第21話 希望を託して
ふらふらと部屋を出て行った敦盛を見送った萩尾は部屋の中に戻ると残された茶道具を見つめた。
まさかこれを再び出すことになろうとは思いも寄らなかった。
茶道具は亡き友人で帝お抱えの著名な茶人であった風早橄欖の物であった。
事件の後、橄欖が処刑され風早家が取り潰しになり、唯一の弟子であった白椎も京を追われたことで引き取り手のなくなった茶道具を、妹尾家に出入りする行商人から買い取ったのはずいぶんと前のことである。
ある時、いわくつきでなかなか買い手がつかない茶道具があるという話を聞きつけた萩尾は、品物をひと目見て橄欖の物だとわかり法外な値を付けて買い取った。
高値をつけたことに行商人は喜ぶ半面、首を傾げていたが萩尾にとっては2度と手に入れることができない友人の唯一の形見だったのだ。
そもそも値段をつけることができないほど価値のあるものだった。
茶道具を買い取った日、萩尾はそれを抱えて涙を流しながら橄欖に対して詫びた。
助けると約束したのに、何もできなかった。
そんな不甲斐ない自分を何度も呪った。
橄欖がこうして巡り巡って自分の元に戻ってきたように思った。
この無念を晴らしてほしい、そう言っているようにさえ思った。
だからこそ橄欖を落とし入れた者を絶対に許すことはできないのだ。
萩尾は膝をつき、敦盛が茶を呑んだ茶碗を手に取った。
久しぶりに茶道具を出したのは、敦盛を足止めしたかったからだった。
菱盛と御形が喉から手が出るほどに欲しがっていた輪廻の華がとうとう彼らの目と鼻の先まで来ている。
幸いにもまだ誰も気がついていない。
敦盛が口を開かなければ、梓に預けたという人物が輪廻の華だとは誰も気がつかないだろう。
萩尾は敦盛を足止めするために茶の中に秋の忘れ草を煮出したものを混ぜていた。
睡眠誘発効果のあるもので日頃、萩尾自身が眠れない時に茶に混ぜているものである。
目が回るようなことはないが、急激な睡魔に襲われる代物だ。
薄めはしたが夜通し走り続けて疲労している敦盛を強制的に寝かしつけるには、ちょうどよかったに違いない。
「橄欖……こんなことに使ってすまぬな。許せよ」
萩尾は橄欖の形見の茶器に頭を下げたのだった。
謀らずも輪廻の華は手元にやって来た。
彼女を守ろうとする者たちが取り返しに来ることは必須だ。
輪廻の華を手放したくない菱盛や御形との間で戦いが起これば、それは萩尾にとって好都合なことである。
萩尾自身に武士である菱盛や呪術使いである御形と戦う能力はないが、他の力を借りてうまくことが運べば妹尾家を征伐できるかもしれない。
あの蘭子の子が萩尾の一日千秋の望みを叶えてくれるかもしれない。
そう考えると何の因果だろうか、と萩尾は思った。
茶道具を片付けながら、ふと遠い昔の記憶が蘇る——。
「待て、蘭子っ! 話はまだ終わっておらぬ」
就きたくもない弾正尹の職に就いて3年ばかりが過ぎたある日。
その夜いつもどおり凌霄から話がある、と呼ばれて日が沈む頃に清涼殿を訪れた萩尾は目を丸くした。
それは凌霄の叫び声を聞いたからだった。
凌霄とは長い付き合いになる萩尾はこれまで彼が声を荒げるところをほとんど見たことがない。
性格はいたって穏やかで、短気な萩尾に比べ折れない頑固さはあるものの決して怒るようなことはない人物である。
何ごとかと萩尾が中へ駆け込んだ時、途中で見慣れた女子と肩がぶつかった。
相手は目を伏せて勇み足で向かってきたため、よけきれずにぶつかってしまったのだった。
相手が顔を上げると萩尾と目が合った。
「……蘭子殿?」
相手は凌霄の妹——蘭子だった。
蘭子は朝廷で絶世の美女と噂されるほどの美人ではあったが、深窓の姫君との噂からは程遠い活発な女子である。
幼少期より蘭子とも幼馴染としてよく顔を合わせてきた萩尾にとって彼女は妹のような大事な存在だった。
「……萩尾様、ごきげんよう。兄上ならこの先でお待ちです」
そう言うと蘭子は長い髪に顔を隠すように視線を逸らして去っていった。
愁いのある瞳を残して去っていく蘭子の後姿を萩尾は首を傾げながら見送った。
姿が見えなくなったところで、本来の面会相手である凌霄のもとへ向かう。
室内に入ると、珍しく苛立たしげに部屋の中をうろうろとする凌霄がいた。
「凌霄——今し方、廊下で蘭子殿とすれ違ったが、何かあったのか。少し様子がおかしかったようなのだが……」
「……萩尾」
萩尾の顔を見るなり凌霄は深いため息をついて肩を落とした。
何かあったのか、とは愚問だったと感じ取った萩尾は言葉尻を変えて再び訊ねた。
「何かあったのだな?」
「……何かもなにも、蘭子が突然、もう皇家には関わりたくないから嫁に行くと言い出してな。1度言い出したらてこでも動かぬあいつのことだ。今頃、もう内裏を飛び出していることだろう」
「関わりたくないと言ったって、彼女は皇家直系の姫ではないか。一体どこへ嫁に行くつもりなのだ」
「九条家だ」
「九条家? 確かに今の九条家当主は独身だったな」
「ああ。九条家は長く、骨肉の争いをしてきたが何年か前に時華が当主に収まってからはやっと落ち着いたので近頃、私も頼りにしていた」
「九条家なら摂家なのだから別に問題はないのではないか」
「そう簡単にはいかぬ。摂家の中でも九条家だけを取り立てているように見えるのは、他の摂家との間に軋轢を生むだけだ。右大臣を歴任する九条家に嫁に出すとするなら、左大臣を歴任する近衛家も平等に扱わねばならぬが、今の近衛家に宮中で預かれるような年頃の女子はおらぬのだ」
頭を悩ませる凌霄を見ながら萩尾は首を傾げた。
「だが蘭子殿はなぜ急に嫁に行くなどと言い出したのだ? 皇家に関わりたくない、とは尋常は拒否反応ではないように思うが」
凌霄は再び大きなため息をつくと文机の前に腰を下ろし、机に放り出してあった1冊の書を萩尾に向かって差し出した。
文机を挟んで向かいに膝を折った萩尾は黙って書を受け取った。
表には『鳳仙呪録』と書かれてある。
よく見ると禁書の印が刻まれており、呪いの文字が入った書名からも不吉さがにじみ出ている。
萩尾はぱらぱらと順番に頁をめくっていった。
少しめくっただけでも目を覆いたくなるようなはおぞましい記録が飛び込んでくる。
「これは——」
「それは我が父であった鳳仙陛下の御世で行われた闇の記録だ。とても表に出すことなどできない内容が記されているが、蘭子はどこでこの禁書のことを知ったのかこれについて問い詰めてきた」
「これは書庫に保管していたのか」
「いや。内容が内容なだけに、私がこの部屋の中で保管してきた。誰の目にも触れていないと思っていたが、よもや蘭子がこの禁書の存在を知っているとは……」
凌霄はお手上げとばかりにだらしなく後ろにのけぞった。
すでに数年前に崩御された先の帝——鳳仙は凌霄と蘭子の実父であった。
鳳仙は気さくで民からも慕われた帝だったが、その陰で黒い噂の絶えない人物でもあった。
当時、陰陽寮にいた優秀な陰陽師の中に呪術に長けた者がいたようで、鳳仙に盾突く者や家を人知れず始末することで障害を取り除いてきたとも言われている。
表の顔しか知らない萩尾にとってそのような眉唾な話は信じるに値しないと鼻で笑ってきたが、その噂が真実であったことを裏付ける証拠が今まさに自分の手の中にあることが信じられなかった。
「だがもう鳳仙様は崩御されて久しいではないか。ここに書かれているようなことを行っていた陰陽師もすでに朝廷にはいないはず。今頃、これを指摘したところでただの過去の遺物にしかならぬのではないか」
「……いや、もしかしたら芙蓉から何か聞いているのかもしれぬ」
「芙蓉殿から?」
「そうだ。彼女を守るためには宮中の奥深くにとどめておかなければならぬ。外には容易に出してやることができぬゆえ、良き話し相手になればと蘭子を通わせたのだがそれがそもそも間違いであった」
凌霄は目元を覆いながら天井を仰いだ。
珍しくうなだれているようである。
凌霄が当時、宮中で働き出したばかりの芙蓉を見初めて人知れず囲ったのは2年ほど前のことだった。
どこの馬の骨ともわからぬ者を、と多くの者たちに反対されたが彼は1歩も譲らずに奥へと隠してしまった。
まもなくふたりの間に男児が生まれ、子は白椎と名付けられたがそれでも凌霄は周囲の反対のせいで芙蓉を側室にすらすることができずにいる。
そんな孤独な境遇を押し付けることになった芙蓉に対し、蘭子を話し相手にあてがったことは名案に思えたが凌霄の中ではそうは思えないらしい。
「ではことを荒立てぬよう、九条家に嫁に出せばよいのではないか」
「だからそれは——」
「蘭子殿が皇家の姫でなければ問題なかろう」
「……どういうことだ、萩尾?」
「蘭子殿は行方不明になったことにしてはどうだ? ただし後ろ盾を持たぬ嫁を九条時華が受け入れれば、の話だが」
「行方不明? そんなことが可能だと言うのか」
「まあ、無理ではないだろう。お前が自ら蘭子殿は行方不明になったが詮索するなと公言し、九条家当主を説き伏せる必要があるがな」
「公言したところで噂は広まるではないか」
「人の噂も75日と言う。そのうち誰も噂をしなくなる。問題は九条家当主に秘密と彼女を守りきれる器量があるのかどうかということだけだ」
凌霄はしばらく沈黙したがそのうち諦めたように何度目かのため息をついた。
萩尾が見る限り、彼はずいぶんと疲れているように見える。
蘭子の件だけではなさそうだ。
萩尾は、今夜この場に呼ばれた理由を凌霄に訊ねた。
「ところで凌霄、今宵呼び出したのは蘭子殿の件とは関係ないのだろう?」
「ああ、そうであった……いや、無関係というわけでもないな」
「…………?」
「そなたの手にあるそれだ」
凌霄に言われて手元を見ると、先刻彼に差し出された『鳳仙呪録』がある。
話し込んでいるうちにまだ手元にあったことを失念していた。
「禁書がどうかしたのか」
「実はな——」
凌霄はおもむろに鳳仙呪録に書かれていることについて語り出した。
鳳仙が何をしてきたのか、そして凌霄はこれから何をしようとしているのか。
凌霄はただ友人に相談したかっただけなのだろうが、萩尾にとってはその後の運命を大きく変える夜だったことは間違いない——。
すべてはあの『鳳仙呪録』に端を発している。
あの夜、凌霄が語ったことは今でも鮮明に覚えている。
もっと早くに起こるかもしれないことを予測できていれば結果は違ったかもしれない。
萩尾は今も後悔している。
だが起きてしまったことは取り返しがつかない。
今できるのは、橄欖を死に追いやったあの者を殺すことと、凌霄が残した息子ふたりを守りきることだけである。




