第3話 正体不明の優男
備中国一の武家である妹尾家から風雅の君という二つ名を持つ先帝の落とし種が忽然と姿を消してから1日以上が経過した。
邸の中では次から次へと発見された家臣たちの遺体を庭で火葬しているようで、夜になっても焦げくさい臭いが邸の中にまで充満している。
鼻を突くような臭いのする自室で御形はゆっくりと目を開いた。
昨晩からずっと邸の中が騒然としていたせいで眠れないまま再び夜を迎え、座ったままうたた寝をしていたようである。
自分の両手を見下ろしながら現実の世界であることを自覚する。
あの地獄のような悪夢を見るのは久しぶりのことだった。
桐江——。
結局、あの日、何よりも大事なかけがえのないものを失った。
あの時、すべてを投げ出してしまってもよかった。
桐江があの子たちを残していなければ……。
あの子たちが生き残ったからこそ、復讐のためにすべてを壊そうと誓ったのだ。
朝廷さえ、あの帝さえいなければ桐江が死ぬことはなかった。
部屋に入り込む火葬の臭いはそんな絶望を御形に思い出させる。
御形は部屋の障子をゆっくりと開けた。
そこから見える庭の中心では闇夜の中に大きな火柱が上がり、火葬している様子がよく見える。
まるで身の中に巣くう復讐の炎のようではないか。
御形がぼんやりとその火柱を眺めていると、襖の外から声が聞こえた。
「御形様——」
聞きなれた声に返事をすると、ひとりの青年が室内に入ってきた。
「湖薄か」
御形が声をかけると相手は深々と頭を下げた。
湖薄という名の細身の青年は、年のころが30代半ばといったところで顔に負った火傷を隠すようにうねった髪を顔の右側に垂らしていた。
御形の前まで進み出た湖薄はその場に正座すると御形の言葉を黙って待った。
「一体いくつの遺体を焼いているのやら……」
御形は火葬の火柱を眺めながら言った。
「15でございます」
答えた湖薄は平然としている。
「……風雅の君を連れ出したという謎の侵入者は本当にひとりなのか。多くの者に気づかれずそれだけの家臣たちを秘密裏にこの邸の中で片付けていたとは、ただ者ではない」
「返す言葉もございません。檜緒のもとにいたとはいえ、侵入したことだけでなく風雅の君を連れ去った物音にさえ気づかなかったことはわたしの不徳の致すところです」
「それだけ相手が巧妙だったと言うこと。お前のせいではない。顔を上げなさい、湖薄」
顔を上げた湖薄はまっすぐに御形を見つめた。
次なる御形の言葉が発せられるまで微動だにしない。
腹を斬れと言えばその場で実行するだろうというほどに湖薄は御形に従っていた。
「こんな騒々しい時に呼び出したのは他でもない。お前たちにしてもらいたいことがある」
「何でしょう?」
「そろそろあいつを始末してもよいかと思うのだが、どうだろうか」
「なぜわたしにお訊ねになるのですか」
「お前たちも殺したいほど憎んでいるはずだが、違ったかな?」
「いいえ、違いません。今でも腸が煮えくり返る思いです。ですが堪えろとおっしゃったのは御形様ではありませんか。それがなぜ今になって?」
棘のある言い方をしていても湖薄はどこまでも冷静だった。
まるで感情をどこかに忘れてきてしまったかのように。
「風雅の君が得体の知れぬ何者かに連れ去られて、気が変わった。あの憎き凌霄の血を引く者ではあるが同時に芙蓉の血も引いているゆえ、そばにおいて監視しておればよいと思っていたがそれも近くにおらぬのならば意味がない。菱盛が新しい朝廷を創ったなら傀儡として据えることで一生監視するつもりだったが、叶わぬのなら邪魔な者はすべて始末してしまう方がよいかと思ったのだ」
「おっしゃるとおりですね。許可いただけるのでしたら檜緒もさぞ喜びましょう」
「ところで檜緒はどうしているのか」
「彼女なら——」
湖薄が答えようとした時、廊下を駆ける足音が聞こえ間もなくして豪快に襖が開かれた。
現れたのは湖薄よりもずいぶん若く見える女子で名を檜緒という。
男勝りな活発な性格で髪は短く、目力の強い女子である。
「御形っ!」
勢い余って登場した檜緒は目を爛々とさせていた。
「……檜緒。そんなに嬉しそうにしてどうしたのか」
「風雅の君が消えたのは聞きましたか? 菱盛は口から炎を吐きながら邸中を怒鳴り散らしているし、敦盛は出かけたまま戻らない。何者かの侵入を許し、誰にも気づかれないまま15人もの家臣をむざむざと殺されたのです。これがおもしろくないわけがないでしょう。これから何が起こるのか楽しみで仕方がありません」
「…………」
「殺されていた家臣たちの様子を見ましたが、不思議なことに刀傷がひとつもありませんでした。あれは一体誰の仕業なのでしょう。武士の仕業とは思えません。もしかして、悪霊、とか? 何か感じませんか、御形? あなたはそっちの専門でしょう?」
「少し落ち着きなさい、檜緒」
浮かれる檜緒を御形がなだめていると、湖薄は興奮気味の檜緒の袖を強く引いた。
引っ張られて体制を崩した檜緒は強制的に湖薄の隣に座らされた。
不満そうに口を膨らませる檜緒の様子を湖薄は受け流す。
「何をするの、湖薄」
「いいからここに座っていろ、檜緒」
「ふんっ、何よ、相変わらず仏頂面して。こんなに面白いことが起こっているのに何も興味がないの? この堅物」
「何とでも好きなように言えばいい」
檜緒は湖薄に目を合わせることなく、そっぽを向いた。
湖薄は意にも介さず、檜緒が現れる前まで時を戻し、御形に問いかけた。
「御形様、先ほどの話の続きですが本当によろしいのですね?」
「ひと筋縄ではいかぬと思うが、やってくれるか」
「ええ。達成できるかどうかはやってみないとわかりませんが、力を尽くしましょう。では準備をして夜のうちに備中を発ちます」
立ち上がって軽く礼をすると湖薄は檜緒の腕を掴んで強制的に立たせた。
「お前も来るんだ」
「え……っ、え、な、何!? ちょっと……まだ御形と話をしているのにっ」
檜緒の叫びは誰にも受け止められることはなかった。
湖薄は檜緒の手を強く引きながら御形の部屋を出た。
強引に連れ出された檜緒は何度も後ろを振り返っていたようだが、御形は表情ひとつ変えなかったことだろう。
御形はそういう人物である。
目的のためには手段を選ばない。
彼の中にある地獄の烈火はまだ消えていない。
むしろより燃え盛っているようにも見える。
あれだけ可愛がっていた皐英を使ってまで幕府と朝廷の関係を断ち切り、朝廷を滅ぼそうとしていた御形は果たしてどこまで成し遂げようとしているのだろう。
湖薄は御形と長い付き合いながら、彼のすべてを知っているわけではなかった。
だからこそ彼の見境がつかなくなった時のことも手を打っておかなければならない。
暴走した御形を止める術はない。
暴走した御形の牙がこちらを向くことがあったとしても、何としても檜緒のことは守らなければならない。
これから向かう先は地獄かもしれないが、その責めはすべて自分が負うと湖薄は心に決めている。
だから湖薄は後ろを振り向かない。
そう決めた日から今日まで、前を向いている時は振り向かないことにしている。
後ろをついて来ているはずの檜緒がどんなに不満そうな顔をしていたとしても、取り合うつもりはなかった。
ふたりは騒然とする邸の廊下を歩いた。
庭で火葬しているせいで邸中に充満している臭いは、戦場の臭いに似ている。
すべてを焼き尽くす炎に包まれた地獄のような光景を呼び起こすようで、湖薄は顔をしかめた。
できるなら一刻も早くここを離れたい。
辛いことを思い出させてしまうかもしれない檜緒も、ここに長く置いておきたくない。
そう思っていると彼の歩調は自然と速くなっていった。
「ねえ、湖薄」
いやいや手を引かれながらついてきている檜緒は前を行く湖薄の背中に声をかけたが、彼は返事すらしなかった。
「ねえってば! どこに向かっているの!?」
檜緒の不満が限界に達したところで湖薄はその足を急に止めた。
湖薄の背中に檜緒が顔面から突っ込んできたと思しき感覚があった。
「痛っ! ちょっと、急に止まらないで——」
湖薄が足を止めたのには理由があった。
目の前にとある人物が現れたからである。
「湖薄と檜緒ではないですか。こんなところでふたりそろって何をしているんです? もしかして御形さんに呼ばれたんですか」
現れたのは三公のひとりで橘萩尾という男だった。
「……いいえ。邸の中を見回っていただけです。風雅の君を連れ去った得体の知れない人物の痕跡が残っていないか、見て歩いていました」
咄嗟に適当な答えを返した湖薄は萩尾の反応を窺った。
嘘だとばれるだろうか。
湖薄は萩尾をまじまじと見つめた。
年の頃は御形とさほど変わらないように見えるが何の取り柄もなさそうな優男である。
いつも御形や菱盛に遠慮しながらそれでも三公に名を連ねていることが湖薄には納得できなかった。
橘萩尾——この人物はどうも信用できない。
武士でもなく、呪術師でもなく、妹尾家や平家の血縁でもないこの男はなぜ備中にいるのだろうか。
「そうですか。それで何か見つかりましたか」
「今のところ、何も」
「ううむ、残念です。それにしても風雅の君を連れ去ったのは一体誰なのでしょうね。あなたたちには察しがつきますか」
「……いいえ」
「やはりそうですよね。風雅の君の価値を知ってのことなのか……まさか人違い、なんてことはないでしょうね」
「人違い?」
「ええ。本当は他の誰かを連れ去ろうとしていた、とか? でなければ我々以外にも風雅の君を利用しようとしている輩がいた、ということになりますから。まあ、真実は連れ去った何者かに訊くより他、知り得る方法はありませんが」
人違いなどありえない。
風雅の君の連れ出した人物がいるのなら、その者は相手が風雅の君だから連れ出したはずである。
この迷路のような邸の中から誰にも気づかれずに風雅の君を連れ出すほどの人物が、先帝の落とし種の利用価値を理解していない、とでも言うのだろうか。
利用価値がない者のためにこれほどの危険を冒してまで連れ出すなど、湖薄には想像もつかなかった。
萩尾は一体何を考えているのだろう。
それとも何も考えていないのだろうか。
真意を確かめようと湖薄が萩尾と視線を合わせると、その瞳の奥に怪しい光が差しているのを感じた。
急に背中が寒くなるような感覚に襲われ、相手にそれを悟られまいと視線を逸らして湖薄はその場を去ることにした。
「……わたしのような者にはわかりませぬ。ではこれにて」
軽く頭を下げると、檜緒の手を一層強く引いて湖薄は萩尾の前を通り抜けた。
何だか嫌な予感がする。
この予感は外れることがないから厄介だ。
湖薄はその後、後ろで不満を盛大にぶちまける檜緒の言葉が一切に耳に入らないほどに、大きな不安を抱えたのだった。