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第44話 権力者の邸

 行き先を告げなかったことで馬から降りようとした檜緒ひおが足を負傷したことは湖薄こはくにとって大きな誤算だった。

 だが、備中びっちゅうへ帰ると言っていた彼女もさすがに自力で帰ることは叶わないと悟ったのか、大人しく馬に乗ってくれた。

 途中で遭遇した北条鬼灯ほうじょうきとうと名乗った武士がみやこから来たなどと言うから、里を焼いた公家のことを思い出して発作を起こした檜緒だったが、何とか平静を取り戻した。

 負傷した檜緒への負担を考慮して速度を落とした湖薄の馬が京に着いたのは明け方だった。

 早朝とあって大路を歩く人もまばらで誰も馬に乗るふたりを気に留めていない。

 そのまま大路を進むと、どこまでも続く大きな邸の塀が見えてきた。

 塀の高さは人の背丈の2倍はあるように見える。

 京で暮らしたことがない湖薄には聞いた話程度にしか知識がないが邸の大きさは権力の大きさに比例するという。

 これが誰の邸なのかはわからないが、相当な権力者であることには違いなさそうだった。

 湖薄は少ない知識の中から、公家の世界について思い起こした。

 公家には摂家せっけ清華家せいがけなどの家格がありそれぞれ就ける職も決められているらしい。

 家業を世襲で継ぐという、実力主義とは違う世界である。

 改めて長い塀の続く邸を見る。

 摂家の邸は御所の近くにあるというから、さしずめ清華家あたりだろうか、と湖薄は思った。

 湖薄は公家に関する知識の多くをかつて官吏として働いていたという御形ごぎょうから教わっていた。

 いつかこんな日が来た時のために、と御形には公家の風習や考え方を叩き込まれた。

 ある程度、理解したつもりでいたがまだまだわからないことはたくさんある。

 山吹やまぶき紅葉くれはのように各地を渡り歩いてきたわけではない上に京に来るのは初めてのことで、土地勘は全くない。

 特に人物の顔と名前は一致していない。

 この長い塀に囲まれた邸がどこの誰なのかわかったところで、その人物とどこかですれ違ったとしてもおそらくわからないだろう。

 帝の顔もわかっていないが、夜には清涼殿にいるはずだからそこは心配していなかった。

 しばらく馬を歩かせるとやがて邸の門が見えてきた。

 門の上に家紋が彫られているが、他家の家紋を知らない湖薄には何の手掛かりにもならなかった。

「ねぇ、これ誰のお邸なのかしらね」

 それまで大人しくしていた檜緒が突然そんなことを言い出した。

 無視して騒ぎ出されても困るので湖薄は仕方なく気のない返事をした。

「さあな。相当な偉い人の邸じゃないか」

「偉い人って?」

「そんなことは知らない。別に知る必要もないだろう?」

「でも気になるじゃない? ちょっとあの人に訊いてみない?」

「あ、おいっ」

 湖薄が止めようとした時にはすでに遅かった。

 門の前を通り過ぎようとしていたのに檜緒は馬上から不躾に門番へ声をかけた。

「すみません、ここ、どなたのお邸?」

 門番が不信感を丸出しにしたのは言うまでもない。

「……………」

 門番は何も答えなかった。

 それどころか一瞬、訝しげな視線を向けた後、何ごともなかったかのように前を向いた。

 全く相手にされなかったことに機嫌を損ねた檜緒はこともあろうか、門番に噛みつく。

「ちょっと、あなた! 無視することはないでしょう!? 別に入ろうってわけじゃないんだから教えてくれたっていいじゃない」

 湖薄は頭を抱えた。

 これから大事を抱えているのに、不用意に目立つことはしたくない。

 目立てば動きにくくなるからである。

 邸の中の人を呼ばれて騒ぎになるのは御免だ。

 そそくさとその場を去ろうとすると意外にも門番は反論してきた。

「無礼な者め。ここは六波羅ろくはら御所だ。お前たちのような市井の者が来るところではない」

 六波羅、と聞いて檜緒と湖薄は互いに顔を見合わせた。

 道中、突然現れたおせっかいな武士の男がそう名乗ったのを鮮明に覚えている。

「……もしかしてここって北条鬼灯ほうじょうきとうっいう人のお邸なの?」

「主人を呼び捨てにするなど、なんたる無礼者だっ」

 腰の刀を抜いた門番は今にも襲いかかってきそうだったため、湖薄は急いで馬を走らせた。

 さすがに追いかけてくることはなかったが少し離れたところで馬主を返すとまだ憤慨している門番の姿が目に入る。

「こんな大きなお邸に住んでるなんてあの人、すごい人だったのね」

 あの人とは北条鬼灯と名乗った武士のことである。

「すごい人?」

「だってこのお邸の主人なんでしょ?」

 檜緒が1度会っただけの男を褒めるのがどこか気に入らなかった湖薄は冷笑した。

「……得体の知れない人物なのは変わりない」

「何よ。檜緒にとっては今や湖薄も同じなんだからね」

「何だって?」

 それは初耳だ。

 まだ檜緒がよちよち歩き始めたばかりの頃から面倒を見てきた湖薄にとってこの発言は到底受け入れられるものではなかった。

「だって京に行くって教えてくれなかったし。何を考えてるのか全然わからないんだからっ」

「ここが京だとわかっているとは意外だ」 

「馬鹿にしてるの!? 確かに京に来るのは初めてだけど……いくら何でも東に来てこれだけ大きな町なら誰だって京だって思うでしょ」

「それもそうか」

 京だとわかっていて発作が起きていないことに湖薄は内心、安堵した。

 朝服を着た官吏を見かけなければなんとか大丈夫そうだ。

「でも、湖薄。京に何しに来たの? 得体の知れない者の侵入を許して、邸が大変なことになってるのに今は御形の側を離れるべきじゃないと思うんだけど」

「これは御形様のご意思だから問題ない」

「だから、何が!?」

 檜緒は不満を延々と述べていたが湖薄は取り合わなかった。

「それに御形様には手助けなど必要ない。わたしたちがそばにいてはむしろ、足手まといになるだけだろう」

 ひとしきり喚いたのち、諦めて大人しくなった檜緒を連れて湖薄は御所を目指した。

 だがここでひとつ問題がある。

 当初の計画では、このまま夜には御所に侵入し、内裏の中の清涼殿へ乗り込むつもりだった。

 必要なのは帝の首ひとつであり、無駄な殺生はしたくない。

 可能な限り、密かに任務をこなしたいところだが足を負傷している檜緒を連れていてはそれも難しいだろう。

 どうしたものか。

 どこかに預けられれば良いのだが……。

 考えあぐねていると、湖薄たちを乗せた馬は再び別の邸に近づいた。

 先刻の六波羅御所よりもさらに大きな邸で高い塀はどこまでも続いている。

 塀に沿って馬を歩かせていると、前方に牛車が停まっているのが見えた。

 見送りに出たと思しき男が牛車に乗り込む相手と交わす言葉が漏れ聞こえた。

「……九条家にはすっかり世話になった」

「またいつでもお越しください。主も喜びましょう」

「ああ。いろいろと片付いた暁には必ず」

 牛車に乗り込む人物に深々と頭を下げて見送る者はどうやら邸の者らしい。

 湖薄は通りすがら動き出した牛車をいつまでも見送る男と目が合ったが、男はすぐに邸の中へ入っていった。

 固く閉ざされた門の前を通り過ぎる。

 湖薄も檜緒もその門に釘付けになった。

 通り過ぎてもなお、目が離せずにいると門番に睨まれ、彼らは慌てて視線を逸らしたのだった。

 邸を通り過ぎてしばらくすると檜緒は言った。

「九条って聞こえたね」

「そうだな。あれが九条家の邸なのかもしれないな」

「九条家って御形たちが追ってる輪廻の華を匿ってるんだよね?」

「知っていたのか? 檜緒は興味がないと思っていた」

「興味はないけど、みんなが追ってるから。でも何で追ってるのか知ってる、湖薄?」

 知っている。

 喉まで出かかって湖薄はそれを飲み込んだ。

 妹尾菱盛せのおひしもり橘萩尾たちばなはぎおの事情は知らないが、御形が輪廻の華を追っているのは、彼女が持っている異能がもともとは檜緒の母であった桐江きりえが持っていたものだったからである。

 常闇ことやみの術は常世とこよ現世うつしよを繋ぐ術だ。

 御形が常闇の術を使って何をしようとしているのかはわからないが、その術を使って何かをしようとしているのは確かだろう。

 だが檜緒にそれを伝えるつもりはなかった。

 知らない方が安全なような気がした。

「知らないな。知ったところで関係ないしな」

「そう……まぁそうよね。それにしても、九条家の邸はあの人の邸より大きそうだったわね。出ていった人は誰だったんだろう」

「さあな」

 まさに湖薄も同じことを考えていた。

 見送っていたのはおそらく九条家の家臣だろう。

 だが、見送った相手は主人ではない。

 世話になったと言っていたが、客人をもてなしていたようには見えなかった。

 牛車に乗り込んだのはたったひとりで供の者を連れている様子はなかったし、しかもまだ往来に人が出歩かないような早朝である。

 客人が帰宅するには不自然な時刻だ。

 釈然としないまま、湖薄は先を急いだ。

 随分と長い九条家の塀が途切れ、やっと敷地の終わりに差し掛かった頃、目の前にはこれまで進んできた大路の終着点であるかのような巨大な門が目に入った。

 それは御所の出入り口、朱雀門なのだとすぐにわかった。

 この先に憎き相手がいる。

 そう思うと怒りで自然と全身に力が入る。

 湖薄が思わず手綱を握りしめた時、驚いた馬が暴れ出した。

 咄嗟に手綱を引いてしまったことも相まって制御不能になる。

 振り落とされそうになった檜緒が馬にしがみつき、悲鳴を上げた。

 必死になって馬を諌めようとするも、暴れ馬となってしまっては手がつけられなかった。

 馬はふたりを乗せたまま、朱雀門の前を反れて別の方向へ走り出す。

 方向を変えた馬が向かう先には川のようなものが見えるが土地勘のない湖薄にはその先がどうなっているのかわからなかった。

 とにかく振り落とされないようにするのが精一杯で必死の攻防戦を繰り返していると、何かが目の前に現れた。

 驚いた馬が前足を大きく上げた。

 馬の背から振り落とされる寸前、湖薄の頭の中には自分の身の安全よりも檜緒を守らなければならない、その想いしかなかった。

 彼女の身を守るように自分の胸に抱き込んで地面に転がり落ちる。

 背中から落下した直後、一瞬全身に激痛が走った。

 遥か遠くで檜緒が何かを叫ぶ声が聞こえたような気がするが、もはや湖薄の意識は薄れて何も聞こえなくなっていた。

 檜緒が無事であればそれでいい、という強い想いだけを残して。

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