第52話 生きて帰る約束
妹尾家当主と思しき男の登場によって戦況は大きく変わった。
無事に百合を取り戻し、あと少しで邸を出られるところだったのに——なかなか刀を返してくれない紅葉と押し問答している場合ではなくなった。
棗芽は心の中で舌打ちした。
もっと早く、強引にでも彼女から刀を取り返せばよかった、そんな考えが一瞬、棗芽の脳裏をよぎった。
だがそれはできなかった。
紅葉が何を想って刀を手放さないのか、棗芽にもわかっているからである。
当主の男が現れてから目の前の紅葉は地獄でも見ているかのように震えている。
そんな彼女を棗芽は強く抱きしめた。
これ以上、彼女の視界に何も入れたくなかった。
守る、とはこんなにも難しいことなのか。
紅葉の身を守れたとしても心を守れなければ、本当の意味で守れたことにはならない。
邸を逃げ出した今でも彼女がこの妹尾家に縛られているというのなら、その呪縛から解き放つしかない。
そのためにも今は刀が必要だ。
多少手荒な真似をすることになっても彼女を守るためだと、棗芽は心を鬼にして紅葉の耳元に囁いた。
「紅葉。全てが片付いたら必ず迎えに行く。だからそれまではどうか安全なところで待っていてほしい」
瞬間、紅葉の震えが止まったように感じたが棗芽は答えを聞くこともなくそのまま彼女の首の後ろに手刀を打ち込んだ。
小さな呻き声とともに、失神した紅葉の体が棗芽に重くもたれかかる。
預けた太刀を握りしめる手は自ずと緩んだ。
紅葉の性格からしてこんな強引な手段を取ったことを後から相当責められるのは容易に想像がつく。
しかし今の棗芽にはどうしても刀が必要だった。
紅葉が手放してくれない以上、他に方法が思いつかなかったのである。
棗芽が太刀を背中に背負ってから紅葉を抱きかかえようとした時、妹尾家の家臣が数人、彼らに襲いかかって来た。
同時に数本の刀が棗芽たちに振り下ろされる。
誰が見ても万事休すかと思われたが、棗芽はむしろ不気味な笑みを口元に浮かべ紅葉を地面に横たえると背中の太刀の柄を握った。
いつ鞘から抜いたのかは誰にもわからなかったが、棗芽はたったひと振りで数人の敵を一度に排したのだった。
辺りに転がる家臣たちがすでに息をしていないのを確認して棗芽はこの状況を紅葉に見られずに済んでよかった、などと思っていた。
次の攻撃がいつあるかわからない。
棗芽は急いで、紅葉を左の肩に担いだ。
何だか少し懐かしい気持ちになる。
初めて紅葉と出逢った時、紅蓮寺の麓で彼女を助け108段の石段を登るために荷物のように肩に担ぐと紅葉はずいぶんと暴れたものである。
米俵ではない、と抗議されたことがつい昨日のことのように思える。
棗芽は右手に血のついた太刀を握ったまま紅葉を担いで門へ走った。
目当ては白檀の盾となり主を守る紅葉の兄だった。
月華は百合を連れて邸を離れたし、雪柊は新たに現れた敵の相手で精一杯の様子。
他に紅葉を守れる人物の当てがなかった。
棗芽が駆けつけると紅葉の双子の兄——山吹もまた襲いくる敵に苦戦していた。
何人もの刀を同時に受けながらも山吹は1歩も引かなかった。
後ろに白檀がいるからだろう。
棗芽は山吹に斬り込む男たちを数人、難なく斬り捨てるとその周りにいた敵をさらに数人一掃した。
その動きはまるで流れる水の如く流麗で、無駄がなかった。
刀を振るたびに棗芽の長い三つ編みが揺れる。
紅葉を肩に担いだまま動いているとは思えないほどに動きは軽やかで、大きく3回ほど深呼吸する間に、山吹と白檀の周りに迫っていた敵は粗方いなくなっていた。
手の空いた山吹に駆け寄ると棗芽は担いでいた紅葉を預けた。
「彼女を頼みます」
強引に受け渡された妹の体を受け取り、壊れもののように大事に抱きかかえた山吹の様子に棗芽は安堵した。
彼に預けておけば心置きなく戦える。
状況を理解できず眉根を寄せる山吹に棗芽は手短に言った。
「気を失っているだけです。手荒な真似をして申し訳なかったが、彼女がなかなか私の刀を返してくれなかったものですから。紅葉をあなたに託します。あなたは紅葉と白檀殿を連れて早く妹尾邸を離れてください」
自分本位に言うことだけ言うと棗芽は踵を返した。
「お、おい、あんたはどうするんだ!?」
山吹の問いに振り返った棗芽は血の滴る太刀の峰を肩に乗せて不敵な笑みを浮かべた。
2尺以上もある長い刀の切っ先から柄に向けて赤い血が流れる。
それは斬った人数を物語っていた。
「どうするとは愚問ですね。紅葉が2度と怯えなくて済むように邪魔なものを排除するのですよ、全てね」
そう言い残して棗芽は山吹に背を向けたが、
「待ってください、棗芽」
という白檀の声に、再び振り返った。
目が合うと彼が何を言わんとしているのか、棗芽にはわかった。
うまが合う、とはよく言ったものである。
付き合いが長いわけではないのに、白檀とは言葉がなくても互いの意思疎通ができるような気がするのは気のせいだろうか。
「紅葉には、必ず迎えに行くと告げました。私が有言実行する男だと、あなたはよく知っているでしょう?」
白檀は何も言わなかったが「死ぬな」、そう告げているような気がした。
「白檀殿、全てが片付いたら付き合ってもらいたいものがあります」
「付き合ってもらいたいもの……? 何ですか」
「囲碁です」
「囲碁?」
「ええ。私は無類の囲碁好きでしてね。これまでは兄を相手に楽しんできたのですが、1度あなたとも対戦してみたくなりました」
「……私と対戦してもつまらないと思いますよ」
「つまらない? なぜですか?」
「あなたは私に勝てないから」
「ずいぶんと自信があるのですね、白檀殿。いいでしょう、私があなたを負かした暁には何か褒美をもらうとしましょうか。うむ、それがいい。何をねだるか考えておきますから覚悟しておいてくださいね」
棗芽は屈託なく微笑んだ。
戦場には相応しくない上に血まみれになった状態で見せるような顔ではない。
白檀は眉間に皺を寄せて言った。
「この先、どうなるかわからないのですから約束はしませんよ、棗芽。ですが全てが終わってもまだ互いに息があったなら、あなたの遊びに付き合いましょう」
棗芽は黙って頷くと続々と集まる敵の渦中へ乗り込んでいった。
もう2度と抜くことはないと思っていたこの刀を抜いたのだから死ぬわけがない。
2尺以上もあるこの太刀は普通の刀に比べ長い分、1度に多くの敵を斬ることができる。
その分、重く扱いにくいため戦場では亡くなった兄以外にこの長さの太刀を扱う者はほとんど見たことがなかった。
棗芽自身もかつては戦場で多くの人を斬ってきたが、形見として引き継いでからこれで人を斬ったことはない。
戦場に身を投じて多くの人を斬ることに嫌気がさした時、この刀を人を斬るために使うことはないと封印したつもりだったが、今こうして実際に使ってみると威力が絶大であることに気がつく。
これなら戦況をひっくり返すことができるかもしれない。
兄の加護を受けたような気持ちで棗芽は刀を握り直した。
橘萩尾の部屋を出た御形は深いため息をついた。
長年、ともにこの邸で暮らしてきて萩尾はただの官吏崩れではないと疑ってはいたが、朝廷の間者だと考えたことはなかった。
気の弱そうな人格は作られたものだったとでもいうのだろうか。
もし仮に萩尾が朝廷の間者だったとすれば、菱盛に拾われるようあえて行き倒れたところを演じていた可能性がある。
あれからもうずいぶんと月日が流れているが、その間、ずっと萩尾は気弱な男を演じながら影で情報を集めていたというのだろうか。
だが一体何のために……?
今の朝廷にとってこの妹尾家は間者として潜り込むほどの価値があるものなのか。
全ての情報が朝廷に流れていたのなら菱盛の目論む倒幕や朝廷の乗っ取りなど露と消えることだろう。
すでに姿を消したのは、もうここにいる必要なくなったからだと考えざるを得ない。
萩尾は何の成果を得たというのだろうか。
御形は再びため息をついた。
答えが出ない思案を繰り返しても不毛なだけだ。
そう思った御形は自室に向かって歩き出した。
が、廊下を歩いていて邸内がいつもとは違う緊張感に包まれていることに気がついた。
家臣たちの足音が立て続けに響き、騒然としている。
それは菱盛が萩尾を探すように号令をかけたこととは違う雰囲気である。
武装して門へ向かうひとりを捕まえて御形は訊ねた。
「何を急いでいるのか」
「ご、ご、御形様!?」
「怯えずとも獲って食おうとは思っていない。お前たちはどこへ向かっているのかと訊ねている」
妹尾家に暮らすようになってずいぶん経つが、不手際をした家臣たちを菱盛の命に従って始末してきたことが原因で御形は家臣たちに恐れられている。
始末された家臣たちが最期に見せる恐怖の表情は地獄を見たかのようだった、と水面下で噂されているらしく用がなければ誰も御形に近づこうとはしない。
それどころか廊下ですれ違えばみな目を合わせないようにしているのだ。
呼び止められた家臣が震え上がるのも無理はない。
「じ、実は侵入者がいるようでして……」
「侵入者とは?」
「よくわかりませぬが、中には風雅の君もいらっしゃるとか……」
「風雅の君? あの者は先日、忽然と姿を消したのではなかったのか」
「そのようですが、今は門から不審者とともにいらっしゃるようです。それに山吹殿や紅葉殿もいらっしゃるよし」
御形は首を傾げた。
何者かの侵入により忽然と姿を消した風雅の君が自ら戻ってきたのはなぜか。
敦盛の妾にされるのを嫌がって自ら出ていった紅葉が戻ってきたのはなぜか。
そして紅葉と輪廻の華を追っていたはずの山吹が戻ってきたのはなぜか。
全ての糸はどこにも繋がっていないように思えるが、実は複雑に絡み合っているのだろうか。
御形は引き留めた家臣を手放すと自ら状況を確認するために走り去る家臣たちの後を追った。




