第17話 火事場に響く声
雪柊が火柱に気がつく少し前のこと。
北条棗芽たちが立ち寄った集落の男たちは自分たちの手で火をつけておきながら、燃え始めた屋根を見ているうちに居たたまれなくなっていた。
幸いまだ火が点いているのは屋根だけである。
今、家の戸を開ければ中にいる男女を助けることができる。
そう考えたひとりが叫んだ。
「だ、だめだ。やっぱりこんなのだめだっ! あの人たちには何の罪もねぇのに」
叫んだ男は集落の中でも若い方で名を柑太郎といった。
柑太郎は火が点き始めた家に近づいていき、戸締りに使っていたつっかえ棒に手をかけた。
これをしていることによって中からは出られないようになっている。
つっかえ棒を外せば中からも戸を開けられるようになるのだ。
もしかしたら土間で焼け死ぬ恐怖に震えながら戸を開けようと必死になっているかもしれない。
すると別の男が駆け寄ってきてそれを止めにかかった。
柑太郎に近づいてきた男は名を桑次といい、中年で集落では強い発言権を持っている。
そして誰より、棗芽たちを空き家に案内したのはこの桑次だった。
「何をする気だ」
「何ってあの人たちを助けるんだよ」
「止めろ。あのお武家さんに足止めしろって頼まれただろう?」
「だからって火あぶりにする必要はねぇだろう」
ふたりの男が揉めているうちにも屋根の火は燃え広がっていった。
「邪魔するんじゃねぇ!」
柑太郎が止めに入った桑次を突き飛ばして棒を外した。
もたもたしていれば屋根から飛び火して自分たちにも火の粉が降り注ぐかもしれない。
その前に何としても中にいる男女を外に出さなければならない、そう思ってのことだった。
柑太郎が勢いよく建付けの悪い戸を開けると半分ほど戸が開いた。
幸い家の中は屋根からの熱で熱くなっているものの、まだ火の手は伸びていなかった。
中へ滑り込み、むしろを掛けている男女のもとへ寄った。
「あんたたち、悪かった。許してくれ。さあ、早くここから出よう」
一気にむしろをはがす。
女が着ていた着物が目に入り、それを引きはがしたところで手が止まった。
「なんだこりゃ!?」
呆然と立ち尽くす柑太郎の前にあったのは布団を丸めて人形に見立てたふたつの物体だった。
そこにいるはずの招かれざる男女の姿はなかった。
そうこうしているうちに火の手が伸びてきたようで、桑次が中になだれ込んでくる。
「おい、ここにいたら危ない。お前も焦げちまうぞ」
そう言って柑太郎は桑次に連れ出された。
ふたりが家の外に出ると途端に燃え広がった炎はあっという間に家全体を包み込んでいった。
火柱は高く上がり闇夜を照らしている。
まるで怒り狂う火龍が火を噴いているようだった。
立ち上る火の勢いに圧倒された柑太郎が腰を抜かしていると、舌打ちしながら桑次がぽつりと呟いた。
「今さら腰を抜かすなよ。そもそも燃やしちまおうって最初に提案したのはお前じゃないか」
妹尾敦盛がこの集落に立ち寄った時にいい考えがある、と他の者に提案したのは柑太郎だった。
追手が訪ねてきた時は足止めしてほしい、それが敦盛からの依頼だったが彼らは別の理由から空き家に追手を閉じ込めて燃やしてしまうことを思いついたのである。
長雨が続き、さらに川からあふれた土砂に浸かった空き家は不慮の事故で家主を失い放置されたままになっていた。
彼らはその空き家から虫が湧いてくることを恐れていた。
丹精込めて育てている米や人に寄生するような悪い虫が湧いてくるようなことになれば全滅させてしまうことになる。
それを避けるためにもともと空き家は燃やしてしまうつもりでいたのだ。
そこへ現れた怪しい武士の夫婦。
どうも夫婦には見えなかったが刀を持っている武士の方は敦盛を追ってるのかもしれないことは彼らにも想像がついた。
そこで燃やして処分する予定だった空き家に閉じ込め、一緒に燃やしてしまおうと言い出したのだ。
普通に考えれば農民がずいぶんと大それた恐ろしいことを考えるものだと思うが、彼らには敦盛に救われた恩義があるし、怪しい武士と対立する術がないからこちらに牙を向けられては困るというふたつの要素が揃っていた。
直接手を下さずに片付けてしまおうと短絡的に考えたのだが結局、実際に行動するのは考えるほど簡単なことではなかった。
生きた人間を火あぶりにするような行為に恐れを成して、発案者であったはずの柑太郎自ら中止を申し出たのだった。
「……いなかった」
青ざめながら燃え上がる空き家を見つめた柑太郎はそう呟いた。
「は? 何だって?」
「だから、いなかったんだ、あの人たち」
「いなかった?」
桑次はようやく柑太郎の言っていることを理解した。
つまり助けに入ったが中には誰もいなかったということだ。
「だってお前、火をかける前に確認していたじゃないか」
「確かに見た。女の人の着物が見えたし、むしろをかけられててよく見えなかったけど人影らしきものは見えてた。でもむしろをめくったら巻かれた布団が人のように置かれてただけだったんだ」
「馬鹿なことを言うなっ。戸には外からつっかえ棒がしてあったんだぞ? 戸は壊れてなかった。何よりお前があの戸を開けたんじゃないか」
「わ、わかってるさ。だから信じられねぇんだよ」
「……じゃあ、あの人たちは一体どこから出たって言うんだよ」
「そんなのおれにもわからねぇよ。でもおれたちはあの人たちを殺さずに済んだってことは間違いねぇ」
「…………」
ふたりが呆然としていると、騒ぎを聞きつけてきた他の者たちが集まって来た。
その中に最高齢の老人がいた。
「おまえたち、ずいぶん派手にやったの」
「……いえ、足止めはできなかったみたいです」
火柱を見上げながら言う腰の曲がった老人に桑次が答えた。
「あの御仁たちは中におらんのか」
無言で答える桑次に老人は言った。
「まあ、それならそれで仕方あるまいよ。少しの刻は稼げたのじゃ。これで許していただこう。しかし……これだけ燃え上がって大丈夫かの」
「大丈夫、とは?」
「他に飛び火したりせんといいが……」
駆け出した白檀を追って火柱の上がる方角を目指した月華と雪柊は、すぐに件の集落へ辿り着いた。
いくつか立ち並ぶ茅葺き屋根の家と周囲には広大な水田。
川からもそう遠く離れてはいない。
山吹が言っていたとおりだった。
火柱は集落の一番奥で立ち上っているようで月華と雪柊はそこへ向かう白檀の後を追った。
近づくと何人もの男たちが呆然と燃える家を眺めている。
火はすでに家全体を包み込み、それはまるで火だるまのようであった。
呆然とする男たちは消火しようとしている素振りもなく、3人の目には不自然な光景に映った。
「あなたたち、こんな時分に一体何をしているのですか」
白檀が男たちに声をかけると、暗闇から突然現れた彼らを全員が振り返った。
驚愕し怯える者、訝しげに視線を送る者など反応は様々だったが中でも一番落ち着き払っている腰の曲がった老人が前に出る。
「どちら様ですかな」
「私たちが何者なのかは関係ないでしょう。こんな夜中に何をしているのかと訊いているのです」
「…………」
白檀の問いかけに老人は押し黙った。
身なりの整ったか細い優男、腰に肩を下げた秀麗な男、剃髪した細目の男。
どう見ても怪しい3人の男が突然現れたのである。
危ぶんで口を噤むのは当然のことだった。
苛立ちを隠せなくなった月華は白檀に代わって声を荒げた。
「黙っていないで答えろ。なぜ家がこんなに燃えているのにお前たちは平然としている!?」
「不要になった家を燃やして処分しているのでございます」
月華が腰に下げる光るものを見てのことなのか、老人は丁重に返答した。
「燃やしている? 火事ではないのか。中に人は?」
「誰もおりませぬ。これは空き家ですので」
月華はしばらく老人を凝視したが嘘を言っているようには見えなかった。
雪柊と白檀の顔を交互に見るが、ふたりとも意味がわからないと首を傾げるばかりだった。
「このまま燃やし続けるつもりか」
「まあ、そうですな。燃え尽きればそのうち火も消えましょう」
不要になったからとて、こんな夜中にするようなことだろうか。
もっと他に理由があるのではないか、そう考えた月華がさらに老人に詰め寄ろうとした時、それまで口を閉ざしていた白檀が珍しく語気を荒げて言った。
「今すぐ消しなさい」
白檀は燃える火だるまを指さした。
眉は見たことがないほどつり上がっている。
「おい、白檀。人はいないというからもうこれ以上関わっても——」
「月華、これで済むわけがありませんよ」
真剣そのものの白檀はいつもの人を食ったような彼とは別人のように見えた。
すると彼は老人の腕を強く掴み、口早に言った。
「あなたたち、馬鹿なのですか。火は風に乗って移動するものなのですよ?」
「…………」
「ひとたび風が吹けばこの火の粉は他の家に火をつける元になるのがわからないのですか。燃え尽きて自然に沈静化するまで風が吹かない保証がどこにありますか!」
白檀の剣幕に気圧されていた男たちのうち、1番に我を取り戻した柑太郎が駆け出した。
「た、大変だぁ! おれたちの家も燃えちまうかもしれねぇ」
柑太郎に続き、桑次も舌打ちをしながら自宅から桶を持ち出すと川に水を汲みに行った。
あれよあれよといううちに何人かがその後に続く。
白檀は振り返ると叫んだ。
「雪柊、何をぼうっとしているのですか。あなたも手伝いなさい」
いつになく厳しい口調の白檀に背筋を伸ばした雪柊は水を汲みに行った男たちの後を追った。
そして白檀は掴んでいた老人の腕を離すと着物の袖をまくりながら月華を睨みつけた。
「何をぼさっとしているのです、月華」
「……は?」
「……は? じゃありません。この状況であなた、まさか手伝わないつもりですか?」
ここへ様子を見に来たのは百合や棗芽がいるかもしれない、火事は彼らと関係があるのかもしれないと思えばこそだったはずである。
辺りの様子を見れば、老人だけでなく他の男たちもこの集落の関係者のようだ。
懸念した百合や棗芽の姿は見えない。
つまり月華たちには何の関係もない事件がただ近くで起こっていただけだったということになる。
月華が白檀に反論しようとしたところ、桶に汲んだ水をわずかに零しながら戻ってきた柑太郎が叫んだ。
「こんなことになるなら、あの人たちのことは放っておけばよかったっ」
柑太郎が桶の水をすべて燃える家にかけたが、何に足しにもならないことは明白だった。
再び水を汲みに行こうとする柑太郎の腕を月華が掴む。
「おい、あの人たちとは誰のことだ」
「し、知らねぇよ」
怯える柑太郎に月華はさらに詰め寄る。
「では放っておけばよかった、とはどういう意味だ」
「こ、言葉のとおりさ。変な武士の男と連れの女が数刻前までいたんだ、あの家に。でも今はいねぇよ」
「変な武士と連れの女だと?」
「そうさ。よくわからねぇけど突然やって来てこの家で休んでたはずなのに、忽然と消えたんだ」
「消えたとはどういうことだ。この火事と関係あるのか!?」
「お、おれは何も知らねぇよ! 離してくれっ」
月華の腕を振り払い、柑太郎は逃げるように駆け出した。
その背中を月華は呆然と見送った。
変な武士とは百合を連れ去った男のことだろうか。
今はもういないようである。
忽然と消えた、という言葉が引っかかったが白檀は月華に考える猶予を与えなかった。
「月華、とっとと働きなさい」
誰よりも率先して手伝う白檀の頬は煤に汚れていた。
その姿を見せつけられては、見て見ぬ振りはできない。
この後、夜明け近くまで火消しのために体力を消耗するはめになったのは言うまでもなかった。