第37話 消えた要人
近江国——琵琶湖の近くにある住み慣れた里は炎に包まれ、阿鼻叫喚が響く別世界になってしまった。
桐江は紅蓮の炎が龍の如く暴れまわり、家屋を次々と呑み込んでいく様を呆然と見ていた。
武装した何人もの男たちが逃げ惑う人々に向かい刀を振りかざす。
まさに地獄絵図である。
辺りには家屋が焼け焦げた臭いと、飛び散る血の臭いが混ざってむせ返るような淀んだ空気が漂っていた。
「なぜこんなことに……」
桐江は自分が置かれている状況を理解できずにいた。
つい先刻までこの里には長閑な刻が流れていたはずなのに、たった一刻ほどの間にまるで景色が変わってしまっている。
桐江が呆然と佇んでいると遠くから駆け寄ってくる人影が彼女を呼んだ。
「——桐江様っ!」
目の前に現れたのはともにこの里で暮らしてきた芙蓉だった。
異端として世間からつまはじきにされた異能持ちが集まるこの里にあって芙蓉は何の異能も持たない女子である。
目の前で繰り広げられる襲撃が異能者を狙っているのだとしたら芙蓉は巻き込まれるべきではない。
桐江は冷静にそんなことを思った。
「桐江様、早くここを離れましょう」
「……ここを離れる?」
「そうです。何があったのかはわかりませんが、あの狼藉を働いている男たちは朝廷から派遣されてきたと主張しているようです。このままでは私たちも殺されてしまいます」
芙蓉がそうまくし立てる最中にも遠くで誰かが襲撃される様子が、まるで物語のように桐江の瞳に映る。
「檜緒様と湖薄は幸いにも出かけたまま、まだ戻っておりません。御形様も皐英とともに修業に出たまま戻られていないのです」
「……そうね。確かに御形は出かけたまま戻っていないわね」
確かに彼の術があればこの現状を食い止めることができるのかもしれない。
桐江は自らの両手を見つめながら唸った。
人ならざる異能を持っていながら、こんな時には全く役に立たない。
「……わたしの異能は何の役にも立たないわね」
「そ、そんなことはありませんっ」
「……え?」
「残念ながらもう施しようがない者がたくさんおります。破壊された家屋の下敷きになった者も多いのです。少し身を隠して男たちが去ったら業解きの術が必要になります。桐江様の常闇の術が今は必要なのです」
「……業解き? そんな……そんな助からない人ばかりなの!?」
桐江の悲痛な叫びに芙蓉は頷くだけだった。
辺りを見回すと確かに家屋はみな崩れ屋根が地面に接触するほど近づいている。
そして勢いのある炎はどんどん崩れた家屋を呑み込んでいく。
ふたりが立つ場所の近くにある家屋からもみしみしという不気味な音が聞こえ始めていた。
「ですからとにかくまずはここから逃げましょう。御形様がお戻りなればこの騒ぎも沈めてくださいますっ」
そう言った芙蓉に腕を掴まれた時、桐江の目には芙蓉の背中に覆いかぶさるように後ろの家屋が倒れ込んでくる様子が目に入った。
「芙蓉、危ない——」
桐江は逆に芙蓉を家屋から遠ざけ、自分の立ち位置と咄嗟に入れ替えた。
御形、檜緒——。
桐江の想いは言葉にはならなかった。
百合が目を開けると、そこは見たこともない場所だった。
広さは九条邸にある華蘭庵と同じくらいだろうか。
畳が敷かれた6畳ほどの部屋で百合の左手には襖、右手には障子がある。
障子の外では時折、人の声や足音が聞こえるが部屋の中に入ってくるようなことはなかった。
(今のは……夢?)
体はだるく、起き上がるのも億劫に感じながら百合は何とか半身を起こした。
手元を見ると見たこともない夜着を着せられている。
どうやら布団に寝かされていたようで、襖と百合の間には寝落ちしたような女子が伏せっていた。
(誰なの……)
反対側に目を向けると障子との間に倒れ込むように寝ている男がいた。
男の顔には見覚えがある。
重苦しい頭を抱えながら百合の記憶は徐々に鮮明になっていった。
馬の背に乗せられていたことを思い出す。
男は備中国へ向かっていると言っていた。
男に馬に乗せられる直前、道の途中で月華が現れたことを覚えている。
楽しい祭りに出かけたはずだったのに、なぜこのようなことになってしまったのだろう。
百合は居たたまれない気持ちになった。
月華は百合の身を案じて祭りに行くことを反対していたのに、それを曲げさせたのは自分なのだ。
こうしてまんまと攫われてしまった。
今頃、月華はどうしているのだろうか。
娘の花織はどうしているのだろうか。
様々な想いが複雑に交差し、百合はひと粒の涙を零した。
するとその時、静かに襖が開かれた。
そこから現れたのは見知らぬ女子だった。
目が合った相手は声を潜めて言った。
「あ、やっぱりここにいたのね」
御形は行方がわからないという萩尾を探し、彼の部屋へ向かった。
萩尾の部屋は菱盛や御形の部屋から少し離れたところにあるが、邸の奥まった場所であることには変わりない。
御形は目的の部屋へ着くと一応声をかけた。
「萩尾」
返事はない。
「萩尾?」
もう1度声をかけたがそれでも返事はなかった。
返事がないのは寝ているからなのか、それとも不在なのか。
もし不在だとすれば、どこにいるのか。
菱盛には萩尾は裏切ったのでは、などと憶測で言ったがまさか本当に裏切ったのだろうか。
遠い昔、土砂崩れに巻き込まれて立ち往生していた菱盛を助けたことが縁で妹尾邸に暮らし始めた御形だが、その頃すでに萩尾はここにいた。
かつては公家として朝廷にいたというが、萩尾が何者なのか御形は知らない。
菱盛は萩尾からもたらされる京の情報を欲しがりそばに置いていたようだが、それ以外に何も取り柄がなさそうなあの男を近くに置いておくことに、御形は長年違和感を持っていた。
返事がないことに業を煮やした御形は一気に襖を開けた。
襖の木枠が打ち付けられる音が響く。
そして目の前に広がる光景に御形は言葉を失った。
そこはもぬけの殻だったのである。
殻どころかこれまでここに暮らしていたのかと疑わしくなるほど、そこには生活感がなかった。
荷物は何もなく、部屋はきれいに片付いている。
唯一置かれている文机の上には硯や筆さえもなかった。
御形が部屋の中に足を踏み入れると、彼を追ってきた妹尾家当主が続いて現れた。
「御形、萩尾はいたのか」
「いいえ、この通りです」
御形は振り返り、菱盛に室内が見えるよう立ち位置を変えた。
菱盛が絶句したのは言うまでもない。
その表情から察するに萩尾がいないとは思っていなかったのだろう。
「萩尾はどこへ行ったのだ!?」
「さて、どこに行ったのでしょうね」
「いや、そんなことよりここは本当に萩尾の部屋か?」
怒りに任せて言う菱盛とは対照的に御形はどこまでも冷静だった。
「どういう意味です?」
「どう、とは愚問なことよ。よく見ろ、御形。ここには何もないではないか。まさかと思うが萩尾はこのような何もないところで暮らしていたというのか」
「片付けて出て行ったのではありませんか」
「何!?」
「これだけ片付いているのだから当然でしょうが」
菱盛もこの状況に薄々感づいてはいるのだろうが認めたくないという感情が先立っているようだ。
彼は苦虫を嚙み潰したような表情を見せた。
姿がないのは事実なのだから、それを今責めたところで何にもならない。
大事なのはこれからどうするか、である。
「ところで菱盛、萩尾は一体何者なのかな」
「何者とは?」
「私がこの邸に来た時には萩尾はすでにいました。あの者とはどういった関係だったのかと気になって」
「どうということもない。詰まるところ、私はあの者の素性をよく知らぬ。ただ、行き倒れていたあやつを拾ったのは私の気まぐれだ」
「気まぐれで得体の知れない者を拾ったのか」
「素性を知らぬのは萩尾だけではない。私はお前の素性もよく知らぬ。知らぬがこれまで長い間、ともにこの邸で暮らしてきているではないか。それを何を今さら……それにお前を邸に置くべきだと言ったのは萩尾だ。あやつがいなければ御形をここに置くこともなかった」
御形は腕を組み、顎を撫でながら明後日の方向を見ていた。
菱盛の話を聞き流していたわけではなく、むしろ深く考えていた。
かつて朝廷の官吏をしていたという萩尾が、なぜか西国へ流れてきて妹尾菱盛に拾われた。
「……偶然なのだろうか」
「何だと?」
「いえ、菱盛に拾われるよう謀ったのではないかと思っただけです」
「謀った?」
「行き倒れていた理由は訊いたのですか」
「不正を働いて朝廷を追われていると言っていた。だから拾ったのだ。朝廷の事情に詳しく、それでいて追い出した朝廷をよく思っていないだろうと……」
「朝廷の間者でなければよいのですがね」
「…………」
御形は半信半疑だった。
もし何らかの理由で萩尾が朝廷の間者だった場合、その目的以上に、これまでそうと誰にも悟られずに平然と暮らしてきたことの方を恐ろしく思った。
御形は改めて閑散とした室内を見回す。
やはり急ごしらえで片付けたとは考えにくい。
だとすれば長年、何かの目的を持って潜伏していたと考えるのが自然である。
目的は風雅の君か。
風雅の君が邸を出たから萩尾も消えたのか。
いや、それはない。
萩尾は風雅の君が備中へ来る前からこの邸にいた。
では一体何を探っていたのか。
御形が考え込んでいると徐々に怒りを増してきた菱盛が声を荒げながら萩尾の部屋を出て行った。
「萩尾を探せっ! 隠れられるところは全て探すのだ」
菱盛の怒号で、ただでさえ謎の侵入者によって築かれた遺体の山を片付けに慌ただしくしている家臣たちが背筋を凍らせたのは言うまでもない。
だが御形はその様子を冷静に見ていた。
(無駄なことを……)
もう萩尾は邸内にはいない。
御形はそう確信していた。




