げられればそれでいい。
それしか頭の中にないと言っても過言ではなかった。
早朝から働き、暗くなっても寝る間を惜しんで働き続ける日々が過ぎたある夜、騒ぎは起こった。
芙蓉が夕餉の片付けをしていると、下女のひとりが声をかけてきた。
「ちょっと新人さん」
ふた月も経って新人さんはないだろう、と思いながら誰とも親しくしない芙蓉が仕事仲間として認められていないことはわかっている。
「何でしょうか」
「清涼殿の女中の方から水桶を持ってくるように言われてるのよ。ちょっと行ってきてくれない?」
またか。
芙蓉はうんざりしながらも手渡された水の入った桶を持って外に出た。
つい数日前にも同じことを言われ、芙蓉はふたつ返事で使いを請け負ったが、それは悪質ないじめの一環だった。
必要だと言われて届けると、女中に跳ね返され驚いてひっくり返った拍子に中の水を頭からかぶる羽目になったのである。
最初は何かの間違いだったのかと思ったが、門前払いしてきた女中が嘲笑するのを見て、嵌められたのだと理解した。
宮中を出て行こうと思えばいつでも出ていくことができるが芙蓉にその選択肢はない。
帝を弑するという目的を果たすまでは逃げるわけにはいかない。
外に出るともうすでに空には月が浮かんでいた。
雲ひとつない夜空に浮かんでいるのは寝待ち月。
満月でもなく三日月でもない、何とも中途半端な月を眺めているとまるで今の自分のような気がしてくる。
復讐を成し遂げられているわけでもなく、ただのうのうと生きていることに芙蓉は嫌気がさしていた。
清涼殿の近くまで来て改めて建物を見上げると手が震えた。
ここに憎き帝がいる。
何とかして近づく方法はないものかと考えているが下女如きが帝に近づけるはずもなかった。
歯がゆい想いで水桶を抱えて清涼殿の前まで来ると芙蓉は女中を呼び出そうとして、ふとおかしな人影を見つけた。
ちょうど庭の北東にある滝口の辺りである。
滝口は建物の周りを囲うように作られている細い堀に御溝水を吐き出す場所で、日頃その近くには護衛の兵がいるのだが、そこにいた人影はどう見ても兵には見えない格好をした男だった。
夜だというのに灯りひとつ持たず、武器すらも手にしていない。
薄い夜着1枚で滝口の近くにうずくまっている。
(衛兵には見えないけど……具合でも悪いのかしら)
芙蓉は恐る恐る声をかけた。
「あの、もし……? お加減が悪いのでしたら人をお呼びしましょうか」
男は反応がなかった。
うずくまる男の顔は見えない。
芙蓉は桶の水が溢れないように小脇に抱えながら男の肩に手を置いた。
「あの……」
すると顔を上げた男は苦痛に満ちた顔で芙蓉を見上げた。
月明かりに照らされた顔は歪み、口をぱくつかせ何かを訴えている。
芙蓉にはそれが助けを求めているように見えた。
夜着の衿を力いっぱい握りしめるさまは尋常ではなかった。
(ま、まさか心の臓の発作!?)
芙蓉が驚愕してどうしようかと右往左往していると、まもなく男は胸を押さえたまま前のめりに倒れ込んだ。
慌てた芙蓉は桶を持っていることも忘れて、両手で倒れ込んだ男の肩を掴んだ。
手放された桶はひっくり返り、中の水は全て溢れた。
芙蓉は裏返った桶の底を呆然と眺めながら一瞬、これから起こることを想像した。
桶に水が入っていてもひっくり返してくるような悪質ないじめをする輩なのに、その桶の水が空になってしまったとあれば何をされるのかわかったものではない。
どんなに悪質だったとしてもそれを受けることでまだ宮中で働くことができるのであれば安いものだが、さすがにどんな仕打ちが待っているかと思うと肝が冷える。
だが、今はそれどころではなかった。
人の命がかかっているのである。
芙蓉はすぐに倒れた男の首に手を当てた。
脈拍は感じられなかった。
口元に耳を寄せても呼吸音が聞こえない。
(死んでしまった!?)
芙蓉は息をしていない男の手を握った。
まだ温かい。
今ならまだ間に合うかもしれない。
芙蓉は考えた。
常闇の術と言われるこの異能の中には、『常世戻し』という術がある。
川を渡り切っていなければその魂を現世に引き戻すことができる術である。
常闇の術自体、術者本人の寿命と引き換えに発動されるものなので、芙蓉は自分の寿命を削ってこの見ず知らずの男を助けるべきなのか迷った。
芙蓉にこの異能を引き継いだ桐江は若かりし頃に随分とこの異能を使ったらしく、晩年はかなり衰弱していた。
だが芙蓉はここで助けなければこの先ずっと後悔するような気がした。
どうせ帝と差し違えるつもりなのだ。
年老いるまで生きていることは望んでいない。
それならば今、ここで彼を助ける方が命の使い方としては有効に思えた。
助けるためには彼を曼珠沙華の庭まで迎えに行かなければならない。
芙蓉は男の手を強く握った。
(戻って来て!)
そう祈って目を閉じた瞬間、辺りは眩い光に包まれた。




