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第53話 憧れの妻

 襲いくる男たちの相手を同時にするのは、さすがの雪柊せっしゅうにも骨が折れることだった。

 突然、邸の中から現れた50がらみの男の号令によって新たに現れた家臣の数、およそ40人。

 先刻、棗芽なつめとともに倒した家臣の残党はいつの間にか士気を取り戻し、彼らも加わってしまったため相手にしなければならない人数は50人を優に超えた。

 借りを返すために敦盛あつもりを追っていた雪柊はそれどころではなくなったのだった。

 妹尾せのお家家臣たちは、ひとりひとりの剣技は高くないものの洗脳されているかのような無鉄砲な攻撃を次々と仕掛けてくる。

 ひとり片付けたと思ったら息をつく間もなく別の男が後ろから仕掛けてくる、といった具合にひっきりなしに相手をしなければならなかった。

 さすがの雪柊も疲労を隠せなくなっていた。

 肩で息をしながら、

(私も年を取ったものだ。若い頃ならこの程度の人数をすぐに片付けたものだが……)

 などと思っていた。

 公家でありながら武術の達人を多く輩出する久我くが家には秘伝の武術書がある。

 久我家に生まれた男児はもれなくまだ歩き始めたばかりの頃からその秘伝の武術を叩き込まれてきた。

 生まれながらに体格や才に恵まれた者は久我家の歴史に名を刻むが、雪柊は類稀なる才能で稀代の功績を残してきたにも関わらず久我家からは破門されていた。

 それは雪柊が地位も富も名声も全てを捨ててひとりのひとを選んだからだった。

 雪柊の妻だった桔梗ききょうは先帝の弑逆罪で取り潰しになった風早かざはや家の血縁だった。

 一家が取り潰しになり、風早家の血縁者たちは散り散りになったが後に鬼灯きとうと夫婦になったあおいと桔梗の姉妹は東に流れ、別々の武家に養子として引き取られていたという。

 だが桔梗は当主であった風早橄欖かざはやかんらんがなぜ反逆したのかを調べようと密かにみやこへ舞い戻り、宮中へ女中として潜り込んだのだった。

 雪柊は迫り来る妹尾家の家臣たちを相手にしながら遠い昔のことに想いを馳せた——。

 それは遠い昔の記憶。

 ある晩秋の夜のことだった。

 春の園遊会が大変な事件で幕を閉じ、風雅の君が京を追放されて半年以上が過ぎた頃。

 朝廷も宮中も平静を取り戻していたが雪柊だけは心穏やかではなかった。

 帝から特別に任じられていた風雅の君の警護もなくなり雪柊は元の兵部省ひょうぶしょうへ戻ったものの、白椎はくすい皇子のことを考えない日はなかった。

 宮中の奥からほとんど外に出されることもなく風雅の君という名だけがひとり歩きし、その顔をほとんど知られていなかった彼が、橄欖の取り仕切った園遊会で顔を知られた途端、父である帝に京から追放されるに至った事件に巻き込まれた。

 唯一の拠り所だったであろう母君も同時に亡くし、何の支えもなく見知らぬ備中国びっちゅうのくにへ引き取られたのはあまりにも気の毒だった。

 備中国の入り口まで見送った雪柊は別れ際に残した白椎の哀しげな顔を今でも忘れることができない。

 そんな感傷に浸りながら雪柊は図書寮ずしょりょうの近くを歩いていた。

 晩秋の風は冷たく体を突き抜けていく。

 何の力にもなれなかった無力な自分を思い知らされる寒さだった。

 図書寮の前を通り過ぎ兵部省へ向かっていたところ、見るからに怪しい動きをしている人物が目に入った。

 頭から地味な着物を被りその顔を見えない。

 辺りをきょろきょろとしながら図書寮が管理する書庫の扉の前を何度も行ったり来たりしている。

 忍び込もうとしているにはずいぶんとあからさまな動きだと思った雪柊はその背中に声をかけた。

「こんなところで何をしている」

「…………っ」

 一瞬、目が合った。

 相手はこの場に相応しくない女子だった。

 女の官吏はいない。

 しかもほとんどの官吏が帰宅した夜に御所の中をうろつく女は不審者以外の何者でもなかった。

 すぐに顔を背けて逃げようとする相手の腕を掴む。

「待て。ここで何をしていた」

「お、お見逃しくださいっ」

「見逃せるわけがない。こんな時分に何をしていたのか答えよ」

 雪柊が掴んだ腕を引くとその拍子に頭から被っていた彼女の着物が地面に落ちた。

 姿が露わになり雪柊は息を呑んだ。

「お前、宮中に勤める女中か?」

 風雅の君を護衛していた頃、宮中には常に出入りしていたので不審者の姿を見てすぐにわかった。

 顔は知らない相手だったが、身なりには見覚えがある。

「も、申し訳ございません。どうかお許しください」

 怪しい女中は、しかしながら目を背けることなく真っ直ぐに雪柊を見つめていた。

 その瞳は恐怖におののき涙を浮かべているにも関わらず、である。

 その潔さに雪柊はなぜかそれ以上、彼女を責めることができなかった。

 大きくため息をつくと、雪柊は地面に落ちた着物を再び彼女の頭からかけた。

「責めるつもりはない。ここでは目立ち過ぎるから、ついて来なさい」

 自分は何をしているのだ、と思いながらも雪柊は怪しい女中を兵部省の中へ招き入れた。

 夜ともなればよほど熱心な官吏を除き、ほとんどは帰宅している。

 すぐに家族の元に向かう者、気の合う仲間の愚痴を零すために呑みに行く者、女の元に通う者、様々な理由で日が暮れると官吏たちは御所を出ていく。

 だが雪柊にはどれも当てはまらなかった。

 久我家の邸で暮らしているものの、別に家族を大事にしているわけでもなく、気の合う仲間も当然いない。

 通じる女がいるわけもなく、早く帰宅したところですることがない彼は仕事をしている方が楽だったため誰よりも遅くまで朝廷に身を置く日々だった。

 誰もいない兵部省の中に入り、自分の文机まで来ると近くにあった行燈に明かりを灯した。

 文机に向かい合って膝を折った女中は頭にかけていた着物を丁寧に畳んで膝に抱えた。

 その仕草を見ているだけで育ちがいいのはわかる。

「それで、宮中で働く女中がなぜあんなところでうろついていたのだ?」

「……書庫で調べ物をしようとしておりました」

「調べ物?」

 雪柊の問いに女中は答えなかった。

 俯き、畳んだ着物を強く握りしめている。

「責めているわけではない。ただここは帝のおわす御所だ。怪しい者を放っておくことはできないのだ。女中だからとてそれは例外ではない。お前がどこからか来た間者である可能性もあるのだから」

「…………」

「お前、名は?」

「…………」

「答えなければ追い出すことになるぞ」

 犯罪者でもない限り雪柊の権限で宮中に勤める女中を追い出すことはできないが、口を閉ざす相手に脅しをかけるつもりで言ったところ、効果覿面だった。

 驚愕した彼女はゆっくりと口を開いた。

「……桔梗です」

「桔梗? どこの家の者だ」

「それは……遠い東の武家より参りましたのご存知ないかと思います」

「武家から? 誰かの伝手がなければ滅多なことでは外から雇うなど考えられないが公家の出身ではないのか」

 一瞬、肩をびくつかせた様子に雪柊は眉根を寄せた。

 細い目をさらに細めながら目前の人物を観察する。

 女中らしい質素な身なりをしているが秀麗な顔に美しい髪はまさにどこかの公家の姫と言われても不思議はなかった。

 あかぎれのある指先はそれ相応に女中として働いている証拠に見えるが、全身から出る気品は失われていないように感じた。

「正直に言わなければ——」

「申し上げますっ」

 雪柊がさらに脅しをかけようとすると桔梗は慌てて身を乗り出した。

 深呼吸した後、その重い口を開く。

「風早家でございます」

「風早家? あの春の園遊会で取り潰しになった家のことか」

「はい」

「なぜ宮中にいるのだ? 命を取られなかった風早家の者はこの京に足を踏み入れることを禁じられているはず。それがなぜここにいる? まさか橄欖の意思を継いでまだ帝を——」

「違いますっ! そんな恐れ多いこと、考えたこともございません。私はただ、何があったのか真実を知りたいだけなのです」

 桔梗の目は真剣だった。

 言葉に嘘はない、雪柊はそう思ったがだからと言ってこれ以上追及しないという選択肢はない。

「だが見つかればただでは済むまい。禁を冒した上に身分を隠して帝に最も近い宮中へ忍び込んでいるのだ。そこまでして知りたいことなのか」

「帝のおそばに忍び込むつもりではございませんでした。何が起こったのか真実を知るためには記録を見るしか方法がないと思い、書庫で調べたかったのでございます。ですが女の身では官吏として御所に入る方法がありませんでしたので、致し方なく」

 そして桔梗はこう続けた。

「1度失ったも同然の命。この先おめおめと生き恥を晒すより、最期は己の信念のためにこの命を使いたいのです」



 桔梗は潔いひとだった。

 当時の雪柊からすれば考えられないほど高潔に見えた。

 自分は家のしがらみに縛られ、何の迷いもなく叩き込まれた武術を使い、家業として続く官吏の仕事に就いた。

 何不自由なく暮らしていながら、他にすることがないと朝廷に入り浸る日々が無駄に過ぎていくだけだった。

 だが桔梗は違った。

 彼女は家を失ったからこそ家の呪縛から解き放たれて己の信念を貫いている。

 突然現れた桔梗というひとの人柄に最初は憧れを抱いたものだ。

 羨ましくも思った。

 彼女へのそんな些細な感情から何とか手助けしたいと思い、雪柊は深夜の書庫への出入りを手伝うようになった。

 ある夜はこっそり書庫の閂を外しておき、ある夜はともに書庫で調べ物を手伝った。

 結局、まともな記録として残っていたのは『橄欖園遊録かんらんえんゆうろく』だけで、そこにも「なぜ」という疑問に答える鍵はなかった。

 そうして一緒に過ごすときが増すにつれて互いが惹かれ合ったのは自然なことだった。

 久我家の者たちは取り潰しになった風早家の血を家内に入れることを嫌い、雪柊が桔梗を娶ることを認めなかったが、そんなことは雪柊にとってはどうでもいいことだった。

 それまで全てを家の言いなりになってきた彼は、伴侶だけは自分で決めたいと思ったからである。

 決めた伴侶と生涯、一緒にいるにはどうしたらいいか。

 そう考えて出た答えが全てを捨てることだった。

 今、迫り来る目の前の敵を相手にしながら限界を感じ始めている雪柊は、ぼんやりと桔梗のことを思い出しながら、もうすぐ彼女の近くに行けるかもしれない、そんなことを考え始めていた。

 その矢先——。

「雪柊、まだ生きているか!?」

 聞き慣れた義弟の声が聞こえた。

 幻聴だろうか。

 ここにいるはずのない鬼灯きとうの声が聞こえたのは。

 両手が塞がった状態で振り向くことすらできずにいると、すぐ近くで何人もの呻き声がした。

 次の瞬間には眼前に血飛沫が飛び、気がついた時には相手にしていた敵は全員地面に転がっていた。

「雪柊!」

 両肩を強く揺れぶられ我に返った雪柊は眉尻を下げて不満を零した。

「来てくれたんだね、鬼灯。でもおかげで桔梗のもとへ行きそびれたよ」

「は? 桔梗殿のもとだと? 冗談は寝言だけにしろ」

「冗談なんかじゃないよ。なぜかちょうど桔梗のことを思い出していたんだ。だから桔梗が私を呼んでいるような気がしてね」

「ばかを言うな。義姉上あねうえはお前を黄泉へ呼んだりせぬ。まだ向こうへは行かせてやれぬからな」

 そう言って鬼灯は雪柊の前で瞬く間に数人を斬り落としていったのだった。

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