第2話 地獄絵図のような現実
その集落は近江国にある琵琶湖のほとりにかつてひっそりと存在していた。
集落に暮らす人々は20名ほどでさほど多くなかったが、四季折々の景色を眺めながらみな仲良く平和に暮らしていたはずだった。
そう、あの日までは——。
「ご、御形様……これは何の仕打ちでしょうか」
背中から声をかけられた御形はうんざりした様子で振り返った。
そこには大きな米俵2つを両肩に抱え、腰を曲げて歩く少年がいた。
少年は名を皐英といった。
年のころは7、8歳といったところか。
2年程前に道で雨に打たれ、死にそうになっていたところを気まぐれで拾っただけで本当の年齢は知らない。
本人もわからないと答えたからである。
立派な名を持っているのだからどこぞの没落した貴族の子だったのかもしれないが、家族についても本人は記憶にないと言うから引き取ることにした。
本当なら齢40を過ぎた自分には妻がいて血の繋がった子のひとりでもいておかしくはない人生のはずだったが、好いた女子には袖を振られ妻にすることは叶わなかった。
だが何の因果か袖にした女子は嫁いでもいないのに別の男との子を孕み、その男に捨てられた挙句、ひとりで子を産み育てている。
皐英を拾ったのはその女子の生き様を見て何かしら理解しようとしていたのか、それとも当てつけだったのか……今となってはその時の感情すらも忘れてしまった。
切れ長の目を見開いて必死に訴えている皐英に御形は言った。
「仕打ちなどではない。修業と言いなさい、皐英。もたもたしていると日が暮れる。置いて行かれてもよいのか? 逢魔が時は気をつけなければならぬな。お前ひとりで対処できるのならばよいが」
意地悪く答えると、我に返った皐英は猪の如く急に足腰がしっかりしていた。
人の子というよりもまるで耳を垂らした忠犬のように見え、御形はくすりと笑った。
「御形様、勘弁してください。私はあなたのように特別な力を身に着けておりませぬ。このような状況で悪霊に出くわしたら、た、戦えませぬっ」
「特別な力ではない。みな誰もが持っているもので使い方を知らぬだけだ。だから今お前にその使い方を教えているではないか」
「ま、まだ何も使えませぬっ。後生ですから出くわした時はお助け下さい、御形様」
必死に懇願する目を向ける皐英に御形は苦笑しながら少年の肩から米俵をひとつ受け取り、軽々と持ち上げた。
御形は中背でさほど大柄ではないが、米俵の持ち上げに苦労はしなかった。
その様子を見た皐英は羨望の眼差しを向ける。
「まあ、誰でも簡単にできることではないがこれも何かの縁だ。お前には私の持てるすべての術を授けるから、しっかりと励め」
「は、はい! ですが修業したとてこの私に式神を使役することなどできるのでしょうか」
「できるのではないか?」
「……そうでしょうか」
「己の霊力を具現化するだけのこと。訓練すればさほど難しいことでもない」
「やはり御形様は特別です」
「特別ではない。里には術を使える者はたくさんいるではないか」
「いいえ。御形様ほど多くの術を使える者はそう多くありませぬ。現に私のように何の術も使えない者もいるではありませぬか。そんな中で、あらゆる悪霊を退けることができる御形様はやはり私にとっては特別なのです」
「……特別、と言えるのは現世と常世を渡り歩けるような、この世のものではない能力を持つ者を指して言うのだ。桐江のような、な」
「ですが、桐江様が異能を使うのは見たことがありませぬ」
「はははっ。それはそうよな。桐江の真の能力を見てみたければ、お前は1度死なねばならぬ」
そう答えた御形に皐英は青ざめたのだった。
人が使えない能力を持ったのはいつのことだったか——。
思い出すことすらできないが気がついた時にはすでに身に着けていた。
その能力を買われ若い頃は朝廷に仕え、陰陽寮で力を発揮したこともあったが、取り立ててくれた鳳仙陛下が逝去されたことをきっかけに陰陽寮を去った。
その後、即位された凌霄陛下の御代になってからは招集されることもなくなり、何年の歳月が過ぎたことだろう。
嫌いな朝廷勤めをせずに済んで清々している。
今はかつて好いた女子——桐江とその子らを囲んで琵琶湖のほとりにひっそりと暮らすことに御形は満足していた。
時々、個人的にかつて関係のあった公家から悪霊退治を頼まれ生計の足しにしているが、畑を耕し、魚を取って自給自足する生活は意外と性に合っているようだ。
御形と皐英が修業の旅から帰ってきたのは空気の澄んだ秋の終わりのことだった。
彼らの住む里は近江国——琵琶湖のほとりにあり、人ならざる力を持ち、人里で暮らしにくくなった者たちが集まっていた。
そんな仲間とも言える里の住人たちに米俵の土産を抱えて戻ったふたりは薄暗くなった山間から里のある方角が妙に明るく赤らんでいるのを呆然と眺めていた。
「御形様、こんなに辺りが暗くなってきているのにこの先はなぜあんなに明るいのでしょう」
御形も同じことを考えていた。
目を凝らしていると間もなく黒い煙が立ち上っているのが見える。
「皐英、米俵を下ろしなさい、早く!」
「え、えぇ!? せっかくここまで運んできたのに……」
「後で取りにくればよい! それよりも遅れるな」
肩に担いでいた米俵をその場に下ろすと御形は一目散に走りだした。
目的地は帰るべき場所。
妙な胸騒ぎが収まらないまま、何もなければよいと願いながら御形は走った。
「あ、御形様っ!」
皐英も慌てて追いかけた。
皐英が何とか追いつこうと必死で下を見ながら走っていると、気がつかないうちに立ち止まっていた御形の背中に衝突した。
ぶつけた鼻に走る激痛に耐えながら御形の隣に並ぶと、そこにはおぞましい光景が広がっていた。
「な、な、何、これ……」
皐英が口にした言葉とまさに同じことを御形も思っていた。
そこには自分たちがこれまで平和に暮らしていた里があったはずなのに、家は紅蓮の炎に包まれ煙を吐き出し、焦げ臭いにおいと真っ黒い煙が辺りに充満している。
逃げ惑う人々が黒い朝服の男たちに取り押さえられ、虐げられて悲鳴を上げている。
それはまるで地獄絵図だった。
それまで御形が感じていたささやかな平穏が音を立てて崩れていく瞬間だった。
我に返った御形は離れたところでひとり、偉そうに腕を組んでふんぞり返りながら様子を見守っている男に駆け寄った。
男の胸倉を掴み、畳みかける。
「貴様、何をしている! これはどういうことか!?」
すると朝服の男は唾を吐きながら御形に反論した。
「放せ、無礼者! 我は勅使ぞ。我に盾突くは帝に反逆するも同じ」
「勅使だと!?」
男が差し出した勅書を乱暴に受け取ると御形はそれに目を通した。
そこには承服できかねることが書かれていたが今はそんなことに構っている時ではない。
ひとりでも多くの命を救わなければならない。
御形は勅書を放り投げ目の前の男を蹴とばすと、皐英に言った。
「皐英、とにかく火を消しなさい! 私はこの官吏たちを始末する」
そう言って御形は手始めに手近な朝服の男をひとり捕まえるとその首をいとも簡単にへし折った。
冷静に辺りを見回すとたった20名ほどしかいない集落に一体何人の役人を送り込んできたのかと思うほど、黒い朝服の男たちであふれ返っている。
中には悦に入って暴力をふるっている者もいる。
その光景に吐き気を覚えた御形は懐から式紙を何枚も取り出した。
最初の1枚に息を吹きかけると、その紙は見るみるうちに大蛇へと変化した。
蛇は近くにいる男たちを締め上げる。
次の1枚は巨大な虎に化けた。
駆け出した虎が手足を振るたびに数人ずつが宙に舞った。
続いて現れたのは大鷲だった。
薄暗くなった遥か上空から獲物を狙い急降下するそれは狙いを定めた男たちを次々と攻撃した。
3体同時に使役したところで御形の霊力はずいぶんと消耗していたが、ここで朽ち果てるわけにはいかなかった。
「御形様っ! 火の回りが早すぎて水瓶の水だけではどうしようもありませぬっ」
切羽詰まった皐英の声が聞こえたが、御形はどうすることもできなかった。
さすがの御形も雨を降らすことはできない。
役人たちは始末することができても火種を簡単に消すことはできないのだ。
無力を感じながらそれでもひとりでも多くの者を助けようと、式神たちが暴れまわる中、自らも仲間を探し燃えて崩れ落ちたがれきをひっくり返して歩いた。
崩れ落ちた板を返しては下敷きになった者がいないか確認し、倒れている者がいればまだ息があるのではないかと確かめる。
だが結局、息のある者は残っていなかった。
里にいたと思われる仲間たちの屍に重なるように御形の式神たちが始末する役人たちの死体が折り重なっていく。
何としても、彼女だけは助けたい。
そんな想いが御形を突き動かしていた。
「桐江! 無事ならば答えよ! 檜緒、檜緒はおらぬのかっ」
何度も叫び、この地獄の中を彷徨った。
返事はない。
そうしてどのくらいの刻が経ったことか。
御形の霊力消耗とともに使役した式神は1体ずつ、形を保てなくなって元の紙に戻っていった。
3体すべてが紙に戻った頃にはすべてが燃え尽きて火も収まり、役人たちはひとり残らず朽ち果てた。
そして御形の意識も遠のいていった。
なぜこのようなことになってしまったのか。
桐江は無事なのか。
何もわからないまま倒れ込んだ場所に偶然落ちていたのは、勅使だと豪語した男が持っていた勅書だった。
『悪しき異能を持つ者たちはいずれ民を脅かし、国を亡ぼす。
ゆえに殲滅せよ』
その勅書には時の帝——凌霄の署名が明記されていた。