第47話 望まぬ再会
北条棗芽は九条百合を背負ったまま大きく深呼吸した。
これから百合と紅葉の両方を守りながら妹尾邸から脱出しなければならない大仕事が待っているからだった。
可能な限り、妹尾家の家臣には見つからないようにこの迷路のような邸内を潜り抜け、正面から外へ出なければならない。
日は徐々に高くなってきたため、闇に隠れるような芸当はできない。
潜入した時には床下を這うようにして難なく邸内に入り込むことができたが、意識のない百合を抱えて床下を這うのは無理がある。
まして、高い塀を越えるにも限界があるのだ。
百合が意識を失っていることは、棗芽にとって大きな誤算だった。
だが困難だからといってここで諦めるつもりは毛頭なかった。
頼れるのは百合を取り戻しに来るであろう九条月華と、後を追うと言ってくれた師匠——雪柊の存在だけである。
雪柊がうまく説得できていれば兄の鬼灯も加勢してくれるかもしれない。
鬼灯が雪柊に言いくるめられ、唸りながら重い腰を上げる姿が目に浮かぶ。
彼らの見えない絆は棗芽には計り知れないものがあると思う。
互いの愛した女が姉妹であったことで義兄弟となった一面もあるがそれだけではない何かを感じるのだ。
それはある意味、棗芽にとって羨ましいものでもある。
棗芽は人一倍感情的になるところがあり、特に怒りの感情が昂る時は相手に対して歯止めが効かないほど辛辣な言葉を浴びせてしまうことを自分でもよく理解していた。
だから感情を制御するため、常に作り笑いを浮かべることを心がけ、相手を傷つける言葉を吐かないようにどんな相手にも敬語を使うようにしてきた。
そのせいで感情が読めない、距離を置かれているように感じるなど様々な印象を持たれるようになり、他人と深く関わることができなくなった。
そんな棗芽にとって鬼灯と雪柊のような揺るぎない関係は憧れでもある。
ふたりのことを思い出すと自然と笑みがこぼれた。
「何よ、この状況で随分と楽しそうね」
ひとりほくそ笑む棗芽を訝しげに見る紅葉は呆れた様子で言った。
棗芽は紅葉をまじまじと見つめた。
彼女は最初から、取り繕っている偽りの棗芽にも正面からぶつかってきた。
言いたいことは何でもぶつけてきたように思う。
だからいつの間にか棗芽も素の自分を出してしまっていた。
紅葉には素直に感情をぶつけられる気がする。
あるいは彼女ならとなら、憧れる兄たちのような関係になれるのかもしれない。
「すみません、何でもありませんので気にしないでください」
「何でもないのにこの苦境で笑ってられるなんて、頼もしい限りね。まぁ冗談はさておいて……どうやって脱出するつもり?」
「正面から行くしかないでしょう」
「正面から!? あなた、正気なの」
「ええ。私はいつでも冷静ですよ。残念ながら百合殿を背負って床下を這うことはできませんし、まして高い塀を越えるのは無理です。門を開けさせて正面から出るしかありません」
「…………」
紅葉が絶句するのも無理はない。
妹尾家の家臣たちは誰かを捜索しているのか、次から次へと慌ただしく駆けずり回っているのだ。
この中を抜けて行くのは至難の業である。
「では行きましょうか」
棗芽がそう言うと紅葉は彼から預かっている太刀を抱える腕に力を込めた。
それを見た棗芽は思った。
怯えることはない。
何があろうと君たちはこの私が命に代えても守るのだから。
そんな強い決意を棗芽が口にすることはなかった。
百合が寝かされていた妹尾敦盛の部屋の前を離れたふたりは紅葉の案内で門まで最も近い道筋を行くことにした。
複雑に繋がった廊下を歩き最初の角を曲がった時、向かいからやって来る数人の家臣たちと鉢合わせそうになり、棗芽は手近にあった障子を開けて紅葉と部屋の中へ入った。
この部屋が何のためのものなのかはわからなかったが正面から鉢合わせれば間違いなく戦わなければならなくなる。
一時的に状況を回避するためには他に方法がなかった。
幸い中には誰もいなかった。
無理やり部屋に押し込まれた紅葉は声を潜めながらも憤慨した。
「ちょっと、無謀な人ね。確認せずに部屋に入るなんて。ここが誰かの部屋だったらどうするつもりだったの?」
「あの刀を持った男たちと誰からも見えるようなところで鉢合わせするよりは密室の方がやりようがありますからこれでいいのですよ。幸い誰もいないようですし。ここは何の部屋なのでしょうね」
ぐるりと見回して棗芽は言った。
確かに部屋には誰もいないだけでなく何もなかった。
「……お針子さんの作業部屋かも。まだ朝だから誰もいなかったのね。でももたもたしてたらお針子さんたちもここへ来ると思うわ。急ぎましょう」
紅葉がそう言って再び廊下に出ようと障子に手をかけると、廊下にいる家臣たちが部屋に入ろうとする気配を感じた。
紅葉は棗芽の手を引いて障子と反対側の襖の方へ逃げ込んだ。
閉じた襖から先ほどいたお針子の作業部屋を覗くと家臣たちが何やら相談している様子が伺えた。
ふたりは襖が開けられることがないよう祈りながら息を潜めた。
しばらくすると家臣たちが去っていく足音が聞こえ、紅葉は大きく深呼吸する。
「はぁ。行ったみたいね。こっちへ来なくてよかった」
棗芽もほっと胸を撫で下ろしたが、ふと周りを見て驚いた。
そこには無数の刀や槍、弓といった武器がずらりと並んでいたからだった。
「ここは……」
「ああ、武器庫だったのね」
「武器庫? お針子の作業部屋の隣にこんな物騒なものを保管しているのですか」
「これは予備じゃないかしら。実用的なものは別のところにあるはずだけど、きっと予備を置く場所がなかったのね」
まるで普通の荷物のように紅葉は言うが、ここにある量は尋常ではない。
数を数えるのも面倒になるほどの量が無造作に積まれている。
「他のお邸のことは知らないけど、意外なところにあった方が有事の時は役に立つんじゃない? 攻め込まれた時に武器がなければ戦えないものね」
「そうは言ってもこの量が予備だとは……一体、この邸にはどれほどの武士がいるのですか」
「さぁ……? 数えたことないけど100はいるんじゃない?」
「100人、ですか」
「戦になればこの程度の備蓄じゃ足りないくらいなんじゃないの?」
確かに紅葉の言うとおりである。
戦となれば人手だけでなく武器も大量に必要になる。
備中国は倒幕を目論んでいる疑いで棗芽自身が調査していたのだ。
大量に武器を抱えていても不思議はない。
棗芽は深いため息をついた。
武装した100人あまりの家臣たちが次々と立ちはだかってきた時、果たして少人数で対抗できるのだろうか、と頭を抱えたくなった。
「とにかく可能な限り戦わないことが先決ね」
棗芽も強く頷くとふたりは再び家臣たちがいなくなった廊下に出た。
敦盛は重苦しい瞼を開けた。
体は重く、起き上がるのもやっとの状態である。
何とか半身を起こすと廊下からは慌ただしく駆ける足音と、遠くで何かを叫ぶ父、菱盛の声がした。
(一体何が起こっている……?)
敦盛は額に手を当てて記憶を辿った。
輪廻の華を連れ帰ったところまでははっきりと覚えている。
その後、輪廻の華を妻の梓に預けて三公に報告しようとして——思い出した。
菱盛に報告に行く途中、橘萩尾に遭遇し茶を振る舞われたのだ。
急な睡魔に襲われて自室に戻ってきたが、あの茶に何か入っていたのだろうかと思うほど体の自由が効かなくなったのだった。
ふと部屋に敷かれた布団を見るとそこに百合の姿はなかった。
掛け布団を大きく引き剥がしても当然、彼女の姿はなく、布団にほんのりと温もりが残っているだけだった。
(体調が悪く気を失っていたのではないのか!? それともあれは巧妙な演技だったとでも言うのか……)
敦盛は驚愕した。
すぐ隣には寝入る梓の姿がある。
まだ怠さの残る体に鞭を打って敦盛は梓に近寄ると肩を揺すった。
「梓、起きろ」
何度が揺すると眠そうに目を擦る梓が返事をした。
「旦那様……?」
「梓、目を覚ませ。寝ていたはずの彼女がいない」
最初は朧げだった梓も次第に意識を取り戻した。
「いない? いないはずは——」
実際もぬけの殻になった布団を呆然と見つめる梓の様子に、これでは埒があかないと業を煮やした敦盛はふらつく体を押して障子を開けた。
ちょうどそこに通りかかった家臣とぶつかりそうになる。
「あ、敦盛様! 失礼いたしました。急いでいたものですから……」
いつになく騒がしい廊下に敦盛は声を荒げた。
「騒々しい。一体何を騒いでいるのだ!」
怒りをぶつけたところで輪廻の華の行方がわかるわけではないが、思いどおりにならない自分の体と行方のわからない輪廻の華に無性に腹が立って敦盛は厳しく叱責した。
「も、申し訳ございませぬ。菱盛様から萩尾様を探せとの命を受けておりまして、目下邸中を捜索中なのでございます」
深く頭を下げる家臣を見て敦盛は意味がわからなかった。
「探せとはどういうことだ」
「それが、現在行方不明とのことでございます」
「萩尾様は自室にはおられないのか」
「お部屋どころか、今のところ邸のどこにもいらっしゃいませぬ。それでは私は捜索に戻りますので、御免」
立ち去る家臣のひとりを見ながら敦盛は頭を抱えた。
昨晩、茶を呑みながら話をした相手は萩尾ではなかったか。
それが数刻もしないうちに姿をくらましたとはどういうことだろうか。
とにかく何が起こっているのか、確認しなければならない。
そう思った敦盛は腰に差していた刀を杖代わりにしてふらつく体を支えながら部屋を出た。
どこへとは決めていなかったが体は自然と菱盛の声が聞こえる方へ向いていた。
慣れた邸とはいえ、ふらつく体だとどこも遠く感じる。
壁や柱を支えにしながら進んでいると、前方に見慣れた後ろ姿が目に入った。
長年可愛がってきた妹のような存在だと後ろ姿だけでわかる。
山陽道の途中でばったり遭遇してそのまま別れたと思っていた。
ここにいるはずはないと思いながらも敦盛は疑いもなく声をかけた。
「そこにいるのは紅葉か……?」




