第38話 複雑な心境
紅葉が静かに襖を開けると布団から半身を起こして呆然とする百合と目が合った。
「あっ、やっぱりここにいたのね」
紅葉はそう呟いた。
輪廻の華は梓の部屋にいるのではないかと当たりをつけて移動した紅葉と棗芽は難なく百合を見つけたのだった。
室内に入ろうとすると襖の前に梓が伏しているのが目に入った。
どうやら寝落ちしているらしい。
百合と障子の間には倒れ込むように寝ている敦盛も見える。
紅葉は棗芽を見張り役として部屋の外に残して室内に足を踏み入れた。
百合の枕元に膝をつくと声を潜めて言った。
「あなた、輪廻の華でしょ?」
硬直した百合を見て問い方の間違いに気づいた紅葉はもう一度やり直した。
「ごめんなさい、間違った。あたしは紅葉。あなた、九条月華の奥方でしょ?」
「……主人をご存じなのですか」
「あたしはよく知らないけど、あたしと一緒に行動してる人があなたを助けに来たのよ。あたしはそれを手伝ってるだけ。立って歩けそう?」
「…………」
百合は訝しんで躊躇していたが紅葉が促すと黙ってそれに従った。
敦盛や梓を起こさないように百合を支えながらゆっくりと動き出す。
体を支えていないと自立できないのではないかと思うほど、百合の動きは頼りなかった。
1歩ずつ足を動かし部屋の外へ出ると紅葉はそっと襖を後ろ手に閉めた。
そこで初めて紅葉は生きた心地を取り戻した。
梓ならまだしも敦盛に見つかれば絶対に百合を部屋から連れ出すことはできない。
おまけに紅葉が自らの足で邸に戻ったことが三公に筒抜けになってしまう。
事情はわからなかったが運良く敦盛は深く寝入ってくれていたため、なんとか見つからずに百合を連れ出すことができたが、呼吸が止まるほどの緊張感を持っていたのは言うまでもなかった。
部屋の外で待ち構えていた棗芽は、支えられていないと立っていることもできない百合の様子に顔をしかめた。
「百合殿ですね? ずいぶん具合が悪そうですが大丈夫なのですか」
「………………」
警戒して何も答えようとしない百合に棗芽は苦笑した。
「不躾すぎましたね」
「……あなたたちは何者?」
「こんな形で自己紹介するのは不本意ですが、致し方ない。私は北条棗芽といいます」
「北、条……?」
「あなたにとっては北条鬼灯の弟と名乗った方が身近に感じていただけるかもしれませんね。兄が月華を鎌倉に連れてきて以来、彼のことは弟のように可愛がってきた者です」
「そう、なのですか。鬼灯様の…」
「ところで、ここがどこなのかわかっていますか」
「備中国ではないのですか? 私を連れてきた武士の方がそう言っていました」
俯きながら答える百合はとても疲れているように見えた。
吹けば飛ぶとはまさにこのような状態を指すのかもしれない。
「本当に大丈夫なのですか。この邸で何かされませんでしたか、例えば拷問とか」
あまりにも直球に訊く棗芽に紅葉は目を剥いた。
もう少し訊き方というものがあるだろうに。
だが百合は全く気にしていなかった。
「具合が悪いのは、ここに来る前からのことで……」
目を伏せた百合はまもなく意識を失い力なく膝から崩れ落ちた。
床に倒れそうになるのを紅葉と棗芽が両脇から支えた。
「……これは急いだ方がいいかもしれませんね」
棗芽は背中に背負う太刀を紅葉に預けると代わりに百合を引き受けた。
太刀がなくなり空いた背中に百合を背負う。
「紅葉、その太刀、少し重いですが預けていいですか? この人を抱えているよりはましでしょう」
「重さはなんてことないけど……いいの?」
「何がですか?」
「だって、これお兄さんの形見でしょ? それに武士にとって刀は命じゃない。そんな大事なものをあたしなんかに預けて……」
「必要になったら返してもらいますよ。あげたわけじゃありませんからね」
「あ、当たり前じゃないっ」
紅葉は預かった棗芽の太刀を強く抱きしめた。
棗芽の背中と接していた部分からほんのりと温もりを感じる。
命を預けるほど信頼してくれている。
そう思うと紅葉は嬉しさで頬が紅潮しそうになるのを隠すのに必死だった。
一方棗芽は、力なく背中にもたれかかる百合の体を背負い直し、自然とため息が出た。
まさかここまで百合が疲弊しているとは思っていなかったのである。
棗芽はこれから起こるであろうことを覚悟しなければならなかった。
無事に百合を連れ出すだけでなく目の前にいる紅葉も守りながら、場合によっては妹尾家の者を相手に戦わなければならないのだ。
ふたりを守りながらとなると少し分が悪い。
「さあ、長居は無用です。急ぎましょう」
「棗芽、先刻急いだ方がいいって言ってたけど、どういうこと?」
「白檀殿が言っていました。百合殿が使う異能は使えば使うほど命を削るのだそうです」
「え? そうなの!?」
「ええ。彼女がこれまでどれほど異能を使ってきたのかもわかりませんし、どれほど使えば影響があるのかもわかりませんが、この生気のない様子はまさしくそのせいなのではないかと思います。早く白檀殿のところへ行かないと」
「待って。どうしてそこで月華じゃなく白檀様のところなの?」
「白檀殿は彼女の持つ異能を消すためにここを出たのです。彼は紅葉の兄が三公とやらに命じられて百合殿をここへ連れてこようとしていることを知っていました。でも異能そのものがなくなってしまえばもう追わなくて済むようになると考えているようです」
「白檀様なら異能を消せるっていうこと?」
「彼なら、ということなのかどうかはわかりません。以前、彼に異能を消す方法が書かれている書を見せてもらったことがあるのですが、まさかここまで関わることになるとはその時は思っていなかったので、ちゃんと目を通さなかったのです」
なんとかして百合を白檀に託したいと思っていると棗芽の脳裏に不意に、後を追うと言った雪柊の顔がよぎった。
無敵の師匠の顔を思い浮かべると自然と笑みが溢れる。
ひょっとしたらつらっと鬼灯を巻き込んで現れるかもしれない。
悪態を付き合う彼らの様子が目に浮かび、思わず声がこぼれそうになった。
「何よ、にやにやして。この状況でよく笑っていられるわね」
「いや、すみません。心強い味方のことを思い出したものだからつい……」
意味不明な笑みをこぼす棗芽を無視して紅葉は意識を手放した百合の顔をじっと見つめた。
「棗芽」
「はい?」
「もしこの先、この人を連れ出す途中で誰かに見つかった時には、遠慮なくあたしを置いて行って。もちろん、この預かった刀はちゃんと返すから」
「…………」
棗芽が絶句することなど構わず紅葉は続けた。
「あたしたちを守りながら邸を出るなんて、いくら棗芽が腕の立つ人だとしても簡単なことじゃないのはあたしにだってわかる。だからもしもの時はあたしを置いていって」
「……本気で言っているのですか」
「じ、冗談でこんなこと言わないわよ。ここはあたしが長年暮らした場所なんだから何とかなるわ。それよりもこの人のことをちゃんと白檀様に——」
紅葉が言い終えないうちに腰をかがめた棗芽の顔が、吐息がかかるほど近くに迫っていた。
「君は私に守られていればいいと言ったはずだ。状況は君が心配するに及ばない。わかったなら2度とそんなことは言うな」
冷静に一言一句全身に刻み込むように告げるその口調だけで、十分に怒っているのだとわかる。
それはまるで切っ先を向けられているように鋭い。
紅葉は返す言葉もなく、太刀を強く抱きしめて何度も頷いた。
時折、棗芽はこうして本気で怒ることがある。
雨の中で雷に打たれそうになった時もそうだった。
本気で心配してくれていると思うと、怒られているのに不謹慎だと思いながらも自然と笑みが溢れた。
ふたりがそんなやり取りをしていると近くの廊下から妹尾家家臣たちの声が聞こえてきた。
棗芽はそれまでの鋭い刃のような雰囲気とは打って変わり、口の前に人差し指を立てた。
ふたりは互いに息を潜めた。
「いたか?」
「おや、おられぬ。一体どこへ行かれたのやら……」
「もう、邸の中にはおられぬのではないか?」
「……まさか、なぁ。だが見つけるまで菱盛様の怒号が止むことはなかろうて」
「勘弁してもらいたいものだ。ただでさえ謎の侵入者の後始末でてんてこ舞いだというのに」
近くを通り過ぎた家臣たちの会話はやがて聞こえなくなった。
紅葉は胸を撫で下ろした。
「誰かを探してるみたいね」
「そのようですね。まあ、邸内が混乱しているのならこちらには好都合です」
確かに混乱に乗じた方が隠れやすくなる。
紅葉も頷いた。
「それにしても、なんだか複雑だわ」
紅葉は小さくため息をつくと百合に視線を移し、眉尻を下げた。
「何がですか」
「だってこの人に何か思うところがあるわけじゃないけど、あたしはずっと三公や白檀様のために輪廻の華の動向を探っていたのよ? それが、今はこんなに近くにいて、しかもその異能を消してしまおうっていうんだから、あたしや山吹がこれまでしてきた苦労はなんだったのかって思っちゃうわよ」
「ではこのまま三公に突き出しますか。ここは彼らのお膝元です。ここで長年暮らしてきたあなたが差し出せば、妾にされる話もご破算になって元の鞘に戻れるかもしれませんよ? 君をここへ丸腰で置いていくことはできないが、手土産があるのなら話は別です。君の身の安全は一応保障されるでしょうから」
「冗談でしょ? あたしはもうこの邸を出た人間よ。この人を手土産に邸に戻ろうだなんてこれっぽっちも思ってないわ」
「ですが全てが片付いたら、あなたはどこへ行くのですか。ここ以外に帰る場所はないでしょうに」
「そう言えばそうね。それは考えてなかった。でもそうなったらまた紅蓮寺にお世話になろうかしら。それか……あなたのお邸で下働きとして雇ってもらうっていうのはどう?」
思いもかけない紅葉の問いに棗芽は面食らった。
何を言い出すのかと思えば、下働きさせて欲しい、とは。
そんな回答は想像もしていなかった。
「こう見えてあたし、なんでもできるんだから」
自慢げに言う紅葉に棗芽は思わず吹き出した。
悪くない。
いくら安全であっても遠い紅蓮寺にいられるよりは遥かに棗芽にとってはいろいろな意味で都合がいい。
彼は満面の笑みで言った。
「いいですよ」
そうしてふたりは意識のない百合を連れて妹尾邸脱出を開始した。




