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第40話 残された文

 当主の九条時華くじょうときなはを門まで見送った家臣の松島は、深呼吸した。

 懐の中には朝方、自室で発見した蘭子らんこの文がある。

 彼女が亡くなってから、多忙で中を確認することもなかったが、未読のまま大事に保管してあった文に、松島は今朝になって初めて目を通した。

 突然、蘭子の幻を見たと言い出した主の言葉が気にかかったからである。

 遺言のような何かが残されているのかと思いきや、それは松島の過去に触れ、そして主の未来を案じる予言めいた内容のものだった。

 思い出しただけでも、感情が溢れ出しそうになる。

 だが今は感傷に浸っている場合ではない。

 しなければならないことが山のようにある。

 時華の使いをこなし、邸の中を管理し、月華つきはなから任されている花織かおる姫の世話をしなければならない。

 おまけに北条鬼灯ほうじょうきとうの手によって舞い戻った帝を預かっているのだ。

 自分のことに構っている暇はない。

 心を入れ替えてもなお、どこか暗い気持ちを引きずりながら邸の中へ入ると、榛紀しんきがまだ東対ひがしのたいの前で棒立ちになっていた。

 踵を返して別のところへ行こうか、それとも平伏して通り過ぎようか迷っていると榛紀と目が合った。

 声をかけないわけにはいかなくなった。

「陛下……主が申しましたとおり、まだお休みになられた方が……」

 榛紀は何も答えなかった。

 血は争えないもので凝視するその目は、月華にも似ているが、やはり蘭子に1番似ているような気がする。

 松島は蘭子に何か責められているような気さえして足早にその場を辞そうとした。

「御身のお世話は女中がさせていただきますゆえ、私はこれにて失礼いたします」

「待て」

「……何か、ございましたでしょうか」

「また松島の点てる茶が呑みたいのだが、頼めるか」

 どういうつもりでそんなことを言うのか問いたいところだったが、そんなことができるはずもなく松島は深く一礼した。

 程なくして茶道具を持参して戻った松島は東対で茶を点て始めた。

 いつだったか百合にものこの場所で同じように茶を点てたことを思い出す。

 置き畳に向かい合って腰を下ろした榛紀は何も言わなかった。

 それが松島には一層不気味に感じた。

 抹茶を入れた茶碗に湯を注ぎ茶筅で混ぜ始めると松島の中には沸々と疑問が湧いた。

 何か粗相をしたのだろうか。

 それとも時華には訊けないようなことで確認したいことがあるのだろうか。

 点て終えた茶碗を榛紀に差し出すと、深く頭を下げた。

 茶人でもない九条家の一家臣が帝に茶を点てるなど畏れ多いことである。

 榛紀が3口半で飲み干す音が頭上で聞こえる。

 畳に額を付けたまま何を言われるのか固唾を呑んで待っていると榛紀は小さく笑った。

 何が起きたのかわからず、わずかに顔を上げると彼は空になった茶碗の中を見つめていた。

「松島、何か悩んでいるようだがよければ私に話す気はないか」

 榛紀に見せられた茶碗の底には確かに溶けきっていない抹茶がわずかに残っていた。

 松島は一気に血の気が引いていくのを感じた。

「………………!」

 恥ずかしさ以上に未完成のものを献上してしまったことに驚愕した松島は畳に額を擦り付けた。

「も、申し訳ございませぬっ」

「いや、責めているわけではない。そなたのことは先日会ったばかりでよくは知らぬが、見ていればどれほど目端の効く者なのかはわかる」

 榛紀の手が肩に触れ、松島は恐る恐る顔を上げた。

「そんなそなたが心ここに在らずとは余程のことなのだろう? 叔父上にも言えないようなことなら、この私に打ち明けてみぬか?」

「い、いいえ、そのような畏れ多いことは……」

松島は無意識で懐にしまってある文を着物の上から押さえていた。

「松島」

「……はい」

「身分や状況に臆して本当のそなたの想いに目を背けてはならぬ。そなたはこれからも九条家になくてはならない存在ではないか。そなたに迷いがあれば、大事を引き込むきっかけになるやもしれぬぞ。それは望まぬことなのではないか?」

 自分の子でもおかしくないような相手に諭され、松島の目尻からは不覚にもひと筋の涙が流れた。

 まさしく、蘭子に諭されているような錯覚に陥ったのだ。

「陛下……」

「榛紀だ、松島。畏れ多いなどと言うなよ? 九条家は私の親戚であり、この邸は第2の家でもある。ここではそのような他人行儀な扱いを受けたくはない」

 唖然としながら松島は流れた涙を着物の袖で拭うと苦笑を漏らした。

「榛紀様には何もかもお見通しのようで」

「そうでもない。現にそなたの涙の訳はわからぬ。そなたが話してくれなくてはな」

「そうですね。お見苦しいところをお見せしました。あなた様が蘭子様と同じことをおっしゃるので、一瞬、蘭子様に見えてしまったのでございます」

「叔母上に? 私は叔母上に似ている、と?」

「はい。お顔は月華様や悠蘭ゆうらん様に似ていらっしゃいますが、瞳は蘭子様によく似ていらっしゃいます」

 松島はそう言って懐から文を取り出すと榛紀に差し出した。

「これは?」

「亡き蘭子様から、私に宛てられたものでございます」

「…………」

「蘭子様は時華様宛の文の他になぜか私にも文を残されました。ただ、蘭子様が突然亡くなられたことでこの文を見る余裕がなく、大事にしまったままになっていたのですが……」

「それがなぜ今になって?」

「実は昨晩、時華様が蘭子様の幻を見たなどとおっしゃったものですから、お恥ずかしながらそれで思い出したのでございます」

 松島に促されるままに榛紀は受け取った文に目を通した。

 そこには九条家に嫁いできてからの蘭子の想い出のようなことがしばらく書かれていたが、榛紀は最後に書かれた一文に目を止めた。

「松島、これは……」

「はい。それは九条家に嫁いで来られるよりもずっと前のことですのに蘭子様はご存じだったようです、私が時華様にお仕えすることになった事情を」

「今のそなたからは全く想像がつかぬな」

「随分と昔のことです。今は別の理由でお側を離れないと決めております」

「それは、この締めくくりの一文のことか」

 松島は苦笑しながら頷いた。

「月華様が邸に戻られ、悠蘭様とも和解された今は少しお元気になられましたが、主は今も深い悲しみの中にいるのでございます。ですから、ふとした瞬間に間違いが起こらぬよう監視するのが今、私がお側を離れない理由なのです。それが拾ってくださった時華様への忠誠心だと思っております。蘭子様は本当に主のお人柄だけでなく、お考えを理解しておられたのでしょう。私に託された言葉にはそんな思いやりを感じます。できるなら、蘭子様には今も主のお側にいていただきたかった、そう思います。」

 榛紀は受け取った文を大事に畳むと松島に返した。

 しばらく目を閉じていた榛紀だったが、おもむろに立ち上がると手足を伸ばして深呼吸する。

「松島、悪いが牛車を用意してくれぬか」

「牛車、でございますか」

「ああ、牛車だ。内裏から呼ばずとも九条家のものでよい」

「あの、まさか……」

「私は仕事をしに御所へ帰る」

「い、いけませぬっ。主もゆっくりお休みになるようにと申し上げたはず」

「月華は妻を追い、兄上もそれについて行かれた。叔父上も大変な中をご自身の事情も顧みずに職務を果たされている。そなたも同じではないか。私だけがのうのうと休んでいる気にはなれぬ」

「ですが——」

「松島、これは命令だ。いいから牛車を用意せよ」

 榛紀の威厳に圧倒された松島は不本意でありながら言われたとおりにするより他なかった。

 相手は最高位にある帝である。

 主の時華でさえ逆らうことがないのだ。

 松島が立ち向かえるはずはなかった。

「権力もこういう時には役に立つものだ」

「榛紀様……」

「悪く思うな、松島。そなたは無理やりに牛車を用意させられたのだ。そなたに非はない」

「…………」

「次にこの邸に来る時はゆっくりしたいものだ。できれば月華や悠蘭と酒でも酌み交わしたいな」

「九条家はいつでも榛紀様を歓迎いたします」

「約束だ」

 そう言い残して榛紀は九条家の牛車で御所へ帰って行った。

 去っていく牛車をいつまでも門前で見送った松島は見えなくなったところで深々と頭を下げた。

 本当に榛紀を帰してよかったのだろうか。

 内裏で榛紀と遭遇した時華が絶句する姿が目に浮かぶ。

 従わざるを得なかったが、それでも抗いきれなかった自分にため息が溢れた。

 松島は改めて懐から取り出した蘭子の文に目を通した。



『時華様の兄上たちが刺客としてあなたを遣わしたにも関わらず、改心して彼の側にいてくれることにずっと感謝していました。

あなたがいてくれたおかげで、時華様がどんなに心強かったことか。

私は先に旅立ちますが、どうか時華様が私の後を追うようなことがなきよう、見張ってください。

あなたの変わらぬ忠誠心に期待しています』



 最後まで時華の身を案じながら自ら命を絶った彼女のことを思うと、なぜこうなる前に気がつくことができなかったのかと悔いが残ってならない。

 もともと松島は九条家の家臣などではなく、武道を心得た暗殺業を生業とする刺客だった。

 蘭子が皇家から嫁いでくるずっと前のこと。

 九条家は荒れに荒れていた。

 無能な時華の兄ふたりが金と権力をほしいままに利用し、ろくに仕事もしてなかったせいだと松島は後に時華から打ち明けられた。

 暗殺業は依頼者から金を受け取ることができれば、その事情に深く踏み入ることはない。

 時華の兄たちは目の上のたんこぶとしか思っていなかった彼を何とか消そうと、松島を雇い暗殺せしめようとしたのである。

 だが、時華を手にかけようと忍び込んだ夜、松島の運命は変わった。

 殺したければ殺せばいい、と真っ向から逃げも隠れも、怯えすらしなかった肝の据わった時華に手を出すことなど、松島にはできなかった。

 むしろ手が震えてどちらが刺客なのかわからなくなるほど、松島は時華を前に恐怖を感じたのだった。

 以来、松島は時華を生涯の主として忠誠を誓っている。

 溢れた涙がひと粒、文の上に落ちた。

 滲んだ箇所を大事に撫でると松島は文を再び懐にしまった。

「奥方様、この松島、生涯、あなたの仰せのままにいたします」

 誰にともなく呟いた松島のひとり言はそのまま空に消えていった。

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