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第18話 真夜中の訪問者

 妹尾梓せのおあずさは夫である敦盛あつもりとともに暮らす部屋でいつ戻るかもわからない主人を待っていた。

 深夜になっても騒然としたままの邸の様子は部屋に閉じこもっていても肌で感じることができる。

 一体何が起こっているのか、まったく知らされていない梓は不安なときを過ごしていた。

 梓は武家である妹尾家に嫁いでくるまで、清華家せいがけのひとつである今出川家いまでがわけの姫としてみやこで暮らしていた。

 何不自由なく生活し、心穏やかに暮らしていた頃がまるで夢であったかのように今は孤独な暮らしをしている。

 敦盛に兄弟はいない。

 ゆえに義姉妹となる女子も梓の周りにはいない。

 不在にしている夫と顔を合わせることも少なく、梓は日がな一日ひとりで過ごすことが多かった。

 貴族の婚姻は政略的なものと理解していたものの、まさか武家に嫁がされることになるとは梓自身も思ってはいなかった。

 今は亡き近衛柿人このえかきひとが今出川家に現れ、西国への見合い話を持ち込んできた日のことを梓は今でも鮮明に覚えている。

 今出川家当主である父が近衛柿人に頭が上がらないことは朝廷でも有名だったようである。

 かつて仕事の失態を柿人の力でもみ消してもらったらしいと、朝廷に勤める弟のかえでから聞かされたことがある。

 そのしがらみのせいで父は柿人の持ち込んだ見合い話を断れなかったのだ。

 父は武家に嫁がなければならなくなったことに対して何度も詫びてくれた。

 だから梓は覚悟を決めて妹尾家に嫁いだのである。

 あれから数年。

 武士とは粗雑で荒々しいものと思い、どんな扱いを受けるかと覚悟していたが夫となった敦盛はそんな想像とは真逆の人だった。

 むしろ朝廷の官吏をしていてもおかしくないほどの心穏やかな男で、それでいて人をからかったり諧謔かいぎゃくを弄したりするような人物だったのだ。

 初めは政略的に嫁いできたはずがその人柄に惹かれ、互いに信頼し合える夫婦になれたことは梓にとって幸せなことだった。

 ただひとつ辛いことといえば、そんな夫の子を授かることができないことである。

 そのせいで未だに妹尾家の一員として受け入れられている気がしない。

 だから敦盛はいつも何も教えてくれないのだろう。

 梓は小さく息を吐くと、沈む気を落ち着かせようと外の風に当たるために障子を開けた。

 目の前には縁側があり、その先には庭園が広がる。

 月が出ていれば借景としては素晴らしい庭が広がるはずなのだが朔月の夜とあっては殺風景に見えなくもない。

 すでに風情を感じる心の余裕すらなくなっているのかもしれなかった。

 縁側は増築を繰り返し複雑に連結されたすべての建物に繋がっている。

 どこへでもすぐに向かうことができるように、と敦盛の部屋はこの邸の中心位置に置かれている。

 そのため日頃は様々な人物が敦盛の部屋の前を通り過ぎるが、今宵は誰ひとりとして部屋の前を通る者がいない。

 それどころか夜中にも関わらずあちこちにかがり火が焚かれ、敦盛も出かけたまま戻っていない。

 梓が呆然としていると、縁側を歩いて来た人物に呼び止められた。

「……梓殿? こんな夜更けに何をなさっているのですか」

 その人物はまるで謀ったかのように現れた。

 これまで誰も通ることのなかった縁側である。

 なぜ突然現れたのか、梓が不審に思わないはずはなかった。

 訝しげに眉を寄せながらも相手が目の前まで来た時にそれが誰なのかはっきりとわかり思わず声をかけた。

萩尾はぎお様……あなたこそ、ここで何を?」

 橘萩尾たちばなはぎおは梓が京から嫁いでくる前から、この妹尾家に暮らしているという。

 梓が右も左もわからずに嫁いできたばかりの頃、同じ京の出身だとして声をかけてくれたのが萩尾だった。

 以来、暇がある時は話し相手として梓を気にかけてきてくれたのである。

 萩尾は梓の問いに答えることなく、苦笑して言った。

「邸の中が騒がしくて眠れませんか」

「……それもそうですが——」

「何か懸念するようなことでもありますか」

「私は旦那様から何も知らされていませんので。今、邸の中で何が起こっているのか、旦那様はどこへ出かけていつ戻られるのか、何もわかりませんの。子を授かることができない私は妻として認めていただけないのかもしれません」

「敦盛があなたを妻として認めていない? そうは見えませんが……眠れないのなら、私と少し話をしませんか」

 真夏とはいえ涼しい風が頬を撫でるとそれなりに寒さを感じる。

 当たり前のことだが、心身ともに不安に押しつぶされそうになっている今の梓には夜着1枚では骨身にしみる寒さに感じた。

 梓が縁側に正座すると、萩尾は自らの羽織を梓の肩にかけ、隣に座った。

「萩尾様も眠れないのですか」

「……まあ、そんなところです」

「あの……旦那様がいらっしゃらないことと邸の中が騒がしいことは関係があるのでしょうか」

「実は一昨日、風雅の君が消えたのです」

「消えた? 消えた、とはどういう意味ですか。私は数日前に邸の中でお会いしましたが」

「さて、何から話せばよいのか……とにかく風雅の君は今この邸のどこにもおりません。そしてそれを手助けした侵入者がいたようなのです。誰にも姿を見られずに実に美しい手口で妹尾家の家臣たちを次々と始末して、風雅の君を連れ出した。それが何者なのかもまだわかっていません」

「そんなことが可能なのでしょうか。旦那様や御形ごぎょう様もいらしたはずですよね。腕の立つ方たちがいらしたのに、誰にも気づかれずに連れ出すなど……風雅の君はご自身の足で出て行かれただけではないのですか」

「それはあり得ません」

「どうしてあり得ないと言い切れるのですか」

「風雅の君は、山吹やまぶき紅葉くれはを連れ戻すまでの人質として牢部屋に入れられていたからです。中からは開けられない鉄格子をはめた部屋です。誰かが外から鉄格子を開けたとしか考えられません」

 梓は言葉を失った。

 子を授かることができない梓に代わって敦盛の妾にされようとしていた紅葉を逃がすために風雅の君に助力を仰いだのは他でもない、梓である。

 だがそれがきっかけとなって風雅の君が牢部屋に入れられていたことを梓は知らなかった。

 顔を引きつらせる梓を見て、萩尾はため息をついた。

「紅葉を逃がすよう風雅の君を頼ったのはやはりあなたでしたか」

「…………」

「余計なことをなさいましたね」

「で、ですがあのままでは紅葉が可哀そうで……いえ、そうではありませんね。私は紅葉に嫉妬してしまったのかもしれません。旦那様を取られるような気がして。表向きは紅葉を助けるためでしたが、ひいては自分のためでした。旦那様が他の女子を抱くなんて許すことができなかった。私の浅はかな嫉妬心で風雅の君にご迷惑を——」

 梓は両手で顔を覆い、肩を震わせた。

 山吹が不在だからと簡単に風雅の君を頼るべきではなかった。

 そんな後悔に震える彼女に萩尾はさらに追い打ちをかけるように言った。

「敦盛は今、風雅の君を追っています」

「……え?」

菱盛ひしもりさんは何としても紅葉に敦盛の子を産ませたいようです。だから山吹に紅葉を連れ戻すよう命じましたがそのための人質がいなくなったのです。まずはここを出た風雅の君が山吹と接触する前に連れ戻さなければならないのです」

「そんな……誰が連れ出したのかも、どこへ行ったのかもわからないのに、旦那様はそのような当てのない命をお受けになったのですか」

 梓は悔しさで下唇を噛みしめた。

 途方もない話である。

 これでは敦盛がいつ戻ってくるのかなど誰にもわかるわけがない。

 望まぬ方向へ事態を動かすきっかけを作ってしまったことに後悔と責任を感じながら、一方ではすべてを思いのままに動かせると考えている萩尾を含めた三公に怒りを覚えた。

 妹尾家ではたとえ血縁の敦盛であっても三公の意思に背くことはできない。

 それは十分にわかっているが梓は噛みつかずにはいられなかった。

 それはこれまで同郷の生まれとして可愛がってくれた萩尾への甘えでもあるかもしれない。

 萩尾なら想いを理解してくれる、そう梓は思った。

「あなたたち三公は一体、何を考えておいでなのですか」

「何、とおっしゃいますと?」

「山吹も紅葉も道具ではありません。あの子たちにはあの子たちの人生があります。それをまるで手駒のように扱って。そうして風雅の君や旦那様をも操ろうとなさるのですか」

 萩尾は初めて噛みついた梓に驚いたようで、しばらく黙っていた。

 義父の菱盛や怪しい術者である御形にはこんなことは言えない。

 言えば返り討ちに合うことは目に見えている。

 それほどにこの邸の中で、彼ら三公は恐れられている。

 だが萩尾にはそういった危機感を感じないのはなぜだろう。

 梓は答えを待つようにじっと萩尾を見つめた。

 彼の瞳の奥に怒りの炎のようなものが見えた気がしたが、やがて萩尾はいたって穏やかな口調で答えた。

「まあ、否定はしませんが我々3人は同じ未来を描いているわけではない、ということだけはお伝えしておきましょう」

 そこまで言い終えると萩尾は立ち上がった。

 梓を見下ろす視線にはどこか悲しい何かを秘めているように見える。

 ではこれにて、と立ち去ろうとする萩尾の袖を梓は咄嗟に掴んだ。

 なぜ突然現れこんな話をするのか、梓にはまったく理解できなかった。

 確認せずにはいられない。

「萩尾様、お待ちを」

 梓は立ち上がると袖を引っ張られて振り向いた萩尾に向き合った。

 頭ひとつ分は大きい相手を見上げる。

「あなたはなぜ今宵、私のもとに参られたのですか。この邸では三公がお決めになることがすべてのはず。その一員であるあなたがわざわざ私にことの経緯を説明なさる必要などないではありませんか」

「さあて、なぜでしょうね」

「はぐらかさないでくださいませ」

 毅然とした態度で1歩も引かない梓に萩尾は苦笑した。

「すっかり逞しく成長なさいましたね、梓殿」

「…………?」

「ここへ嫁いで来られた頃のあなたとはまるで別人のようです——そう、あなたがおっしゃるとおり我々三公が下した決断がこの邸ではすべてです。ですが我々は決して一枚岩ではない。菱盛さんも御形さんもそれぞれが別の目的で輪廻の華と風雅の君を欲している。彼らの業に巻き込まれた山吹や紅葉も可哀そうなことをしましたが、1番の犠牲者は敦盛かもしれませんね。だから同郷のよしみで敦盛の妻であるあなたには今の状況をお話しておこうと思いました」

「……わかりません。なぜ今私に?」

「敦盛を支えられるのはあなたしかいないでしょう。だからこの先何があろうとあなたは敦盛を支えるべきです」

 萩尾は袖を掴む梓の手をそっと解いた。

「もしかしたらもうお会いすることがないかもしれないと思ったものですから、それだけはあなたに伝えておこうと思いまして」

 そのまま現れた方向へ立ち去っていく萩尾を梓は呆然と見送った。

 もう会うことがないかもしれない、とはどういう意味なのだろう。

 梓は見えない裏側で何か、とてつもないことが起こっているのではないかという恐怖を本能的に感じた。

 背筋に冷たいものが流れる感覚に身震いしていると、背中から声をかけられた。

「梓、こんな夜更けにそのようなところで何をしている」

 振り返るとそこにはこれまで話題に上っていたくだんの相手がいた。

「……旦那様!」

 しかし梓はすぐに顔をしかめた。

 眠れぬまま夜が更けてまで帰りを待っていた夫の腕には見知らぬ女子が抱えられていたのである。


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