第33話 かつての友人
朝から中務省は騒がしかった。
異動してきた鳶尾誠の話題で持ちきりだったからである。
さすが、かつて中務省にいたというだけあって仕事内容は説明しなくても要領を得ていたし、処理も速かった。
官吏たちの鳶尾に集まる視線は羨望と言ってもいいほどだった。
文を書かせれば流れるような美しい字が並び、それもまた若い官吏たちの目を惹きつけた。
鳶尾には最初の仕事として、ある書簡の写しを請け負った。
内容を読むこともなく、ただ文字を書き写していく。
「美しい字ですね、鳶尾殿。書家の家系でいらっしゃるのですか」
若い官吏のひとりが言った。
文を書き終え、筆を置いた鳶尾は声を上げて笑った。
「まさか。書の才能があればもっと違うことをしていたと思う。わたくしは官吏一徹。他に得意なこともござらぬ。これは長年、この仕事をしてきて身につけたもの。年の功とでもいうべきかな。そなたらもわたくしのように年老いてもなお国のため、帝のために精進すれば字などいくらでも整ってくるものだ」
謙遜しているというより本心から語っていると感じた若い官吏はまるで師を仰ぐかのようだった。
「さて、とりあえず書き終えたこちらの書簡はどちらかへ届けるものですかな」
「あ、はい。それは太政官に届けるものです」
「太政官か。それでどなた宛なのだろうか?」
鳶尾は墨が乾いたのを確認して丁寧に畳んだ。
内容は報告書のようだが異動してきたばかりの鳶尾にはいつ、何のことを指しているのかはわからずに書いたものである。
「右大臣様です。いつもは楓様が出向いてくださるのですが、今朝はあのように不調のようなので……」
李桜と文机を並べる楓に目配せすると、彼は時折体を揺らしながら居眠りをしていた。
「……楓様のあのような様子、滅多にないのですよ。いつも厳しい李桜様と我々の間に入って代わりにお叱りを受けてくださるのです。昨夜は何かあったのかもしれません。鳶尾殿、楓様に失望なさらないでくださいね」
「失望などと……わたくしも今出川楓殿のことは昔からよく知っている。そなたの言うとおり何かあったのだろう」
「ありがとうございます。では、太政官へは私が参りますね」
鳶尾の反応を嬉しそうにする若い官吏が立ち上がると、鳶尾はおもむろに立ち上がった。
「いや、そういうことであればわたくしが参ろう」
「え? よろしいのですか」
「構わぬ」
書きが上がったばかりの書簡を手に持ち、鳶尾は中務省を出ようとした。
出入り口で沓を履いていると、背後に気配を感じ鳶尾は振り返った。
そこには久しく見ていなかった友の顔があった。
「鳶尾、息災のようで何よりだ」
「山科……」
山科槐珠——長年、中務省に勤め、かつて鳶尾がいた時代から中務省を陰ながら支えている重鎮である。
決して目立つような行動はしないがそこにいるだけで周りに安心感を与える、まさに必要不可欠な人物だった。
鳶尾と同じような年回りで、彼よりも山科の方が幾分老けて見える。
相当な激務にさらされてきたせいなのだろう。
立ち姿にも長年の疲れがにじみ出ていた。
「お前があの方の求めに応じて宮内省へ異動してからというもの、ほとんど顔を合わせることはなかったが……」
「わたくしたちがあの方と繋がっていることが他人に知れると足元を掬われるからだ。だからそなたとは会わないようにしていた。あの方とはそなただけが連絡を取っていればよい。わたくしは陰ながらお役に立てればよいのだ」
沓を履き終えた鳶尾は胸を張って言い放った。
すると山科は懐から文を取り出した。
裏の署名を見た鳶尾は目を丸くする。
「山科、これはっ」
「太政官へ行くのだろう? 私からお渡しするよりもお前からお渡しした方がよいように思う」
「なぜだ」
「お前は右大臣様からの打診でここへ異動してきたはず。異動したばかりのお前ならば右大臣様へお声をおかけしても不審には思われぬかもしれぬ。あの方は私宛の文に何とか右大臣様のお力をお借りしたいと記された。少しでも疑われずにこの文を届けたいのだ」
切望する山科の意思を汲んで、鳶尾は受け取った文を大事そうに懐にしまって出かけた。
鳶尾がいなくなった室内が輪をかけて鳶尾の話題で盛り上がったのは言うまでもない。
突然現れた生き字引のような存在は若い官吏たちの心を掴んで離さなかった。
その様子を遠目に見ていた李桜はぼんやりと考えていた。
自らの仕事も山積みのため、相変わらず筆を走らせながら別のことを考えられるのは李桜の器用なところである。
「ねえ、楓。鳶尾はあんなに仕事ができるのにどうしてこれまでずっと宮内省にいたと思う?」
「……さて、なぜだろうな」
気のない返事が返ってきても李桜は問いを続けた。
「中務省にいたことがあるっていうことはやっぱりそれなりに若い頃から仕事ができる人だったってことだよね。山科とも一緒に仕事をしていたことがあるのかな。それなのにわざわざ宮内省なんて。しかもそんなに長い間、宮内省にいたのには何か理由があるんだろうか」
「……さあな。それは……本人に聞いてみないと、わからぬ」
返答が途切れ途切れになっていることを不審に思った李桜が隣を見やると、楓の目は閉じられ文机の前で腕を組んだまま首を左右に動かし、まるで舟を漕いでいるようだった。
(居眠り……!?)
瞬時に沸点を超え怒りの暴言を吐きそうになったが、李桜はじっとそれを堪えた。
冷却のための深呼吸をする。
冷静に考えれば昨夜の楓はいつものように紫苑と飲んだくれていてこうなったわけではないのだ。
見つかれば咎を受ける危険を犯して禁書を読み漁って、謎を解く鍵を探そうとしていたのだろう。
それを責めることはできない。
備中国に何があるのか、なぜ輪廻の華に執着しているのか、攫った百合をどうしようとしているのか、謎は謎のまま、何ひとつ解決していない。
李桜は居眠りをする楓をそっとしておくことにしたのだった。
九条邸を出た時華は御所へ到着すると朱雀門を潜って太政官には寄らず真っ先に内裏へ向かった。
邸に残してきた帝について事前に所在を連絡しているものの、事情を説明しておかなければならなかったからである。
それも、白椎が現れたことを伏せながら説明しなければならない。
どう誤魔化したものか、と悩んでいると建礼門の前で声をかけられた。
振り向くとそこには意外な人物が深々と頭を下げて立っていた。
「右大臣様、ご無沙汰しております」
声をかけてきたのは時華が古くから知っている官吏だった。
各省が人手不足なのはわかっていたが、とはいえ人事異動は簡単なものではない。
人を引き抜けば抜けた部署にも補充しなければならないからである。
しかし楓が怪我をしたこととは別に中務省の深刻な人手不足を懸念していた時華はある人物に異動を打診していた。
かつて中務省にいた経験があり、多くの知識と経験を持つ鳶尾誠、その人である。
時華は鳶尾の顔を見るなり目を見開いた。
「そなた……」
「この度、中務省へ異動いたしました」
顔を上げた鳶尾から書簡を受け取る。
「これは?」
「右大臣様宛でございます。太政官へお持ちしようとしていたのですが、内裏の方へ向かわれているのをお見かけしたものですから、声をおかけしてしまいました。お邪魔でしたでしょうか」
「いや、そんなことはない。内裏へは向かっていたが急ぎのようではないのでな」
時華は受け取った書簡を懐にしまった。
「そなた、よく異動の話を受けてくれたな。てっきり断られるかと思っていたが」
鳶尾は時華が朝廷に出仕し始めた頃、敏腕官吏として今の李桜や楓のように中務省でその腕を存分に発揮していたが、数年経って気がついた時にはなぜか宮内省へ異動していた。
それが誰の指示によるものなのかはわからなかった。
それ以来、ずっと宮内省に重鎮として根を張っていた鳶尾に目を付けた時華は断られることを覚悟で異動を打診したのだった。
「こんな老いぼれでも必要とされるのなら承るべきかと思いまして」
「老いぼれなどと謙遜するものではない。そなたはどんな若い官吏よりも早く正確に仕事をこなすことだろう。3人分くらいの働きはひとりでするのではないか?」
「はははっ。そんな化け物じみたことはございませぬが、お褒めいただき光栄にございます」
「中務省は若い官吏が多いゆえ、そなたのような経験豊富な官吏は貴重だ。ずっと宮内省に置いておくのは勿体無いと思っておったのだ。よく決心してくれた。これからも頼むぞ」
鳶尾が異動の打診を受けてくれたことを心から喜んで時華は彼の肩を叩いて労った。
軽く挨拶をかわしその場を立ち去ろうと背を向けた時、再び鳶尾に呼び止められた。
「右大臣様」
振り向くとそれまでとは全く違う表情をした真剣な眼差しの鳶尾が時華をじっと見据えていた。
「…………?」
「実はお渡ししたいものがもうひとつございます」
おもむろに懐へ手を入れると鳶尾は文を取り出した。
時華は恭しく差し出された文を受け取る。
「これは……?」
「右大臣様宛の文なのですが、さる方からお預かりしたものです。すぐにお渡ししなければと思っていた次第でございます」
時華は受け取った文の裏書を確認した。
見覚えがあるような、ないようなすぐには思い出せない名が書かれている。
誰なのかと問いただそうとすると、鳶尾は深々と首を垂れて背を向けていった。
何か意味深長なものを感じた時華は急いで中を確認しようとその場で文を広げた。
すると時華の表情はみるみるうちに変貌していった。
内容は手短に書かれてはいたが、想像もつかないようなものだった。
差出人について問いただそうと時華が顔を上げた時にはもうすでに鳶尾の姿はどこにも見当たらなかった。
時華はもう1度文の裏書を確認する。
そこには流麗な文字で『橘萩尾』と記されてあった。




