第45話 新たな火種
湖薄と檜緒が京に入った頃、鷹司家の邸内では早朝にも関わらず、男女の言い争う声が響いた。
「茜音様、どちらへ!?」
「どちらって杏弥のところに決まっています」
茜音の言葉に家臣の桂田もさすがに声を荒げた。
ふたりの声を聞いて女中たちがわなわなし出しているのが桂田の目の端に映る。
これでは当主の棕櫚が目を覚ますのも時間の問題かもしれない。
ことの発端は嫡子の杏弥が早朝、桂田に向けてしたためた文であった。
中には風雅の君に取り入ろうとしていたことが裏目に出て輪廻の華を拐かした罪を問われていることが克明に記されていた。
公にはなっていないが今は兵部少輔の監視下にあってしばらく邸に帰ることができない旨も付け加えられていた。
ことの起こりから関わっていた桂田は絶句して思考が停止してしまったが、偶然出くわした茜音は弟の愚行によって鷹司家が危機迎えていることを察知したようで急いで身支度を整えると慌てて出掛けようとしたので、桂田はそれを引き止めないわけにはいかなかった。
「失礼ながら茜音様が出向かれて何になりましょうか」
桂田の厳しい指摘に茜音は睨み返すだけだった。
当主の棕櫚や嫡子の杏弥だけでなく茜音もまた仕えるべき相手であり、その主人に対して反論するなど本来ならあってはならないことだが、桂田は1歩も引かなかった。
「ではどうするのですか。もし杏弥が裁きにかけられるようなことになれば、桂田と杏弥が画策していたことがみなに知られてしまうではありませんか。そうなれば我が鷹司家はいい笑い者です。悪くすれば近衛家の二の舞になりかねません」
「だからとて今、茜音様が動かれても事実は消えませぬ」
「しかしこのままというわけには……九条家……九条家……。そうです、まず九条家に詫びを入れましょう」
そう言って茜音は踵を返した。
「お、お待ちください、茜音様。詫びなど、受け入れるかどうかわかりませぬ」
「受け入れられるかどうかはやってみなければわかりません。とにかくこちらには九条家を害する意図はなかったことを伝えるだけでも……」
九条家へ向かうのだと言って聞かない茜音とそれを必死に引き止める桂田。
邸を出ようとする茜音を引き止めながら着地点の見えない口論を続けていると、気がついた時には邸の門まで来ていた。
茜音は門番を怒鳴りつけて門を開けさせた。
その姿たるや、まるで女子の皮を被った武将のようだった。
鷹司家は代々公家として朝廷に仕える京の貴族であり、その中には武士の血など混ざっていないはずだが。
桂田は、これだから嫁の貰い手がないのだ、などと内心呟いた。
九条家との縁談が破談になってから邸に籠ってきた鷹司家の姫は、この気性のために奥に隠されていたのだろうし、これを見抜いていた棕櫚には嫁に出す先を見つけられなかったのだろう、とも思う。
「お待ちください、せめて牛車を……」
「必要ありません、九条家はすぐそこです」
茜音が指差した先は確かに九条家の邸がある方向ではあるが、その距離は大人の足で歩いても四半時に近い刻を要するあたりにある。
九条家と鷹司家は互いに摂家として広大な敷地を有している。
いくら近所だからと言っても、大きな邸がふたつ並べば、その門から門までの間にはかなりの距離があるのだ。
日頃、邸の中で過ごしている姫が歩いて行けるような場所ではない。
必死に引き止める桂田を無視して門の外に出た茜音そこですぐに足を止めた。
桂田もすぐに後を追い、視線の先を確認する。
「こちらに向かってくるあの馬、どこかおかしくありませんか」
茜音の言うとおり、桂田の目にも同じように映っていた。
九条邸の方向から鴨川に向かっているように見える。
当然その間にはこの鷹司邸がある。
馬の背には男女ふたりが乗っており、男が手綱を握っているようだが制御できているとは言いがたい。
暴れ馬と言っても過言ではない。
鷹司邸へ近づいてくるに従ってその暴れ方は激しくなっていった。
「このままでは、危ない。あのふたり、振り落とされるかもしれません」
そう言うや否や茜音は呆然と見守る門番に馬を止めるよう言いつけた。
門番が前に進み出るとちょうど鷹司邸の前まで来た暴れ馬は前足を大きく上げて嘶いた。
驚いて嘶いた馬の背から落ちるのはあっという間だった。
何が起こっているのかわからないうちに檜緒は湖薄に抱き込まれて地面に落ちていた。
彼らが乗っていた馬はそのまま走り去っていった。
目を開けた檜緒が顔を上げると目の前にはぐったりと横たわる湖薄の顔がある。
檜緒を守るように抱き込んでいた腕は力なく解かれた。
「こ、湖薄……!」
これまで湖薄が側にいないことなどなかった。
どんな時も彼は檜緒の近くにあり、いつも危険から守ってくれた。
檜緒にとっては親のような兄のような、なくてはならない存在である。
「いやだっ。湖薄、死なないで」
落馬しても傷ひとつないのは湖薄が身を挺して守ってくれたからだと思うと檜緒の涙は止まらなかった。
いくら小言を言われてもいい。
湖薄が側にいなくては困る。
何度も肩を揺らしたが湖薄の目は覚めない。
檜緒の目からはとめどなく涙が流れた。
「あなた、大丈夫なの?」
見知らぬ相手に声をかけられ、顔を上げるとそこには豪奢な着物に身を包んだ身分の高そうな女子が檜緒を見下ろしていた。
見るからに貴族だとわかる。
その時、檜緒の脳裏に家族を虐殺した公家の顔がよぎった。
笑いながら人を人とも思わない男たちの、平民を見下す顔が頭から離れない。
次第に檜緒は全身が震えるのを感じた。
「何……、公家の人?」
「え、ええ。私はこの鷹司家の者だけど……」
「いや! 近寄らないでっ。湖薄に触らないで!」
意識を失ったまま微動だにしない湖薄の体を守るように檜緒は覆い被さった。
怒りと憎しみの感情に支配された檜緒は震えながら断末魔の叫びを上げる。
何ごとかと数人が邸から出てきたところで、力尽きた檜緒は大人しくなった。
それまで呆然と立ち尽くしてことの成り行きを見ていた桂田は折り重なるように横たわるふたりに駆け寄った。
口元に耳を寄せ、だらりと投げ出されたそれぞれの手首で脈拍を確認する。
「ふたりとも息をしておりますし、心の臓もまだ動いておりますな」
桂田は様子を見に外に出てきた家臣たちを使い、倒れたふたりを中へ運ぶよう命じた。
「よろしいですね、茜音様」
「よろしいですねって、断るまでもなくそうしているではありませんか」
桂田の先導で意識のない男女を運び入れると、鷹司家の門は固く閉ざされた。
まるで、これ以上誰も出入りさせないかのようだった。
桂田に並んで邸の中へ入った茜音は不満そうにぽつりと漏らす。
「あんな得体の知れないふたりを邸に入れることになるなんて」
「これはあなた様が招いたことではありませぬか」
「私が?」
「そうです。そもそも九条家へ行くなどと言って外にお出になることがなければあのふたりに遭うこともなかったでしょうし、暴れ馬を止めさせるような手出しをしなければ、彼らはそのまま走り去って行ったでしょう」
「こ、こんなことになるなんて思っていなかったのです、あの時は」
「それにこの邸にの前で行き倒れされたのを放置すれば、周囲の鷹司家への評判はがた落ちです。あれだけ大声で叫ばれてはそのうち人が集まってきてもおかしくなかったでしょう」
「…………」
「そんなことより、このふたり、何処へ運びましょう?」
気を失っているとはいえ、見ず知らずの者をふたりも邸内に運んでしまった。
それも当主である棕櫚に断りなく、である。
せめて嫡子の杏弥の許可を得られれば良かったが、当の嫡子は未だ兵部少輔の監視付きで御所の中である。
「いつ目を覚ますかわかりませぬが、意識を取り戻すまでは留め置くより他にないでしょうな。できれば棕櫚様には見つからないところでなければ、後々面倒なことになります」
「でしたら西対へ運びなさい」
「茜音様の居室へ、でございますか」
「私が部屋に引きこもっているのはこの邸内でも有名です。父上でさえ近づくことはありません。隠れるのに最適なのでは?」
「ですが、このような得体の知れない者を……」
「仕方がありません」
家臣として姫を危険に晒すことになるかもしれないことを許していいのだろうか、という迷いがある。
茜音を見やると不満を漏らしていた割には動じているようには見えなかった。
決断を迷い、もたもたしていると棕櫚に知られてしまう危険性が高まる。
致し方なく桂田は茜音の提案を受け入れることにした。
西対へ向かう途中、茜音は不意に言った。
「桂田もいろいろ大変ですね」
「は?」
「他意はなくとも当主に内緒で処理しなければならないことが山積みではありませんか」
茜音の言うとおりである。
行き倒れまがいのふたりを保護したことは大したことではない。
問題は杏弥の方である。
九条家を敵に回すことになるかもしれない事態を何とか穏便に収めなければならない。
茜音が言っていたとおり、謝罪してことが済むのならいくらでもするし、金銭で済むのならむしろ楽なくらいだが九条家はどちらも受け入れないだろう。
九条家は今や摂家の筆頭となり、帝からの信頼も厚い。
そんな九条家が大事にしているという嫁を拐かそうとしたのだ。
嫁であり、右大臣の義理の娘でもある。
無事だったとしても鷹司家が何らかの制裁を受けることは覚悟しなければならない。
桂田は深いため息をついた。
「火種が大きすぎて、手に余っております」
「あの杏弥の世話するのも大変でしょうね」
「火消しはこの桂田がいたしますので、茜音様、あなた様は不用意に動かれませぬよう」
桂田は西対への運び入れを家臣たちに任せると深々と頭を下げて茜音の前を辞したのだった。




