第41話 亡き妻の残した日記
九条時華は内裏へ赴き、榛紀が九条邸で静養している事情を説明するとその足で図書寮が管理する書庫を訪ねた。
調べものをするのが目的だったからである。
すでに図書寮の官吏たちは出仕しており、いつも通りの1日が始まっていた。
右大臣である時華はすんなりと書庫の中に入ると、懐にしまってあった文を取り出した。
それは先刻、鳶尾誠から受け取ったものだった。
周囲に誰もいないことを確認すると時華はゆっくりとその文に目を通した。
『拝啓 九条時華殿
このような不躾な文をお送りすることをお許しいただきたい。
事態は一刻を争うのです。
榛紀様に危険が迫っております。
どうかあの方をお守りください。
そして備中国に暮らしておられた風雅の君もお隠れになりました。
どこへ行かれたのかはわかりませぬが、白椎様の御身も危険に晒されておりますゆえ、
もし京でお会いになったなら保護してくださいますようお願いいたします。
亡き凌霄陛下の御子たちをあなたに託します。
ここに危険な者たちの名を記しておきます。
この者たちが近くに現れた際にはゆめゆめ油断なさいませぬよう。
檜緒
湖薄
御形』
最後には『橘萩尾』と署名されている。
時華はこの橘萩尾なる人物について、おぼろげにしか記憶になかった。
どこかで聞いたことがあるような気もするがどうしても思い出すことができない。
しかし相手はこちらのことをよく知っているようである。
皇家の皇子たちを託すというくらいなのだから、彼らの叔父であることを知っているのかもしれない。
だとするとただ者ではない。
先帝の妹姫であった蘭子が九条家に嫁いできたことは公にされていない。
蘭子は行方不明になったと先帝が公言したことでそれ以上、捜索の手が伸びることはなかった。
先帝からは蘭子を頼むと言われ、時華が皇家の姫を娶ったことは九条家の関係者以外ではほとんど知る者がいない。
摂家の他家でさえ、九条家当主がどこから嫁を迎えたのかを知らないのだ。
当時はずいぶんと憶測で噂が飛び交ったが、み月もすればそれも収まった。
その当時のことを知っているかもしれない橘萩尾とはいかなる人物なのか。
それに白椎と榛紀に危険が迫っているとはどういうことなのだろうか。
これは昨夜現れた蘭子の幻が言っていたことと同じである。
やはり想像しているとおり、皇家に恨みを抱く者たちが兄弟を狙っているということなのか。
だが萩尾が最後に記した危険な者たちという3人の名に見覚えはない。
時華は静かに文を閉じると、書庫の奥へ向かった。
奥には禁書の棚がある。
そこにはいつにも増して雑然と積まれた書物の山があった。
持出禁止の上に閲覧制限のある禁書はほとんど見られることがないため、積み方に規則性はなくとも動かした形跡はほとんどないのが普通だが、今朝はどうみてもぐちゃぐちゃという表現がぴったりくるほどに乱れていた。
(誰か、引っかき回した者がいるのか……?)
時華は何冊か手に取ってみた。
やはり以前、『橄欖園遊録』を見に来た時とずいぶん配置が変わっている。
首を傾げたがとりあえず、自分のすべき作業に取り掛かることにした。
時華は蘭子が遺言のように残した『あの子たちを守って』という言葉が妙に引っかかっていた。
守るにしても誰が彼らを危険に晒そうとしているのかがわからなければ対処のしようがない。
もし本当に彼らを弑逆したいほど恨みを持っている人物がいるのだとしたら、それに繋がる何かの事件があったはずである。
事件が大きければ大きいほどそれは記録として残っているし、今現在、多くの者がその事件を知らないとすればそれは闇に葬られたものであり、その記録は禁書となっているはずなのだ。
いくつかの禁書を手に取った時、偶然時華の目に留まるものがあった。
書名には『鳳仙呪録』と書いてある。
裏を返すとそこには当時の陰陽頭と思われる人物の名が記されていた。
「これは鳳仙陛下に関わるものか……?」
思わずひとりごちた時華はゆっくりと表紙を開いた。
最初の頁には目を疑うような記述があった。
『これは鳳仙陛下の地位を脅かす者たちを人知れず葬った記録である。
誰をどのような方法で葬ったのかを残すのは鳳仙陛下のご意思であり、
またこれを執り行った稀代の陰陽師、御形の功績を称えるためである』
時華は禁書を開いたまま棚に置くと、慌てて懐の文を取り出した。
広げると確かに最後に『御形』の名が書かれている。
(橘萩尾が警告してきたこの3名のうちの御形という者は鳳仙陛下の御世で朝廷にいたということか?)
開かれた頁と手元の文を交互に見ながら時華は徐々に混乱してきた。
鳳仙とは2代前の帝である。
時華がまだ官吏になったばかりの頃に全盛期を迎えた鳳仙の御世のことはかすかに記憶に残っている。
人当たりも良く気さくな帝は民に慕われていたが、朝廷では本人の能力とは関係なく家格や官位を重んじていたとも聞く。
そのため、家格や官位の低い者が正論を述べたり、帝に反論するようなことがあると人知れず葬っていたという黒い噂がまことしやかに囁かれていたのを耳にしたこともあった。
その黒い噂が真実であったことがここに記されているということだろうか。
しかしその鳳仙を支え、功績を称えられるほど重宝されていたらしい元陰陽師がなぜ鳳仙の子孫を狙うのか。
時華は再び禁書に目を向けた。
『ある日、鳳仙陛下の逆鱗に触れた公家が朝廷を去った。
しかし陛下の怒りはそれだけでは収まらず、御形に依頼された。
依頼を引き受けた御形はその晩、件の公家を訪ね陛下の希望通り男を始末した。
大蛇の式神が男の体から首へ巻きつき締め上げる様は見事だった』
頁の最後には逆鱗に触れたという男の名と、その家の末路が書かれていた。
時華は思わず眉間を押さえた。
あまりにも現実離れしていて頭が痛くなるような内容だった。
先の頁をめくっても延々と同じような内容が記されているだけだった。
最後まで目を通した頃には、時華はすっかり胸やけしていた。
御形というかつての陰陽師が鳳仙の命により何人も人を殺したという内容に、なぜこんなものを残す必要があったのかと疑問に思えてならない。
御形という呪術を使う陰陽師が鳳仙の手足となって暗躍していたことはわかったが、鳶尾から受け取った文の差出人が示唆する風雅の君と帝を狙っているという者と同一人物なのかどうか、詳細はなく何もわからないままだった。
時華は混乱のまま書を閉じた。
もとあった場所に戻そうとすると、この『鳳仙呪録』の下にあったと思われる禁書が目に入った。
書名は書かれていない。
『鳳仙呪録』を棚に戻す代わりに、時華はその名無しの書を手に取った。
書名がないのに禁書になっていることが不思議だったからだ。
何の気なしに裏を見てみると『蘭子』と書かれてあった。
何度も見返したがそこには確かに最愛の妻の名がある。
時華は急いで書を開いた。
中身はどうやら蘭子の日記のようである。
それもまだ内裏で暮らしていた頃の古いもののようだ。
1度、書を閉じて表紙をまじまじと見るとところどころ破れて傷んでいるので、相当古いものに違いない。
時華は読み進めているうちに目に留まった頁でめくる手を止めた。
『今日は芙蓉様からふたつの秘密を打ち明けられた。
ひとつは芙蓉様が京に来た理由だ。
まさか兄上があのような人の道に外れた所業をしていたとは知らなかった。
芙蓉様は笑っていらしたが私は笑えなかった。
もうひとつは芙蓉様の持つ異能についてだ。
その異能で兄上を助けてくださったことが恋仲になったきっかけだったようだ』
内裏で暮らしていた頃の蘭子が先帝の寵愛を受けていた芙蓉と親しかったことは知っている。
蘭子が自ら死を選ぶほど精神を病むきっかけになったのは、毒を盛られて危篤になっていた凌霄と入れ違いになるように芙蓉が急死してしまったからだった。
蘭子が内裏に暮らしていた頃、芙蓉とのささやかなやり取りを日記として記録していたのだろうが、時華にはひとつ、解せない行があった。
あのような人の道に外れた所業——これは一体どういう意味なのだろう。
黒い噂が絶えなかった鳳仙が崩御された後、後を継いだ凌霄は朝廷の改革をしていた。
家格や官位を重んじていた鳳仙の御世を大きく変え、優秀な者は家格が低くても積極的に登用していたように記憶している。
かく言う時華も九条家の争いを治め当主となった後は凌霄にずいぶんと頼りにされたものだった。
九条家は家格としては最上位の摂家にあたるが、時華は三男である。
鳳仙であればふたりの兄を排して当主に就いた三男の時華を非難したであろうが、凌霄はそんな差別をしなかった。
そういった懐の広い理解ある帝という印象だった時華にとって蘭子の残したこの一文には違和感がある。
時華は続きを読み進めた。
すると再び手の留まる箇所があった。
『芙蓉様は心の広い方だ。
仇であるはずの兄上を許し、本当に愛していらっしゃる。
私にはとてもできない。
白椎を生んだことで心から許せるようになったという。
しかし私は絶対に兄上を許せない』
時華は首を傾げた。
仇であるはずの兄上——これは一体どういう意味なのだろう。
全く想像がつかない。
だが蘭子が相当、凌霄を嫌悪していたことは伝わってくる。
さらに読み進めると目を見張る箇所が飛び込んでくる。
『兄上が隠していた鳳仙呪録を見つけてしまった。
兄上だけでなく父上までもが人の道を外れていた。
もうここにはいたくない。
皇家など滅んでしまえばいいのに。
もうあの方を頼るしかない。
明日、この内裏を出よう』
『鳳仙呪録』とは先刻、時華が目を通していた禁書である。
今はこの書庫に所蔵されているが、もともとは凌霄自らが所持していたものなのかもしれない。
確かに内容からすれば、誰にも見せたくないのはわかる気がする。
蘭子が生前、出自である皇家を毛嫌いしていた理由がこの辺りにありそうだが、日記の記述はここで終わっており続きがないため、詳細はわからなかった。
時華は最後の一文を懐かしむように撫でた。
これは蘭子が九条家に転がり込んできた前日に書かれたものなのだろう。
それほど親しくもなかった時華を頼るしかないと覚悟を決め、断られるかもしれないのに自ら出向いて妻になることを望んだ蘭子の気持ちを考えるとこみ上げてくるものがあった。
蘭子はもうこの世にいない。
確かめることは叶わないが、彼女の残したこの日記には何か手掛かりがありそうな気がしてならない。
『鳳仙呪録』に書かれている事実、凌霄が行った何か、これらは凌霄が毒を盛られたことに繋がっているのかもしれない。
何かはわからないが彼らが行ってきたことが大きな憎しみを生み、今その手が白椎と榛紀に伸びているとしたら、橘萩尾という人物が警告してきたことに繋がる。
時華はいけないと思いながらも蘭子の日記を懐にしまった。
禁書の持ち出しはたとえ右大臣といえども許されていない。
だが時華はこの誰もいない書庫に蘭子の意思を残しておきたくなかった。




