第35話 裏切りの気配
命の限り鳴く蝉の声が響く中、棗芽と紅葉は妹尾邸の敷地へ降り立った。
人の身長の2倍はあろうかという高さを、塀の横に立つ木の枝から伝って侵入した。
大の大人ふたり分の着地音はそれなりにしたはずだが、邸の者には誰にも気づかれていない。
蝉の声が隠してくれたというわけではなく、侵入者があることにも気づかないほど邸内は騒然としているのである。
「ずいぶんと不用心ですね」
簡単に侵入できたことを訝しんで棗芽が言った。
これほど楽だと逆におびき寄せる罠ではないのかと思わなくもない。
「棗芽が引き起こしたことじゃない。普段はこんなにうるさい邸じゃないわよ。確かに数えきれないほどの関係者がこの敷地の中に暮らしているけど、こんなことは初めて。これじゃ、まるで戦支度をしてるみたいだわ」
紅葉の言葉を聞いて棗芽は何度か瞬きを繰り返した。
言い得て妙である。
確かに戦支度のような騒然とした雰囲気がある。
武装した家臣たちもちらほら見受けられるし、家臣だけでなく女中たちも駆けずり回っている。
「これなら何とかなりそうね」
「輪廻の華がどこにいるのか、見当はついているのですか」
「それはわからないわ」
「……まるでわかっているかのような口ぶりでしたが、はったりですか」
棗芽が肩を落とす素振りを見せると紅葉は目くじらを立てて反論した。
「はったり!? 失礼ね。これでもあたしは長年、ここで暮らしてきたのよ。少なくともあなたよりは邸の構造に詳しいわ。どこに連れて行かれたのかはわからないけど、可能性のあるところをひとつずつ回るしかないでしょ。そのためにはこれだけ混乱した状況は好都合っていう意味で言ったの」
「そんなに怒らなくてもいいではないですか。ほんの冗談ですよ、冗談」
紅葉は小さくため息をつくと、そのまま降り立った敷地から1番近い建物の床下に潜り込んだ。
背中に背負う太刀を下ろし片手に握ると棗芽は慌てて彼女の後を追った。
立っていられるほどの高さもない空間でふたりは腰を屈めながら進んだ。
当然ながら、そこは暗闇が続いている。
湿気の籠った臭いが鼻に残るそこは、居心地のいい空間とはとても言えない。
棗芽はかつて白檀をこの邸から連れ出す際に、1度床下に降りたことを思い出した。
あの時はどこまでも暗闇が広がり、方向がわからなくなるような感覚を得た。
何の迷いもなく歩く紅葉を見て棗芽は不安を感じ始めていた。
「紅葉、この床下は行き止まりなのではないのですか」
「行き止まりだったらこんなところを行こうなんて思わないでしょ」
「ですが以前、床下に降りた時にはとても外に繋がっているように見えなかったのですか」
「え? ここに降りたことがあるの?」
「ええ。白檀殿が格子の部屋に閉じ込められていた時に、誰かが来たから隠れろといきなり床下に閉じ込められまして。あの人も何度か脱出する道を探したが見つからなかったと言っていました」
「白檀様がこんな床下を這いずり回ってたの!?」
「本人いわく、過去に何日も牢に入れられたことがあるからこういう土臭いじめっとした空間でも平気だそうですよ」
紅葉は一瞬、足を止めたがすぐにまた歩き始めた。
彼女は急に口を閉ざし、黙々と歩き始めた。
頭上からは複数人の足音が降り注ぐ。
ところどころ静かになったかと思うと再び足音の雨が降った。
やはり紅葉は方向をわかって目的地に向かっているようである。
右へ左へと紅葉が進むままに棗芽も黙って後を追った。
「……この辺りかな」
ふと足を止めた紅葉はその場に膝をついた。
棗芽が辺りを見回すと何となく見覚えのある場所に見える。
「ここは……」
「たぶん牢部屋の辺りよ」
「どうしてわかるのですか」
「あたし、子どもの頃はよくこの床下で遊んでたの。遊んでたというより、時折脱走を試みたと言ってもいいかも」
「遊び相手がいたのですか」
「遊び相手っていっても親しいようで親しかったわけではないかもね」
「…………?」
紅葉は天井を仰ぐと、何か所かをとんとんと軽く叩き出した。
何かを探しているらしい。
作業をしながら紅葉は続けた。
「大人ではない、年頃の近い子が何人かいてともに同じ刻を過ごしたこともあるけど、正直なところ、彼らのことをあたしはあまりよく知らないの。あたしがここへ来て少し経った頃に、皐英という年上の男の子が京へ行ってしまった。ここから出て行ってからは会ったこともないわ。後で陰陽師になって朝廷に勤めてるって聞いたけど。檜緒っていう女の子と湖薄っていう男の子が邸に住むようになったんだけど、数えるほどしか一緒に遊んだ記憶はないかな」
「仲が悪かったのですか」
「檜緒は少し変わった子で、突然癇癪を起すことがあって……湖薄は無表情な子だったけどいつも檜緒のお守りをしていてあたしたちとはほとんど慣れ合わなかった。だからあたしはいつも双子の兄の山吹と白檀様としか交流していなかったのよ。でもさすがに白檀様をこの床下に引き込むことはなかったわね。あんなことがあるとわかっていたなら、この床下の道をお教えしておくんだった」
紅葉はあたりを付けた場所に両手を当て、天井を持ち上げ始めた。
床下にいるから天井となるわけだが、持ち上げようとしているのは部屋の床板である。
その重さたるや、女子ひとりで持ち上げられるものではない。
すぐさま地面に刀を置くと棗芽も手伝った。
「それでその癇癪を起す娘と無表情な男はどうしたのですか」
「まだこの邸のどこかにいるんじゃない? 何をしているのかは知らないけど時々出かけては戻ってくる、不可解な動きをしてたわよ。まあ、他人のことは言えないわね。あたしだって白檀様の依頼を受けて時々、邸を抜け出しては何日も帰らないこともあったわけだし」
棗芽が床板の持ち上げを手伝うと、板はすぐに持ち上がった。
ふたりは顔を並べて少しの隙間から部屋の様子を窺う。
そこから見えたのは畳らしきものが敷き詰められた床だけで、その他は真っ暗で何も見えなかった。
1度持ち上げる手の力を緩めると床板は再び水平に戻った。
「何も見えませんでしたが……」
「何も見えないほど暗いからやっぱり牢部屋だと思うわ。でもここからじゃ侵入できないわね」
「なぜですか? 格子なら入口をつくってありますから、中には入れますよ」
棗芽は人ひとりが通れるほどの切り取りをしてあることを紅葉に改めて説明した。
あれからいくらも経っていない。
新しい格子に嵌め直されている可能性は低いだろう。
「だめよ。この牢部屋は菱盛様の部屋に近すぎる。見つかる可能性が高いわ」
「菱盛というのは確か三公の——」
「そうよ、三公のひとりで妹尾家の当主。とても厳しいしこの邸では絶大な権力を持っている。だから見つかったら家臣全員を総動員してあたしたちを追うでしょうね」
「それがわかっているのなら、なぜこの部屋を目指してきたのですか」
「ここに輪廻の華が閉じ込められてるかもって思ったの。でも外れね。もし輪廻の華がいるのなら行燈の明かりくらいはつけているはずよ。いくら窓のない部屋だからって真っ暗な中に置いておくわけないじゃない。あの人たちは輪廻の華に異能を使わせたいんだもの。そのつもりならもっと丁重に扱うはずだわ」
そう言って紅葉が次なる目的地を目指そうとした時、牢部屋の外で話す人の声が聞こえてきた。
ふたりはじっと耳を傾けた。
一方、床上——牢部屋の前では三公のうちのふたりが偶然、顔を突き合わせていた。
菱盛の部屋へ向かっていた御形が薄笑いを浮かべて言った。
「大変なことになりましたね、菱盛」
「笑いごとではない、御形」
「失敬。だが風雅の君もいなくなり、輪廻の華も捕らえられないとなるといよいよ計画崩れの様相をなしてきたのでは?」
「まだだ。風雅の君は敦盛が追っているし、山吹もまもなく輪廻の華を捕えるに違いない」
「そのふたりとも、まだ戻ってはいませんがね」
「……何たる言いぐさ。そなたは味方ではないのか!?」
「私は利害が一致するからここにいるだけのことですよ、菱盛。忘れましたか? 私は誰の味方でもない。それはあなたもわかっているはずでしょうに」
菱盛はいつまでも人を嘲笑うような御形の態度に辟易しながら、それでも気を持ち直して続けた。
「まあ、よい。結論を急ぐにはまだ早かろう。ところで萩尾はどうしたのだ」
「そういえば、昨日すれ違ったきり見かけていませんね」
「見かけていない? そうそう外に出るようなあやつでもなかろうに。どこへ行ったのだ」
「さあ。少し怯えているようにも見えましたから、部屋に籠っているのかもしれませんが……案外、裏切り者は萩尾かもしれませんよ」
「裏切り者?」
「これだけ鮮やかな手口であっさり風雅の君を奪われたのです。菱盛だっておかしいと思っているのでしょう? 本当に無関係の侵入者がそこの牢部屋から誰にも見つからずに風雅の君を連れ出すことができるのか。手引きした者がいたと考えるのが自然ではないか」
「…………」
「萩尾が風雅の君を牢部屋に入れることを反対していたのを覚えていますか。あの時から怪しいと思っていました。いや、宮中を追い出された皇子を引き取るべきだと主張した時から、何かがおかしかったのかもしれない。まあ、どれも推測に過ぎませんが。とりあえず、萩尾の部屋へは私が確認に参りましょう」
そう言って御形は立ち去った。
菱盛は棒立ちになった。
橘萩尾を拾ったのは菱盛自身である。
萩尾はそもそも何にも興味を示さない男だったが、風雅の君には異様に執着していた。
倒幕を目的とする菱盛。
朝廷や帝を排除することに執着している御形。
これらを達成した後に据えるのは皇家の血を引く風雅の君であると主張する萩尾。
仮に萩尾が裏切ったとするならその目的は何だろうか。
今の政権を支える朝廷と帝にはまだ何も変化がない。
加えて幕府も健在で、親幕派と言われる今の朝廷とは良好な関係を保っている。
風雅の君を逃がしたところで、彼を据える場所はないはずである。
それとも目的は他にあるのか。
考えれば考えるほど菱盛は疑心暗鬼になり、不安を抱えたまま御形の後を追った。
萩尾を探さなければならない、そう思った——。
床板越しでところどころ聞き取れなかったものの、棗芽と紅葉は互いの顔を見合わせた。
風雅の君を連れ出したのは三公とは全く関係ない棗芽であるが、その手口が鮮やかすぎたために妹尾家の中では裏切りの疑惑が湧いていた。
棗芽は深いため息をついた。
「どういうことでしょうか。あの人たちが三公と呼ばれる人たちですか」
「ええ。菱盛様と御形様よ。でも萩尾様が裏切ったかもってどういうこと?」
「実際にそうかどうかはわかりませんよ。私が白檀殿を連れ出した事実を知らない彼らが、不可能なことが起こったのは裏切り者の手引きがあったからだと決めつけて話しているのです。実際、その萩尾という人物が消えたのかどうかもまだわかりません。それより気になるのは——」
「輪廻の華よね」
「そうです。確かにあの武士が攫ったはずなのに、ここへ戻っていないということでしょうか」
菱盛も御形も、敦盛は戻っていないと認識しているのをふたりは耳にした。
彼らは百合を攫った敦盛を追って妹尾邸へ来たはずなのである。
「そんなはずないわ。あれだけ三公に忠誠を誓っている敦盛様なのよ? 興味本位で輪廻の華を攫うなんてありえない。絶対にこの邸にどこかにいるはずよ」
「ではどこに行ったのでしょうね」
「わからない。でもきっと何かあったんだわ。棗芽、先を急ぎましょう」
「まだこの床下を歩くつもりですか」
「他に見つからない方法がないんだから仕方がないでしょ?」
「次はどこへ?」
「まずはあたしの部屋よ。そこから床上に出ましょう」
まだこの迷路のような床下を這いずり回るのか。
紅葉の案内なしでは確実に迷子になったまま、ここで朽ち果てるような気がした棗芽は紅葉の言うままに後をついて行くしかなかった。




