第39話 官吏としての矜持
橘萩尾は北条棗芽たちが到着する前の深夜のうちに妹尾家を出ていた。
慣れない馬を走らせ東へ向かう。
月のない夜がこれほど暗く心許ないことを萩尾は忘れていた。
朝廷にいた頃は何度も夜中に御所の中を歩くことがあったのに。
満月の日もあれば今夜のような朔月の夜もあったはずだが、妹尾家に暮らすようになってからというもの、外に出ることはほとんどなかったので気に留めることもなかった。
(そういえばあの夜も朔月だったな)
萩尾は馬を走らせながら遠い昔の記憶に想いを馳せた。
それは雪が降り始めたある初冬の夜のことだった。
萩尾がまだ朝廷で弾正尹の職についていた頃のことである。
弾正台を出た萩尾は月のない空を見上げた。
散らつく雪が見上げる彼の顔にひとつ、ふたつと落ちてくる。
それは徐々に数を増していた。
(これはもしかしたら、積もるかもしれないな)
そんなことをぼんやりと思いながら萩尾は中務省へ向かった。
夜分にそこへ向かったのには理由があった。
萩尾には話をしたい目当ての人物がいた。
とても多忙で日頃は無駄話のひとつもできない相手で、今宵も深夜までひとり残って仕事をしているであろうことは容易に想像がついた。
小雪の中、日頃は多くの官吏が行き交うところを歩いても夜とあってすれ違う官吏は誰もいない。
静まり返った中務省の建物を入ると、案の定、目当ての人物がいた。
行燈の明かりを頼りに誰もいない部屋でひとり、黙々と仕事をしている。
萩尾は近づくとその相手に声をかけた。
「相変わらず、仕事熱心だな。あまり無理をするなよ」
顔を上げた相手——山科槐珠は目を瞬かせて唖然としていた。
無理もない。
人が訪ねてくるような時刻ではないのだ。
「驚いた……このような時分にどうなさいました、萩尾様?」
「少し話があってな」
「話、でございますか」
まだ要領を得ない山科は訝しみながらもそれまで処理していたものを中断して筆を置いた。
萩尾に腰掛けるよう促す。
文机を挟んで向かいに膝を折った萩尾は言った。
「こんな時分まで居残りしなければならないほど仕事が山積みなのか」
「みな、家庭がありますので帰したまでのこと。幸か不幸か私は独り身ですので帰りを待つ者もおりませぬので」
山科は皮肉混じりに答えた。
半分は真実なのだろうが、それだけではないことを弾正尹である萩尾は知っていた。
凌霄から突然に弾正台へ異動してからどのくらいの刻が経っただろうか。
萩尾は今の職に就いて初めて凌霄の意図するところを知った。
近年の朝廷は腐りに腐っている。
賄賂が横行しやる気のない官吏が増える中、真面目に務める官吏は何の報いもなく負担だけが増えている。
萩尾は、凌霄がそんな朝廷の改革をしようとひとりで戦っていると知ったのだった。
何とか力になろうともがいているがまだ結果はついてきていない。
目の前にいる山科も報われないひとりである。
本人はこの現状をどう思っているのか、1度訊いてみたいと思っていた萩尾は率直に訊ねた。
「山科、最近の朝廷をどう思う?」
「……あまりいいとは言えませぬ」
「例えば?」
「能力ではなく家格を重んじすぎるがゆえ、優秀な官吏というのはとても少ない。いくら家格が高くても、遊び呆けることばかりを考えるようでは役に立ちませぬ。鳳仙陛下の時代から続く不正がなくならないのはそのせいだと思いますが……まあ、そんなことは萩尾様が1番よくわかっておいででしょう。私の意見など参考になさるまでもないのでは?」
「そうだな、まさにそなたの言う通り。それを凌霄陛下が正そうとしているがまだ道半ばといったところなのは否定できぬ」
「おわかりなのでしたらお訊ねになるまでもないでしょう。加えて申し上げるならこのままでは優秀な官吏も次々と朝廷を去っていくかもしれませぬ。彼らを失えばどこかで朝廷も機能しなくなるでしょう」
「……あぁ、耳が痛い。そなたのように優秀な官吏がまだこんなところで燻っているのもそのせいであるしな」
「私のことはお構いなく。これでも今の仕事に満足しております。ところで、こんなくだらない話をするためにあなたはここへいらしたのですか」
歯に衣着せぬ物言いは昔から変わらない。
萩尾と山科は長い間、ともに朝廷に身を置いてきた同志なだけに山科は思いの丈を全て萩尾にぶつけているようだった。
たとえそれが半ば八つ当たりだったとしても、萩尾にとっては嬉しいことだった。
「いや、そうではない。話とは別のことだ。まだ役者が揃っておらぬので待っているところだ。そろそろ参る頃だと思うのだが」
萩尾がそう言うとまるで図ったかのように待ち人が現れた。
「いやぁ、これは積もりますな。まだ冬になってもいないというのに夜とはいえ雪に降られるとは思っておりませんでした」
頭や肩に乗った雪を払いながら入ってきたのは鳶尾誠だった。
面食らっている山科、眉尻を下げる萩尾と視線が合うと鳶尾は瞬きした。
「おや、何がおかしなことを申しましたかな」
「いや。そなたが来るのを待っていた」
山科はあからさまにため息をつき、頭を抱えた。
山科と鳶尾はふたりが朝廷に勤め始めた頃から同じ中務省で文机を並べていた仲だと言うが、性格はまるで正反対。
山科が厳格で生真面目な忠犬だとすると、鳶尾は人をばかして煙に巻く狸のようなところがある。
宮内省にいた萩尾が最初に知り合ったのは山科だった。
よく書簡を持って内裏に現れたことで自然と言葉を交わすようになった。
その山科と対をなして中務省の優秀な官吏として有名だった鳶尾と知り合うのに時間はかからなかった。
今ではふたりが萩尾にとってこの朝廷で最も信頼できる官吏となっている。
萩尾が促すと、鳶尾は山科の隣に腰を下ろした。
山科は一層訝しげに萩尾を見た。
「萩尾様、これはどういうことでしょうか。鳶尾は弾正台に異動されたあなたの代わりに宮内省へ異動したはず。それがなぜここに?」
「山科、そんなに毛嫌いしなくてもいいではないか。これでもわたくしは元中務省の官吏なのだぞ? たまに古巣に顔を出したとて、邪魔にされる筋合いはない」
「鳶尾、私は邪魔になどしておらぬ。ただ——」
「ふたりとも止めぬか。山科、鳶尾は私がここへ呼び立てたのだ」
やっと言い合いをやめたふたりだったが納得はしていないようだった。
萩尾は咳払いをひとつすると本題に入った。
「ふたりには大事な話がある」
それまでいがみ合っていたふたりは居住まいを正した。
神妙に言う萩尾にただならぬ雰囲気を感じ取っていた。
「私は近々朝廷を去ろうと思う」
他に誰もいないことはわかっているが、自然と声も小さくなる。
山科と鳶尾は息を呑みながらも黙って萩尾の話に耳を傾けた。
「西の方に、この朝廷に反旗を翻そうとするきらいがある。私はそれを探ろうと思う」
すると鳶尾が身を乗り出した。
「それは間者になる、ということですか」
「まあ、そうとも言う」
平然と答えた萩尾に反論したのは山科だった。
「何も萩尾様が自ら間者にならずとも、そういったことを生業とする者を探せば良いではありませぬか」
「そうです、萩尾様」
珍しく鳶尾も同調する。
「山科が言うとおり今のままでは朝廷は長く持たないだろう。そのような弱ったところに反旗を翻すような輩が現れたらどうなる?」
「…………」
「朝廷の中は凌霄陛下が少しずつ改革をなさっている。家格の高くない茶人である風早橄欖を重宝するのも、女中上りの芙蓉様を奥に置いていらっしゃるのも陛下の考えあってのこと。だから私は外に潜む見えない敵に立ち向かうつもりだ」
ふたりは沈黙した。
当然の反応だろう、と萩尾は思った。
朝廷のために身を粉にして働くふたりを置き去りにして、一線を退こうと言うのだ。
簡単に受け入れてもらえないことは百も承知である。
だが萩尾にも譲れない想いがあるのだ。
改革を進める凌霄がいなければ、朝廷は今よりももっと腐敗していく、萩尾はそう考えていた。
凌霄のために朝廷に身を置いているようなものなのに彼の側から離され、畑違いの部署に異動した当初は直接、凌霄に不満をぶつけたこともあった。
だが、凌霄が萩尾に弾正台への異動を命じたのは、家格が重視され世襲が続くことで朝廷が腐敗していると考えたからだと後になって理解した。
だから友人として臣下として信頼する帝の改革を何としても推し進めなければならない。
萩尾にとっては凌霄の邪魔になる者が存在していること自体が許せないのだった。
「……それで、私たちは何をすればよろしいのですか」
諦めたのか、ため息をつくと山科は萩尾をまっすぐ見つめた。
「山科、そんなに簡単に——」
かぶりつく勢いの鳶尾を山科は軽く手で制した。
「騒いだところでどうしようもない。これは萩尾様がお決めになったことだ。それなら私はこの朝廷で萩尾様のなさることを支えるだけのこと」
「それは、確かにそうだが……」
「ところで萩尾様。このこと、帝にはお話になったのですよね?」
さすがは山科。
ものわかりがいいだけでなく、釘を刺すことも忘れていない。
萩尾は言った。
「突然、姿を眩ましては騒ぎになるだろうから文を残していくつもりだ。西で落ち着いたらそなたらにも文を出す」
「はぁ……。帝もお気の毒に。ちゃんと事情を説明なさるのでしょうな?」
鳶尾の嘆きに萩尾は失笑した。
「説明? どう説明すると言うのだ。陛下を狙う見えない輩を追って朝廷を離れますと言うのか? 力ずくで止められるのが目に見えているではないか。私は地位や名誉には興味がない。今、私がすべきことをするだけだ」
信頼できる官吏仲間のふたりに事情を打ち明けた後、何日もしないうちに萩尾は朝廷を去った。
直接、説明することもなく文を残しただけだったが、凌霄は不思議と後を追ってこなかった。
あれから山科とは何度か文のやり取りをしてきた。
橄欖の事件が起こり、凌霄が死にかけた時もそうだった。
そのおかげで凌霄の子を保護することができたのだ。
京へ上るのはあの雪の日以来である。
山科へは現右大臣に助けを乞う文を渡すよう託したが、自ら京へ戻ることはあえてしたためなかった。
驚かせようと思ったわけではなく、この命がどうなるかわからないからだ。
どんな理由があったとしても凌霄の子たちに手を出すことは絶対に許さない。
もしもの時は身を挺して子どもたちを守る——萩尾はそう改めて決意しながら夜道を駆け抜けた。




