第58話 不気味な笑みを浮かべて
突然背後から飛んできた矢は棗芽の目の前を俊速で過ぎていった。
飛んだ先を見ると矢は御形が新たに放った獅子の左目に命中していた。
獅子の爪は間一髪で棗芽には届かなかった。
目を射抜かれた獅子は咆哮を上げて暴れ出す。
暴れる獅子のたてがみは大きく波打ち、後ろ足を蹴り上げるとあたりには小石混じりの砂が舞った。
御形の登場により硬直して動きを止めていた妹尾家家臣たちも、暴れる獅子の動きに巻き込まれていった。
中には蹴られて失神する者もいる始末だった。
矢が飛んできた方向に棗芽が目をやるとそこにはいるはずのない隻眼の男——紅葉の兄、山吹が立っていた。
預けた紅葉はどうしたのか、なぜ戻ってきたのか、結局敵なのか味方なのか。
訊きたいことは山ほどあったが今はそんな余裕すらなかった。
暴れる獅子の動きに巻き込まれないようにするのもひと苦労なのだ。
棗芽と目が合った山吹は二の矢を構えた。
棗芽に狙いを定めているように見えたが次の瞬間、放たれた矢は棗芽の左頬を掠めた。
掠ったところから血がにじむのも構わず、矢が飛んでいった方向を棗芽は振り返った。
すると矢はこれまで棗芽に襲いかかっていた大蛇の目に刺さっていた。
悲鳴を上げて大蛇が倒れる。
「油断するな! まだ仕留めていないっ」
山吹の叫び声が聞こえ棗芽が太刀を構えるとそれまで暴れていた獅子が牙を剥いていた。
大きく開いた口が棗芽の頭を飲み込もうと迫っている中、倒れていた大蛇も棗芽の体に巻き付こうと迫っていた。
獅子の牙を受け止めるために太刀を両手で握りしめている棗芽に、同時に大蛇の相手はできない。
このままでは大蛇に絡みつかれる、と思ったその時。
それまで虎の相手をしていた鬼灯が目の前を横切っていった。
次の瞬間には、白い大蛇の首が落とされ、胴体から鮮血が噴き出た。
「兄上っ」
力を振り絞って太刀を振り上げると、刃に噛み付いていた獅子は反動で横倒しになった。
倒れた先には鬼灯に襲いかかっていた虎がおり、互いに頭をぶつけ合った獅子と虎はその場に倒れたまま動かなかくなった。
虎の目にはいつの間に射たのか山吹が放ったと思われる矢が刺さっていた。
すぐそこに迫っていた命の危機を何とか回避した棗芽と鬼灯は目の前で倒れる3体の奇妙な生き物を、呼吸を整えながら呆然と眺めていた。
やがて首と胴体に分かれた大蛇から眩い光が発せられた。
眩しさに目を細めていると、気がついた時には大蛇の存在は消え、そこに1枚の紙だけが残った。
「兄上が確かに斬ったはずなのに、大蛇が消えた……?」
棗芽がぽつりと呟くと鬼灯は1ど刀を鞘に収めると懐から組紐を取り出し、長い髪を纏めながら言った。
「おそらく紙があの男の術によって化けているのだ」
「……化けている?」
「どういうからくりかは知らぬがかつて同じものを操っていた者は朝廷の陰陽師だった。あの男がなぜ陰陽師の使う術を使っているのかわからぬがな。あれは不思議と現実のものではないはずなのに、実体があり、強い力を持っている。あれと戦うのはなかなかに骨が折れるぞ、棗芽」
「ですが、残りの2体も退治したのでは?」
「いや、まだ実体が残っている。気を失っているだけだろう」
棗芽は背筋に冷たいものが流れるのを感じた。
鬼灯が長い髪を纏めるのは本気になった時だけだとよく知っているからである。
この局面で髪を纏めたということはさらに状況が悪化することを見越しているからに他ならない。
ふたりがそんな会話をしていると乾いた笑いを漏らしながら御形が言った。
「ふむ。なかなか骨のある男たちではないですか。お前たち、近衛家に手を出した幕府の者か?」
御形は目の前に突き立った刀を抜くと、目の前に放り投げた。
式神たちが動きを止めたことで静まり返った
周囲に虚しい音を立てる。
地面に落ちたそれは棗芽が放ったものだった。
まるで、こんなことをしても無駄だと言っているかのようだった。
北条家の兄弟は襲ってくる敵がみな動きを止めていることでようやく、新たに登場した御形をまじまじと見た。
妹尾家当主と同じ年頃に見える彼の体は細く小柄で顔にはところどころ皺がよっている。
口元は不気味に微笑んでいた。
「随分と私の術に詳しいようだ。もしや皐英と対峙したか?」
「…………」
何を言っているのかわからなかった棗芽は黙するしかなかったが、ふと鬼灯の様子を盗み見ると口は固く結ばれ目は鋭く御形を睨んでいた。
どうらや心当たりがあるらしい。
御形は続けた。
「一応教えておくと、私が皐英の術を使っているのではなく、皐英が私の術を覚えて使っていたのだよ。つまり私があの者の師匠というわけだ。せっかく育てた弟子をあれほど呆気なく失うことになるとは考えもしなかった」
そう言って御形は懐からまた紙を取り出した。
薄笑いを浮かべるその表情は、どう見ても弟子を失ったことを悲しんでいるようには見えなかった。
「まあ、お前たちはどうせここで死ぬのだし、そんなことを教えても無益だな」
「……まだ私たちが死ぬと決まったわけではない」
怒りの感情を抑えて搾り出した鬼灯の声は背筋が凍るほど冷たかった。
棗芽はこれほどまでに怒りを露わにする兄を見たことがなかった。
常に冷静沈着なはずの鬼灯の豹変ぶりに身震いした。
「ふはは。確かにお前の言うとおりだ。私の大蛇を斬ったのはお前が初めてである。最期に名を訊いておこうか」
「得体の知れない敵に名乗るほど安い名ではない」
鬼灯は冷静を装ってはいるものの、背中には燃え上がるような炎を背負っているように感じて棗芽は固唾を呑んだ。
「ほう。よほど高貴な身分と見える。幕府の要職に就く者かな。さしずめ将軍の懐刀あたりか……まあ、そんなことはどうでもよいか。お前たちの目的は知らないが今はまだこの邸を壊されては困る。輪廻の華を手に入れ、私の目的を果たすまでは」
御形は紙に息を吹きかけるとそれを空中に放り投げた。
光を放った紙は鷹に化け、空高く飛んでいく。
鷹の視力は人間の何倍もあるという。
遥か上空からでも獲物を見つけ狙いすまして急降下してくるのだ。
すでに行方を見失った棗芽は空を見上げたが、眩しい太陽の光に遮られて何も見えない。
思わず舌打ちした。
そうしているうちに気を失っていた虎と獅子が目を覚ました。
2頭とも首を左右に振っている。
危機的状況は振り出しに戻ったかに見えた、その時。
「や、やはり御形様も輪廻の華を捕らえたことをご存知なかったのですね!?」
と、敦盛が叫んだ。
それまで静観していた彼がなぜ突然、口を開いたのかその場にいた誰にもわからなかった。
だが御形だけがその言葉に反応した。
「……どういう意味ですか、敦盛」
敦盛は頭を抑えながらもはっきりとした口調で答えた。
「風雅の君を追った私は途中で偶然、輪廻の華を捕らえたのです。運よくそのまま連れ帰ることができたのでそれをご報告に向かう途中、萩尾様が現れたのですよ。代わりに父上に報告してくださるとのことだったのでお願いしたのですが……あれは罠だったに違いない。私に睡眠作用のある茶を呑ませ、父上には何も報告せず自分は妹尾邸をまんまと脱出したということでしょう」
「…………」
「もしやこの討ち入りした者たちと通じていたのかもしれませぬ。だとすれば私が輪廻の華を捕らえたことは都合が悪かった。だから私を眠らせ、奴らがここへ来るまでの時間を稼ぎ、奪還させたのではないでしょうか」
「輪廻の華が妹尾邸にいたというのか」
「ええ。ですがまた奪われてしまいました……」
「………」
敦盛と御形が内輪揉めをしている最中、上空に放たれた鷹は確実に獲物を捉えていた。
急降下してきた鷹の鋭い爪が棗芽の背後から彼の左肩を引っ掻いていく。
「……っ」
棗芽が鷹の攻撃に気がついた時には再び上空へ飛び去っていった後だった。
肩に激痛が走り、一瞬よろめいた棗芽は太刀を地面に刺すと右手で左肩を押さえた。
表面を深くえぐられた肩から血が流れ、やがて手の甲まで赤い筋を作る。
傷口を押さえた右手にはべっとりと血が滲んでいた。
「棗芽、大丈夫か!?」
そう叫んだ鬼灯はすでに正気を取り戻した虎と獅子を同時に相手していた。
「肩をやられましたが私は大丈夫ですっ。それよりも兄上の方が……」
痛みを堪えながら棗芽は地面に刺した太刀を抜いて鬼灯の加勢に向かった。
迫る虎の剥き出しになった爪を受け止めて棗芽は言った。
「それにしても、あの男たちは揉めているようでしたが、こっちの化け物は全く勢いが衰えませんねっ」
「全くだ。術者の感情とは切り離されているようだなっ」
虎も獅子も片目に矢が刺さったままだとは思えないほど的確に攻撃してくる。
「それにしても、あの様子では百合殿がこの邸にいたことをほとんどの者が知らなかったようだな」
髪を纏めた鬼灯は先刻までとは比べものにならないほど強さを増した。
片目を失い勢いが衰えているとはいえ、ほとんどひとりで自分の何倍もの体格をした虎と獅子を相手にしている。
負傷した棗芽は時折、上空から攻めてくる鷹を相手にしながら、虎や獅子の攻撃を交わすのが精一杯だった。
止血していないため、傷口から滴る血は止まることなく流れ続けている。
長年、戦場で戦ってきた棗芽はあまり血を流しすぎると危険であることを理解していたが、止血をする間がなかった。
(早く終わらせなければ危険だな……)
そう棗芽が思った時、事態は急変した——。




