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第32話 かつての敏腕官吏、登場

 中務省なかつかさしょうに戻った李桜りおうは終始、首を傾げていた。

 室内にはすでに多くの官吏が出仕しており、室内は活気に溢れている。

 中に入った李桜は1番奥にある自分の文机についた。

 相変わらず書簡が山積みにやっており、全てが未処理か処理中となっている。

 ふと隣のかえでの文机をみると、整然としていた。

 処理したのは楓でなく、彼の代役として右大臣から臨時の官吏として派遣されてきた月華つきはなが処理したものである。

 当然のことながらそこに月華の姿はない。

 すべてが片付くまでここでその姿を見ることはないだろう。

 紫苑しおん杏弥きょうやとともに図書寮ずしょりょうの書庫へ禁書を戻しに行ったはずだが、まだ戻っていないようだった。

 李桜は懐に入れた禁書のことを思い出し、胸を押さえた。

 持ち出し禁止の禁書を持ち出したことが周りに知られれば大事になることはわかっている。

 だが不本意とはいえ受け取ってしまった事実は変えようもない。

 あとは開き直ってこの禁書を役立てる方法を考えるだけである。

 李桜は周囲を見回した。

 官吏たちは自分の仕事に集中していて誰も他人の動向を気にしていない。

 文机に背を向けると、李桜は懐から2冊の禁書を取り出した。

 そして誰にもわからないように書簡の山に挟み込む。

 これまでこの山が崩れることを恐れてか、誰にも触られたことのない聖域である。

 ここに隠しておけば誰にも見つからない自信はあった。

 何か重罪を犯しているような心地がした李桜は額に滲む汗を無意識に拭った。

中務少輔なかうかさしょうゆう西園寺李桜さいおんじりおう様とお見受けしますが」

 李桜がすぐさま顔を上げると、そこには見知らぬ人物が立っていた。

 正確にいえば、見たことはあるかもしれないが知り合いではなかった。

 この朝廷には数えられないほどの官吏が日夜勤めを果たしているのだ。

 知り合いの方が少ないのは当然のことである。

 禁書を隠すことに集中していた李桜は一瞬、あらゆる疑念が頭を駆け巡った。

 禁書を隠しているところを見られたのではないか。

 もしや、早くも禁書を持ち出したことが知れてしまったのだろうか。

 あの紫苑のすることだから抜け目があることは十分考えられる。

 楓がまだ戻っていないのは禁書を持ち出したところを見つかり、咎められているからなのか。

 疑えば疑うほど限りがなく、拭ったはずの額から再び汗が噴き出るほどに焦りを感じた。

「額から汗が流れているが、大丈夫ですかな」

 硬直したままよく相手のことを見てすらいなかった李桜は声をかけられて初めて我に返った。

 目前に立っていたのは朝服を着た白髪混じりの男で歳は50近いのではないかと思われる人物だった。

 歳の割には顔の皺も少なく、腰も曲がってはいない。

 長年、朝廷に仕えてきた重鎮のような存在であることはひと目でわかった。

「……えっと」

 普段の李桜なら「誰?」などとぶっきらぼうに訊ねるところだが、今の彼にはそんな余裕はなかった。

「夏とはいえまだ朝は涼しいというのに、そんなに汗を掻いていらっしゃるとは、どこかお悪いのではなかろうか。人手不足で大変なのもわかりますが、休息も大事な仕事ですぞ、少輔」

「…………」

「申し遅れました。わたくしは宮内省から異動して参りました鳶尾とびおと申します。しかし、ここは昔と変わりませんなぁ」

「……何だって?」

「わたくしもかつては中務省におりましたものですから、つい懐かしく」

 鳶尾は喜びを満面に浮かべ、目を細めた。

 それはまるで懐かしい友にでも会うかのような表情だった。

「いや、そこじゃなくて……今、異動って言った?」

「はい。ご存じありませんでしたか? 少し前ですが異動を打診されまして。何せ朝廷一多忙という中務省ですからなぁ。このような老ぼれに務まるのか悩んでおったのですが、せっかくの機会ですのでここで骨を埋めるつもりで参りました。以後、お見知り置きを」

 鳶尾は官吏らしく深々と頭を下げた。

 李桜は唖然とした。

 確かに負傷した楓を休ませるように右大臣と弾正尹だんじょういんに打診された際、優秀な官吏を代わりに派遣してくれるつもりはあるのかと問い詰めた記憶はあるが、その代わりに月華を寄越したのではなかったのか。

 鳶尾は言うことだけ言うと、その場を立ち去ろうとする。

 その背中に声をかけようとした時、図書寮から戻ってきたと思しき楓が目の下にくまを作って現れた。

 李桜の前を辞していった鳶尾は出入口付近へ向かった。

 鳶尾と楓は見知った仲なのか、何やら言葉を交わしているようだが周りが騒がしくてよく聞こえない。

 まもなく楓は鳶尾と別れ、李桜の隣にある文机に着いた。

 二日酔いの朝と言わんばかりに青白い顔をした楓は小さく息を吐いた。

「あんた、そんな青い顔して大丈夫なの?」

 事情を知っていながら辛辣な言葉をかける李桜だったが、さすがに付き合いの長い楓はそんな少輔の詰問を気にも止めていなかった。

「李桜、遅くなって済まぬ。ちょっと所用を済ませてきたのでな」

「知ってるよ。紫苑たちと夜通し読み漁ってたんでしょ、あれを」

 禁書とは口が裂けても言えないが「あれ」と言っただけで何を指しているのか楓にはわかったようだった。

 眠そうな彼の目が一瞬、大きく見開かれた。

 するとすぐに肩を落としてため息をつく。

「……知っていたのか」

「偶然、あんたたちが兵部省から大量の書物を抱えて出てくるのを見かけたんだよ。紫苑に詰め寄ったら悪びれる風もなく正直に答えた」

 李桜はあえて禁書を預かったことは言わなかった。

 楓のことだからすでに紫苑とともに目を通しているのだろうと想像がついたからである。

「昨夜、六波羅ろくはらを出てからともに刑部少輔ぎょうぶしょうゆうを連れて御所へ来たのだ。まさか紫苑殿が私と同じことを考えているとは思わなかったが、互いに利は一致していたゆえ、作業を分担した。しかし……久しぶりの徹夜はやはり体に堪えるな。悠蘭ゆうらん殿はしょっちゅう徹夜しているというが、よくやっているものだ」

 楓は肩を押さえ、腕を大きく回しながら言った。

 まる1日、休息すら取っていないのだ。

 その状態で今日もまともに働こうと言うのだから、紫苑に言わせればある意味、中毒と言えるだろう。

 朝廷には2種類の官吏が存在する。

 一方は、身を粉にして働く志を持った官吏。

 もう一方は家のため、誰かに強制されて、など仕方なく務めに就く官吏である。

 李桜の周りにはやる気のない官吏はいないが、そういった者たちが朝廷内にはいることもまた事実である。

 帝も身を粉にして伏せっているのだろうか。

 李桜はふと、先刻内裏で「帝は休んでおられてお出ましにはならない」と言われたことを思い出した。

 夜は明けたというのに、まだ休んでいるというのだろうか。

 幾分不審に思いながら戻ってきたところだったのだ。

「ところで楓。先刻さっき、入ってきた時にすれ違ったあの人——」

「ああ、鳶尾殿のことか?」

「やっぱり……知ってるの?」

「さほど親しいわけではないが、先帝の時代から宮内省におられるらしい。私は時々、各省に書簡を届けることがあるゆえ、見知らぬ御仁ではなかったのでな。中務省ここへ異動になったそうだ」

「そうらしいね」

「李桜、聞いていなかったのか」

「知るわけないよ。昨日だって忙しかったんだし。もしかしたらこの山のどこかに通達が紛れているかもしれないけどね」

 李桜は苦笑しながら自らの文机に積まれた書簡の山を指さした。

「何で突然、異動してくることになったのかな」

「それは李桜が、人手不足だと大っぴらに憤慨していたからではないのか。ある意味、右大臣様や弾正尹様の温情かもしれぬな」

「温情?」

「どの部署も人手不足だと聞くではないか。優先的に補充してくださったのだとしたら、温情と言えるのではないか? 鳶尾殿は相当なやり手だとの噂を耳にしたことがある。かつてはこの中務省にもおられたようだから官吏としては優秀な方なのではないかと思う。少なくとも志もなく暇つぶしさながらに出仕してくるような腰掛け官吏ではないだろう」

「そんなやつなら蹴飛ばして追い出すけどね」

 冗談ではなく、本気で言っているあたりが李桜らしい。

 中務少輔に睨まれては今の朝廷では居場所がなくなると言わしめる所以であった。

「そうか……。そんなに長く宮内省にいたなら帝のことも詳しいのかな」

「帝がどうかしたのか?」

「今朝、あんたたちが図書寮に行ってる間に僕は内裏に行ってたんだよ。でも帝へのお目通りは叶わなかった」

「お忙しいのではないか」

「休んでおられるって言われたけど、どうも変だと思うんだよね」

「変?」

「だってもう朝だよ? こんな時分まで休んでるってことはどこか悪いのかもしれないじゃないか」

「……帝にだって休息は必要なのではないか?」

 楓は大きく口を開けて欠伸をした。

 そんな楓の様子に、他の官吏に示しがつかないだの、休息が必要なのは楓の方だだの、李桜はしばらくとくとくと説教したが、楓は終始上の空だった。

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