第50話 戦場となった故郷
意識なく横たわっていた百合を月華が抱えて去っていっても紅葉はその場に座り込んだままだった。
腰が抜けたように足に力が入らない。
棗芽から預かった太刀を力いっぱい抱きしめる。
それでも震えが止まらなかった。
妹尾家の家臣たちにいいようになぶられていた棗芽を目の当たりにしたからだった。
刀を渡しそびれたせいで彼は抵抗することができなかった、そう自分を責めていた。
実際に刀を渡せていれば絶対に彼は傷つくことがなかったのだろうか。
これまで棗芽が傷つくところを見たことがなかったから、どこかで彼は無敵なのだと思い込んでいたのかもしれない。
そんなことはあり得ないのに。
紅葉が呆然としていると目線を合わせるように片膝をついた棗芽の顔が目の前に現れた。
視線が合うと、彼の瞳には震える自分の姿が映っていた。
「紅葉、刀を」
紅葉が抱える太刀の柄に手をかけて棗芽は言った。
何を言っているのか意味がわからなかった。
刀を渡せば棗芽は反撃するのだろうか。
それはつまり棗芽の身に危険が及ぶということではないのだろうか。
いくら強いと言っても不死身ではないのだ。
まかり間違えば棗芽が斬られることもある。
そう考えると紅葉は彼の求めに素直に応じることができなかった。
「紅葉、刀を渡してください。これは君が持っていても何の役にも立たない」
その通りだ。
この刀の持ち主は棗芽であり、本当なら持ち主に返さなければならないものだ。
しかし紅葉は手放すことができなかった。
「……嫌よ」
紅葉から太刀を引き取ろうとする棗芽に抵抗せずにはいられない。
「紅葉——」
諭すように口を開いた棗芽は顔のあちらこちらにあざを作り、口元には血を拭った痕が残っている。
立ち向かうのではなく、妹尾邸から少しでも遠くに逃げなければならない。
本能的に紅葉はそう思った。
月華と百合も去ったのだ。
当初の目的は達した。
もうここに長居する理由はない。
これ以上、ここにいれば敦盛だけでなく菱盛や御形が現れるかもしれない。
「嫌よ! これを渡したらあなたは戦うんでしょ!? もう輪廻の華は取り返したんだから早くここを出ましょう」
紅葉の必死の訴えに真摯に耳を傾けながらも棗芽は壊れものに触れるように紅葉の頭を撫でながら言った。
「このままというわけにはいかない。君にとってここは故郷で思い入れのあるところなのかもしれないが、根は刈り取っておかなければまた狙われることになる」
「それでもこれは渡せないわ」
「君が家族同然に暮らしてきた仲間を斬ることになるかもしれないことは申し訳ないと思うが、誰も斬らずにこの事態を収集することはできない」
「それは仕方がないことだと思うから、わかってるわ」
「ではなぜ——」
聞き分けない子どものようだと自分でもわかっている。
それでも目の前で棗芽がこれ以上傷つくのは耐えられない。
ましてや斬られるところなど見ていられない。
もし菱盛や御形が現れ、彼を傷つけるようなことがあれば……そう思うと両目から涙が溢れた。
自然と片手が棗芽の頬に伸びた。
「斬り合いになればあなたが斬られることもあるかもしれないでしょ……」
紅葉は言葉に詰まってしまい、それ以上詳細を告げることができなかった。
棗芽は菱盛や御形の恐ろしさを知らない。
どう伝えればわかってもらえるのだろうか、一刻も早く逃げなければ危険だということを。
じっと見つめるだけの紅葉に棗芽は面食らっていたがやがて口元を綻ばせた。
「大丈夫だ。私は何度も死戦を潜り抜けてきた。この程度の戦いで斬られるようなことはない。それよりも君こそ早くここを離れろ。ここで腰を抜かしている場合じゃない」
「……棗芽こそあの方たちが出てくる前に逃げて」
「あの方たち?」
棗芽の問いに答えようとした時、紅葉の最も恐れていた光景が眼前に広がったのだった。
月華たちと妹尾邸へ討ち入りしたものの、白檀は門の前で微動だにせず事態を静観していた。
戦闘能力が皆無の自分がこれ以上踏み入っても邪魔であることを彼はよく理解していた。
一瞬、拘束されている棗芽が目に入り肝を冷やしたものだが、瞬く間に雪柊の活躍によって棗芽は拘束を逃れた。
彼らが湧いてくる妹尾家の家臣たちと対峙する度にその足元には倒れた男たちが転がる。
理解していたつもりだったがふたりの強さは桁違いだった。
一方では月華と敦盛が鍔迫り合っていた。
離れていても月華が優勢であることは一目瞭然だった。
彼らの足元には腰を抜かしたと思しき紅葉と横たわる百合の姿があった。
このまま百合を無事に奪還できれば当初の目的は達することができると思ったのも束の間。
肝心の百合はどうやら意識がないようである。
白檀は眉根を寄せた。
百合へ解術を施し、異能を消すことは月華との約束である。
敦盛に連れ去られた百合を取り戻すと言った月華について来たのは、一刻も早く術を施し百合から異能を消してあげたいと思ったからだ。
これまで何度となく異能を使ってきた百合は自分の寿命と引き換えに発動される術だということを知らないと言う。
だからこそこれ以上不当に術を使うことがないよう、白檀はこの場で解の術を施すつもりだった。
「困りましたね……」
白檀は無意識のうちに懐に入れてある『常闇日記』を着物の上から押さえた。
白檀の呟きに山吹は刀を抜き、自ら壁となって言った。
「この状況ですからね」
「いいえ、違います。私が言いたいのは百合のことです」
「輪廻の華、ですか?」
「彼女から異能を消すには、彼女の意識がなければできません」
解の術についてはこの手元にある原本にしか書かれていない。
解の術は異能を引き継いだ者の意識がなければ施すことができない。
異能者本人の意思が必要である、と書かれてあるからだった。
「……叩き起こせばいいのではありませんか」
「山吹。これだけの騒ぎなのに目を覚さないのですからただ寝ているわけではないはずですよ、百合は」
ため息をつきながら白檀は改めて周囲を眺めた。
まるで戦場の光景のようだった。
逃げ出したとはいえ長年、世話になった邸に愛着がないわけではない。
今や戦場と化した邸内を見ていると白檀は複雑な気持ちになった。
どんな思惑があったにせよ、宮中を追われた身を引き受けてくれた故郷のような場所である。
できればこんな日は来てほしくなかったとさえ思った。
だが残念なことに戦いはこれで終わりではない。
「白檀様、ちょっと嫌な予感がしませんか」
山吹は白檀の前で刀を正眼に構え、どこから何が来てもいいように備えている。
「山吹もそう思いますか」
「はい。この騒ぎにあの方たちが気づかないはずはありません」
山吹の言うとおりである。
まだ三公の誰も現れていない。
あれほど輪廻の華を欲しがっていたにも関わらず、その大事な存在が奪われそうになっているというのに姿を現していないことに白檀は違和感を感じていた。
敦盛が輪廻の華を連れて来たことを知らないのだろうか。
それとも他にもっと重要なことが起こっていたから外からもわかるほど邸内が騒然としていたのだろうか。
いずれにしても三公のうち、ふたりはできれば避けたい存在だ。
年をとったとはいえまだまだ刀を振るえば猛将と化す妹尾家当主、妹尾菱盛。
式神を操り人を簡単に殺せる御形。
彼らがこの状況を見ればすぐに反撃に加わるであろうことは明白である。
何としてでもそれは避けたかった。
白檀が一抹の不安を抱え眉間に皺を寄せていると間もなく百合を抱えた月華が近づいてきた。
「白檀、百合を取り戻した。彼女から異能を消すにはどうすればいい?」
月華の腕の中でぐったりと意識を失った百合を見て、白檀は左右に首を振った。
「このままではだめです」
「どういうことだ? 異能を消せるんじゃなかったのか!」
詰め寄る月華に対し白檀はどこまでも冷静だった。
「百合が意識を取り戻すまで解の術は使えません。だからあなたは百合を連れて先に京へ向かって下さい。我々もすぐに追いかけますから」
今はそれしか方法がない。
ここで百合が意識を取り戻すのを待っていられる戦況ではないのだ。
「では今すぐ一緒に——」
「今すぐというわけにはいきません。彼らを放っておくわけにはいかないでしょう?」
白檀が指差す先には敦盛を追った雪柊や満身創痍の棗芽、腰を抜かしている紅葉がいる。
「彼らにもすぐにここを離れる旨、伝えたら私たちも京に向かいます。だからあなたと百合は先に行ってください。もし私たちが追いつけなかったとしても、あなたの邸を訪ねますから、九条邸で会いましょう」
ここで百合の異能を消せなかったことが不満なのか、または一緒にここを立ち去れないと言ったことが不満なのか、月華は色をなしていたがやがて諦めたように去っていった。
月華が門を出ていくのと同じ頃、白檀たちが懸念していた人物の怒号が辺りに響き渡った。
「これは何ごとかっ!」
声の主は妹尾家当主——妹尾菱盛だった。
騒然としていた周囲が一瞬の静寂に包まれる。
50は過ぎているだろうと思われる菱盛だが、その権威は未だ健在のようである。
右手に刀を握りしめ鬼の形相をした菱盛の登場により、それまで敦盛を追っていた雪柊も足を止めた。
棗芽と紅葉も菱盛から目を離さない。
当然、白檀と山吹も背中に冷たいものが流れながらも視線を逸らすことはできなかった。
「……まずいことになりましたね」
微かに聞こえる程度の声で山吹が言った。
「ええ、本当に。月華が立ち去った今、彼らを相手にできるのは雪柊と棗芽、そして山吹、あなただけになってしまいましたからね」
「俺はあなたのそばを離れるつもりはありませんよ。あなたがここを動かないというなら、俺もあなたの盾になるだけです」
「盾? そんなことはやめなさい。あなたの命はあなただけのものなのですから、私のために体を張るなんて許しませんよ」
「白檀様が何と言おうとそれこそこの命をどう使おうと俺の自由ですよね? 犬死にするつもりはありませんから安心してください……九条月華の戦力を期待できないとしてもせめてあの六波羅の男がいてくれれば少しは戦力になりそうなんですけどね」
山吹の言葉に白檀は忍び笑いを漏らした。
六波羅の男、つまり北条鬼灯は鎌倉幕府で最も将軍の信頼を得ている武将だということを山吹は知らないのだろうか。
月華の剣術の師匠であり、北条棗芽の実兄でもある。
互角に渡り合えるのは雪柊くらいのものだろうということは、鬼灯と親しくもない白檀の耳にも入っている。
その彼を捕まえて少しは戦力になりそうだ、などと口にしたことを月華や棗芽に知られれば半殺しくらいの制裁を受けることになるだろうと想像し、場にそぐわないと思いながらも白檀は緊張感のない笑みを溢したのだった。




