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第30話 官吏たちの朝

 百合ゆりの異能について知りうるすべてを打ち明けた九条悠蘭くじょうゆうらんは不甲斐ない自分に辟易しながら邸を出た。

 あんなにも妻の菊夏きっかが疎外感を感じていたとは知らなかった。

 そこまで追い詰めてさせてしまった責任を感じ、悠蘭は肩を落とした。

 ひと通り説明した後、菊夏は納得したようだったがどっと疲れが出たのか、あっという間に眠りに落ちてしまった。

 とても眠る気にはなれなかった悠蘭は、妻をひとり邸に残していくことに後ろめたさを感じたものの夜明けを待って出仕することにした。

 東の空は薄明るくなり、東雲の光が差していた。

 出仕するには相当早いが、普段から徹夜することが多い悠蘭にとって珍しい景色ではない。

 小さく息を吐き、御所の入口にある朱雀門を潜った。

 ここからは官吏としての自分にならなければならない。

 家庭で起こる個人的な感情を持ち込むことはできない。

 ある意味、官吏の仮面を被るようなものかもしれない。

 そう考えると、右大臣である父は確かに朝廷では仮面を被っていると言える。

 家に帰れば仮面をかけ替えて九条家当主の顔になり、時に父の顔になる。

 長年、官吏として朝廷に身を置いているとはいえ父の仮面のかけ替えは実に熟練されていると思う。

 そこまで器用にはできそうにない、悠蘭は再び自分の情けなさに気落ちしたのだった。

「悠蘭」

 門を潜り少し歩いたところで悠蘭は後ろから声をかけられ振り向いた。

 そこにはよく見知った人物が、げっそりとした顔で立っていた。

李桜りおうさん、どうしたんですかその顔」

 やつれた西園寺李桜さいおんじりおうは悠蘭と肩を並べるとふたりは行くべき場所に向かって歩き出した。

「あんただって疲れた顔してるよ」

「これはいつものことですよ。そんなことより、何かあったんですか」

「何かって、昨日の今日じゃすっきりしてるわけないじゃないか」

 李桜は平然としている悠蘭を見て怪訝な顔を向けた。

「あんた、百合殿のこと、心配じゃないの?」

「し、心配に決まってるじゃないですか。でも、それより大変な問題があったと言いますか……」

 悠蘭は菊夏に百合の異能について打ち明けたことを思い出した。

 菊夏を泣かせてしまったことを思い出すだけで気が重くなる。

 他人にとっては夫婦喧嘩くらいに思われるものかもしれないが、悠蘭の中ではそんな簡単な話ではなかった。

 李桜の言うとおり昨日はあまりにいろいろなことがあり過ぎて、気持ちの整理が追いついていない。

 そう思った時、悠蘭は大事なことを忘れていることに気がついた。

 確かに菊夏のことも悠蘭にとっては大変な事件だったが、それよりももっと重要なことがあったのを思い出した彼は、急に立ち止まると李桜の腕を掴んだ。

「そう、そうです! 昨夜は大変なことがあったんですよ」

「はぁ!? だから百合殿が攫われて気を失った月華つきはな雪柊せっしゅう様に担がれて六波羅ろくはらに来たことを言ってるんでしょ?」

「違うんですっ」

「な、何が違うの」

 噛みつくような勢いで迫ってくる悠蘭にさすがの李桜も1歩後ろに足を引いた。

「実は六波羅を出て邸に戻った後、少しときが経ってから鬼灯きとう様が九条邸うちにいらしたんですよ」

「鬼灯様が? どうして? あの雪柊様の感じじゃ百合殿を追いかける手伝いをさせられそうになっていたじゃないか」

「それが、なぜか弾正尹だんじょういん様を抱えてきて父上に預けたようでした。その足で兄上たちのところへ向かわれると思ってついて行こうとしたんです。でも足手まといだと言われて……」

「へぇ……。鬼灯様が月華たちを追うのはわかるとして、どうして弾正尹様を九条邸に預けたんだろうね。それより弾正尹様は僕たちが出て行った後に六波羅に現れたってこと?」

「さぁ……それはわかりませんが、前に弾正尹様がいきなり邸の中にいたことがあってその時には父上の客人としているから騒ぎたてるな、と兄上に言われました」

「右大臣様の客人? それって変じゃない? 官位は右大臣様の方が上じゃないか。年齢も時華ときはな様と弾正尹様では親子ほどの歳が離れているのに、客人だって?」

 李桜は腕を組みながら首を傾げた。

 図らずも弾正尹とみつ屋で酒を呑み交わすことなった折、彼は自らを『しん』と名乗った。

 これまで誰にも名を明かさなかった弾正尹が名乗ったことにも驚いたが変わった名であることにも驚いた。

 あれはもしかしたら偽名なのかもしれない。

 九条時華と榛との間には何か特別な関係があるというのだろうか。

 しかもその事情を月華は知っているふしがあると言う。

 李桜はますますわからなくなった。

「李桜さん、大変なことというのは弾正尹様のことではないんです」

「まだ何かあるの」

「邸を出られる前に鬼灯様がおかしなことをおっしゃいまして」

「おかしなことって?」

紫苑しおんさんたちと協力して朝廷の守りを固めよ、と」

「…………?」

備中びっちゅうの動きが読めない。万が一その備中の魔の手が帝に伸びないとも限らない。大事にならないように用心しろ、と」

 李桜は驚きのあまりしばらく瞬きするのも忘れてしまった。

 備中国びっちゅうのくにの者が帝を狙っているとでも言うのか。

 確かにかつて、前の左大臣と陰陽頭おんみょうのかみが結託して倒幕を目論み、朝廷を再編しようとしていたらしいということはわかっている。

 その首謀者で左大臣だった近衛柿人このえかきひとが頼みにしていたのが備中国だった。

 結局、不問にされたがみやこを騒がした毒殺事件の影の首謀者であった風雅の君も備中国からやって来たのだ。

 幼い頃に宮中を追われ備中国に引き取られた縁もあり、新しい朝廷の頂点に風雅の君を据えようと画策していたらしいことも想像がつく。

 だが今はその風雅の君は備中国を離れたのではないのか。

 今の帝を排しても風雅の君を据えることはできないのに、どうしようというのか。

「それって、本当の狙いは百合殿じゃなくて帝ってこと?」

「……え?」

「百合殿の異能は、帝を狙うために必要でそれを利用して朝廷に反旗を翻す気ってことかな。そうなると倒幕ってのはついでみたいなもんだよね。今の帝やそれを支える筆頭摂家が親幕派だから朝廷を壊すことを幕府に邪魔されたくないってことか」

「まさか、そんなこと……帝に手を出そうとして幕府が出張ってきたら備中国なんてすぐに打ちのめされるんじゃないんですか。だって相手になるのは鬼灯様や兄上ですよ?」

「さぁ……いろいろな懸念があるのは確かだろうけど、真実は未だ闇の中ってことだね」

 足を止めたまま驚愕する悠蘭をよそに李桜は再び歩き始めた。

 もし鬼灯が危機を感じているというのなら、やはり備中国には何かあるのではないだろうか、と李桜は思った。

 彼らは肩を並べながら互いに口を開くことなく御所の中心へ入っていった。

 しばらくすると中務省なかつかさしょうの建物が見えてくる。

 隣には悠蘭が所属する陰陽寮おんみょうりょうがある。

 問題は何も解決しておらず、糸口さえ見えていないがそんな彼らの不安とは関係なく、今日も与えられた職務を全うしなければならない。

 ふたりがその付近で互いの仕事に就くために別れようとした時、さらに奥にある兵部省ひょうぶしょうの建物から今出川楓いまでがわかえでが左手いっぱいに書物を抱えて出てきたのが見えた。

 方向は図書寮ずしょりょうを目指しているようだった。

 仕事をしているにしては早朝すぎるため、不審に思ったふたりは顔を見合わせた。

 まもなくもうひとりが両手に溢れんばかりの書物を同じように抱えて出てきた。

 それは前日、事件を起こした鷹司杏弥たかつかさきょうやだった。

 捕縛されたはずの杏弥が自由に歩いている様子に、さすがに黙っていられなくなった李桜は兵部省の前まで駆け寄った。

 悠蘭も慌てて後を追う。

 李桜が杏弥に声をかけようとすると、さらに建物から出てきた久我紫苑くがしおんに逆に声をかけられた。

「おはようさん、李桜。おお、悠蘭もいるのか。さすがに働き者は朝が早ぇな」

 紫苑も同じように大量の書物を抱えている。

 その量たるや前も見えないほどだった。

「おはよう、じゃないよ、紫苑。あんたたち、こんな時分に何やってるの」

「何って、見りゃわかるだろう? お勉強さ」

 紫苑が李桜から隠すように抱える書物を動かした弾みで山の上から2、3冊がなだれ落ちた。

 地面に散らばった書物を拾おうとした李桜が1冊を手に取った途端、

「あんた、これ——」

 と叫んだため紫苑はそれまで抱えていた書物をすべてその場に投げ捨てて李桜の口を塞ぐ羽目になった。

「李桜っ! そんな大きな声で叫ぶなっ」

 悠蘭は散乱した書物を呆然と見ていた。

 1冊拾い上げるとそれはここにあってはいけないものだとすぐにわかった。

 周辺に人がいないか確認すると悠蘭は声を潜めて言った。

「紫苑さん、まさかこれ、全部禁書なんですか!?」

 散らばった書物の表紙には当然、すべてに禁書の印がついている。

 李桜の口元を押さえていた手を離すと、紫苑は頭をぽりぽりと掻きながら眉尻を下げた。

「まぁな」

「まぁなって……まさか杏弥や楓殿が持っていったものもですか!?」

「そういうことだ。悪いけど、お前たちも拾うの手伝ってくれよ。図書寮のやつらが出仕してくる前にこれを全部、書庫に返さなきゃならねぇんだ」

 1冊ずつ丁寧に拾い上げる紫苑を悠蘭も手伝った。

 持ち出した理由はどうあれ、これを一刻も早く書庫に戻すことが今は最優先である。

 それを理解している李桜も盛大なため息をついた後、手伝い始めた。

「それで? こんなに調べまくって何かわかったの?」

「あー、謎が深まっただけだな」

「はぁ!?」

「いちいち噛みつくなよ、李桜。確かに謎は深まったけど、ひとつわかったことがある」

 相変わらず適当な返答をする紫苑に苛立ちを隠せない李桜は散らばる禁書を面倒そうに拾いながら言った。

「何なの」

 対する紫苑はいたって真面目だった。

「備中国には何かあるってことだ」

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