第26話 運命の輪を回した妻
月のない夜。
それは何か不吉なものを思い出させる。
最愛の妻であった蘭子の幻を目の当たりにした九条時華は、寝殿の中で呆然と月のない空を眺めていた。
夢にさえ出てくることはなく、久しく姿を見ていなかった蘭子がたとえ幻でも目に見える形で現れてくれたのは時華にとって嬉しいことだった。
だが同時に、消えてしまった今となっては2度とその姿を見ることができない寂しさを残す。
深夜に現れた北条鬼灯は風雅の君とともに六波羅に現れた帝の榛紀を送り届けてくれたという。
鬼灯はその足で攫われたという百合の奪還に向かった。
鬼灯を見送りに行った松島も寝殿を離れ、誰もいなくなった空間は妙に静けさを増している。
蘭子は先帝の妹君だった。
摂家とはいえ九条家の三男として生まれ、骨肉の争いの上に家督を継ぐことになった時華が娶ることができるような姫ではないはずだった。
それがあの夜、蘭子が転がり込んできたことで運命の輪が回り始めたような気がする。
目を閉じるとその光景が昨日のことのように思い出された——。
少し前の九条家は摂家として長年、朝廷で要職に就いてきたが権力に溺れ腐りかけていた。
時華にはふたりの兄がおり、どちらも朝廷で職に就いていたがそろいもそろってろくに仕事もせず、遊びに明け暮れ堕落した生活をしていた。
官吏たちをあごで使い、家臣たちを踏みつけても何とも思わないような性根の腐った兄たちを粛清しようと決意したのはいつのことだったか。
兄たちを順に家から排除しようと仕掛けていたことを悟られ、刺客を送られ殺されかけたこともあるが最後にはその兄たちを失脚させることに成功した。
その後家督を継いだのはよかったが、腐った兄たちの残した負の遺産はあまりにも大きかった。
何から手を付けてよいかわからないほどだったが、まずは邸に関することに始まり、彼からが放棄していた仕事に関する書簡の整理から始めた。
そんなことを始めてふた月が経った頃。
その夜も時華は日課となっている書簡の整理に明け暮れていた。
九条邸の寝殿で月明りの下、薄手の夜着に身を包んだ時華は大きなため息をついた。
「一体何をどうすればここまで放置したままでいられるのやら……」
誰にともなく呟かれるぼやきは夜ごとに増えていった。
いくつかの書簡に目を通した時、慌ただしい足音が聞こえた。
「と、と、時華様っ。た、た、大変でございますっ」
日頃、足音を立てて邸の中を走ることがない家臣の松島が渡殿から滑り込んできたのだった。
その慌てようたるや、尋常な様子ではなかった。
「松島、一体どうしたというのだ」
松島は口をぱくぱくと動かすだけでその言葉は声になっていない。
時華はすぐさま松島に駆け寄った。
肩を揺らし、正気を取り戻させようとした。
「しっかりせよ、松島」
何度か肩を揺さぶられた松島は正気を取り戻すと、しっかりと時華を見据えて言った。
「時華様、一大事でございますっ」
「一大事とは何だ」
つい数か月前まで兄弟争いが繰り広げられていた九条家においてそれをしのぐ大事など想像もつかなかった。
眉根を寄せた時華だったが、とにかく邸の門までと言って松島はそれ以上詳細を語らないので、仕方なく言うとおりにすることにした。
近くにかけてあった羽織を肩にかけると時華は松島の導きで寝殿を出たのだった。
今は誰も使っていない東対の前を抜け回廊を歩きながら時華は呆然と庭を眺めた。
九条池には美しい月が浮かび、かつては毎夜、遊びほうけていた兄たちが中島に床を造らせて酒盛りをしていたものだが、今はそれが嘘のように庭も静まり返っている。
松島の慌てようは、そんな静けさを取り戻した九条家には似つかわしくないものだった。
時華が疑問を持ちながら門までやって来ると、門の前に立っていたのは思いもかけない人物だった。
そこには美しい黒髪に豪奢な打掛を召した姫が立っていた。
月明りに照らされた彼女の後姿はまるでおとぎ話の主人公のようであった。
その人物は跪く門番に笑いながら話しかけている。
時華の気配に気がついた姫が振り向いた。
「…………蘭子、様」
蘭子は時華の姿を見つけると照れ笑いしながら言った。
「こんばんは、時華様。こんな夜分に押しかけて申し訳ありません」
軽く頭を下げる蘭子に一瞬、言葉を失った時華は呆然と彼女を見ていた。
九条家当主となり帝である凌霄の信頼を得た時華はよく内裏に出入りするようになっていた。
皇家の居住である内裏では当然、帝以外にも暮らしている人々がいる。
凌霄の寵愛を受ける芙蓉もそのひとりだが、この目の前にいる蘭子姫もまたそのひとりであった。
蘭子は知る人ぞ知る、帝の妹君である。
彼らの父である先帝の鳳仙が亡くなり、母も早くに亡くしていることから蘭子は帝のたったひとりの肉親とも言える。
時華が芙蓉の世話を仰せつかってからというもの、蘭子とは時々顔を合わせることがあった。
美しく気立てもよいが、深窓の姫君とはかけ離れた活発な女子。
彼女とは挨拶をする程度しか関りがないはずなのに、今宵なぜ九条邸に現れたのか時華には見当もつかなかった。
「ら、蘭子様っ、このようなところへいらっしゃるとは……内裏で何かあったのですか」
はっと我を取り戻した時華は蘭子に近寄り、その手を取った。
蘭子の手は冷たく、長らく外にいたことがわかる。
「何、と言いますか……実は時華様にお願いがあって参りました」
真剣な眼差しに射貫かれ、ただならぬものを感じた時華は固唾を呑んだ。
蘭子の瞳に吸い込まれるのではないかという感覚を覚える。
それほどまでに強い意志を彼女の瞳に感じた。
冷たくなった蘭子の手を時華は両手で包み込む。
「私でよければ伺いましょう。ここは寒いのでよろしければ中へ」
「ありがとうございます。でもここで結構です」
「ですがこのようなところではお体に障りましょう。中で温かいものをご用意しますので」
「いいえ。あなたが私の願いを受け入れてくだされなければ、このまま帰るつもりでおります」
「……どういう、ことでしょうか」
何かを言いたそうにする蘭子がちらちらと視線を漂わせるので、時華は松島に目配せをした。
意図を汲み取った松島は跪いたまま強直していた門番を連れ、ふたりから見えないところまで下がっていった。
「蘭子様、これでここには私たちしかおりませぬ。何かお話があるのでしたらどうぞ遠慮なくおっしゃってください」
「時華様」
「はい」
「私、あなたにお願いがございます」
「ええ、何でしょう。私でお役に立てることならば何でもいたします」
「私をあなたの妻にしてください」
時華は一瞬耳を疑った。
蘭子の言っている意味がよくわからなかった。
妻にしてほしいなどと聞こえたが毎夜、書簡の整理に明け暮れ疲労しているせいで幻聴が聞こえるようになったのではないだろうか、とさえ思った。
だが真剣な目を向けてくる蘭子が冗談を言っているとは思えない。
やっとの思いでひと言、絞り出した。
「何ですと?」
「驚かれるのも無理はありません。ですが、私は本気で申し上げています。あなたの妻にして——」
「ち、ちょっと待っていただけませぬか、蘭子様」
「はい、何でしょうか」
「どういうことか説明いただけないでしょうか」
「ですから私をあなたの妻に——」
「いえ、そういうことではなく、なぜそのようなことをおっしゃるのか私には理解できないのですが……」
「どうしてですか」
「蘭子様のことはお顔こそ存じておりますが、ほとんどお話したこともない間柄です。そ、それをつ、妻にとは、どういう……」
時華は軽いめまいに襲われた。
どうやら蘭子は本気で九条家に嫁ぐつもりでいるらしい。
何をどうしたらそういった発想になるのか、時華にはまったく理解できなかった。
「帝は、帝はこのことをご存じなのですか」
時華の問いに蘭子は目を伏せた。
月明りに照らされる蘭子の顔が一層美しく輝き、不覚にも時華の鼓動は高鳴った。
すると蘭子は肩に掛けていた、豪奢な打掛を脱ぎ捨てた。
打掛には菊の紋が入っている。
「私は今宵、皇家を飛び出してきた身。もう行くところがありません」
「飛び出して来たのですか!?」
蘭子は目尻に涙を溜めながら頷いた。
「なんてことを……今頃、蘭子様を探す捜索隊が京中を駆けずり回っているのではありませぬか」
「いいえ。私は九条家に嫁ぐと言って内裏を出ました。ですから追手が来ることはないでしょう。兄上とて、摂家を敵に回すつもりはないと思いますから」
時華は目を剝いた。
受け入れられるかどうかわからないにも関わらず、親しくもない九条家へ飛び込んできたからには相当な理由があるのだろう。
通常、どんな客人も高貴な人物であればあるほど家の家紋が入った牛車を訪問先に前に停めているものである。
蘭子がここまで歩いてきたとは考えられない。
であれば門の前には菊の紋が入った牛車が停まっていなければならない。
一時の気の迷いなら丁重にお断りしてお帰りいただくのが筋だと思うが……だがもし蘭子が言っていることが本当だとしたら……?
時華は蘭子をその場に残して門を押し開けた。
そこには何もなかった。
牛車どころか人も歩いていない。
深夜の寝静まった大路がどこまでも伸びているだけだった。
静かに門を閉めた時華は深呼吸した。
帝に啖呵を切って内裏を飛び出してきた姫を預かるのはいいが、望んでいるのは嫁入りである。
しかも嫁入りするのはその辺の貴族の姫ではない。
帝の妹君であり、紛れもなく皇家の血を引く高貴な姫なのだ。
だが聞き入れなければ帰ると言う。
牛車がないのにどこへ帰るというのだろうか。
帰るとは言うが本当は帰るつもりなどないのではないだろうか。
時華は振り返った。
すると打掛を脱ぎ捨てた小さな身体が肩を震わせているのが目に入った。
その瞬間、時華はそれまで考えていたことがすべて飛んでしまった。
彼女を守らなければならない——そう思った。
それは理屈ではなく、時華の魂が蘭子を放っておくことができない、そう言っているかのようだった。
時華は自分の肩に掛けていた羽織をそっと震える蘭子の肩に掛けた。
驚いて顔を上げた蘭子と目が合った。
「お手を」
手を差し出した時華に不思議そうな目を向ける蘭子は、恐る恐る手を重ねた。
「時華様……?」
蘭子の手を握ると時華はその手を強く引き寄せ、抱きしめた。
初めて感じる蘭子のぬくもりは温かかった。
どんな身分にあろうとひとりの女子であることには変わりない。
冷静に考えれば皇家の姫を預かることがどういうことか、背筋に冷たいものが流れるような思いがするが、今はそんなことを考えるのは止めた。
この震える彼女を突き放すことなど、時華には到底できそうになかった。
「さて、では参りましょうか」
「……え?」
「私の妻になって下さるのでしょう? ではこんなところでなく、邸の中へどうぞ」
「……では」
「幸い私もまだ独身ですので。こんな私でよければ私と一緒になっていただけますか」
時華が腹を括ってそう言うと蘭子は胸に顔をうずめ肩を震わせて言った。
「ありがとう……時華様」
それはずいぶん昔の、ある秋の夜のことだった。




