第14話 犬猿の仲
葉月初頭の真夏といえども、真夜中ともなれば気温は下がる。
虫の声とともにざわめく草木の涼しげな音がむしろ肌寒く感じさせるくらいだった。
そんな中を1頭の馬がまるで暴走馬の如く山陽道を駆け抜ける。
馬を駆って一目散に西を目指すのは目の前で最愛の妻を連れ去られ、兄と慕っている北条棗芽の手によって不条理にも足止めを食らい遅れをとった九条月華であった。
深夜のうちに京を出た月華は六波羅で馬と刀を借りて飛び出した。
朔月の夜ではほとんどわからないが明るい場所に出れば九条家の血縁とわかる赤茶色の長い髪を靡かせ、鬼の形相をしている。
月華を追うように同じく馬を借りた紅蓮寺の住職、雪柊は慌てて後を追いかけた。
さらに1歩遅れてこれまた同じく六波羅で馬を借りた備中国の武士、山吹が風雅の君こと白椎皇子を後ろに乗せて月華の後を追う。
明かりの乏しい夜に爆走する月華にやっとの思いで追いついた雪柊は愛弟子の斜め後ろから声を張り上げた。
「月華っ! そんなに急いでは馬がだめになってしまうよ」
「百合のところまで持てばいいのでそれでも構いません」
「だが行先は備中国だろう? 道はわかっているのかい」
「1度近くまで行ったことがありますからだいたい道はわかります。それに明るくなってくればもっとわかりやすくなりますから問題ありません」
「君、夜通し走るつもりなのかい」
「当り前じゃありませんか。こうしている間にも百合がどんな目にあっているかわからないのに、休んでいられるわけがありません」
「百合が輪廻の華だと知っていて連れて行ったんだろうから命の危険はないと山吹殿も言っていただろう?」
「あの者の言うことを信じるのですか? 命の危険がないからって何もされないとは限りません」
冷たく言い放つと月華は馬の腹を蹴り、さらに速度を上げた。
雪柊もそれに倣ったが内心では、このままだと朝まで馬は持つまいと思っていた。
恋は盲目とはよく言ったもので、今の月華は何を言っても梨の礫だ。
百合を取り戻すこと以外に物ごとの分別がつかない状態になっている。
百合と出逢う前の月華であればこんなことはなかったことだろう。
人一倍正義感の強い月華のことだから、目の前で理不尽に人が攫われたとあればお節介にもその奪還に一役買って出たことは疑いようもないが、ここまで一心不乱になってしまうとあっては雪柊にはもはや月華が別人のように見える。
雪柊はふとかつての自分もそうだったのだろうか、と思った。
妻を守るために家族も仕事もすべてを捨てたことを後悔はしていないが、当時は他の方法を模索することは考えもしなかった。
まさに今の月華と同様に方法はこれしかないと決めつけて行動を起こした。
もっと誰かの助けを請えば、妻子を失うこともなかったのかもしれない。
かつて突然妻子の墓石の前に久方ぶりに現れた白椎が、
——私が京にいたならこんな結末にはしなかった。
そう言ってくれたことを思い出す。
妻と逃れたあの頃、仮に白椎が京にいたとしても畏れ多くも彼の手を借りることはなかっただろうが、同じように手を差し伸べようと思ってくれていた人はいたのかもしれない。
雪柊は改めて前方を駆ける月華の背中を見た。
自分と同じ末路を辿らせはしない。
自分と同じ過ちを犯させてはならない。
そう雪柊は思った。
一方、遅ればせながら暴走する月華たちを追って六波羅を出たふたり組——今は茶人の白檀と名乗っている白椎と山吹は別段、前のふたりに必死で追いつくつもりもないようで自分たちなりの速度で西へ向かっている。
「白檀様、少し休まなくて大丈夫ですか」
山吹の声掛けに白檀は瞠目して答えた。
「どうしてですか? 私なら大丈夫です」
「あなたは大丈夫じゃなくても大丈夫と答えるから心配してるんですっ」
山吹は後ろの白檀に向かって言い放った。
「そんなに無理しているように見えますか」
「あなたは俺の後ろにいるんですから見えているわけがないでしょうがっ」
「あまり怒ると体に良くないですよ、山吹。先はまだ長い。今からそんなに疲れてどうするのですか」
「はぁ……あなたの相手をしているのが1番疲れるんですけどね」
小さく肩を落とす山吹に白檀は努めて明るく言った。
「何か言いましたか?」
「……いいえ、何でもありません」
いつもどおりのやり取りではあるが山吹は盛大なため息をついた。
なぜこんなに平然と会話をしているのだろう。
山吹はつい何日か前のことを思い出した。
三公に輪廻の華を捕えるように命じられ、妾にされそうになっている妹を守るために捕らえた輪廻の華を妹尾敦盛の妾として差し出そうと決意した夜のことである。
輪廻の華が九条月華の妻になったことを知っているにも関わらず、彼女を別の男の妾として差し出そうとした。
そんな人の道に外れることを決意した時点で、もう2度と正面から白檀の顔を見ることはないと思っていた。
のらりくらりしていても先帝に見捨てられた皇子は確固たる自身の義に従って考え行動している。
それを長年、1番近くで見てきた山吹は彼が人の道に外れたことを嫌っているとよく理解していた。
だからこそ妾にされそうになった妹の紅葉をこっそり紅蓮寺に逃がしてくれたのである。
山吹が輪廻の華を利用しようとしていたことは白檀が最も嫌うことであったはずなのに、彼は非難するどころか自分が至らなかったと頭を下げたのだった。
こんなことをされては山吹の行き場がなかったのは言うまでもない。
穴があったら入りたいどころの話ではなかった。
むしろ月華や雪柊に責め立てられた時の方が、気が楽だった。
責められて当然のことをした自覚があるからである。
本来なら元どおりになるはずはないふたりの関係は、以前と何も変わっていない。
山吹にはそれが心苦しいところではあったが、起こしてしまったことはなかったことにはできない。
あとはいかに挽回できるかである。
山吹は不甲斐ない自分を再認識しながらも、最期まで白檀に仕えようと改めて心に誓った。
少しずつ月華たちに近づけるように速度を上げながらしばらく駆けているとおもむろに白檀が背中から声を掛けてきた。
「今どのあたりなのでしょうね。備中の国境に近いように感じますが……ところで前のふたりは備中までの道を知っているのでしょうね」
「は……?」
「だって本来なら私たちが先頭を行かなければならないはずなのに、彼らが先を行くのは道理に合っていないと思いませんか。もしかして道もわからず闇雲に走っているのでは?」
「まさか、それはないでしょう。雪柊殿は白檀様を備中国の入口までお送りしたと聞きます。道はご存じなのでは?」
「そんな昔のこと、覚えているわけはありません。山吹、ふたりに少し近づいてもらえませんか」
山吹は白檀に言われたとおり、馬の腹を蹴ってさらに速度を上げた。
だいぶ先に見えていたと思っていたが、距離はみるみるうちに縮まっていく。
「すぐに追いつけそうですね」
山吹の背中から顔をひょっこりと出して白檀が言った。
確かにほとんど見えないほど先にいたはずのふたりがあっという間に姿を捉えられるのは少し不自然である。
「ずいぶんと無茶をしたようですね」
「どういうことですか? 白檀様」
「簡単なことです。あんなに勢いよく走り出しては、馬はすぐにへばってしまいますよ。長距離を走りたいのなら一定の速度で休みながら行った方がいい。途中で馬を乗り継げるのなら問題ないでしょうが、ここは彼らにとって敵地なのですから替えの馬を用意するのは難しいでしょうね」
「確かに——」
「強制的に休息が必要だと思います、馬にとってはね」
山吹と白檀が呑気な会話をしているうちに前のふたりに追いついた彼らは並走する月華たちの後ろについた。
「月華、雪柊、ずいぶんと先を急いでいるようですが道はわかっているのでしょうね?」
白檀の唐突な言葉に、山吹は目を剝いた。
作為なくして人の感情を逆なでることに関して、白檀には天賦の才能がある。
妻を連れ去られただでさえ気が立っていると思われる月華に対し、白檀の言葉は最大の効力を発揮した。
「急いでいるに決まってるだろう!?」
月華はまっすぐ前を見たまま苛立たしげに言った。
いつもなら白檀に対して悪態をつく月華に食ってかかる山吹も、さすがにその原因の一端を担った責任を感じて黙っていた。
「気持ちはわかりますが、急いてはことを仕損じますよ」
月華は今にも襲い掛かろうかという厳しい視線を白檀に送ったが、刀を抜かなかっただけまだ冷静さを失っていないらしい。
そんな激高する月華を呑気な雪柊の声が制した。
「月華、気持ちはわかるけど白椎様が言われることにも一理ある。少し馬を休ませた方がいいかもしれないね」
「休む!?」
「だって君の馬も私の馬もすっかり疲れ切っているじゃないか。速度が落ちてきていることに気がついているんだろう?」
「ですがそんな悠長なことを言っている場合ではありません。こうしている間にも百合がどんな扱いを受けているかわからないのに、休めと言うのですか」
「輪廻の華として百合の異能を必要としているのなら、彼女の安全は保障されるだろう。異能は彼女の意思でしか発動できなんだから、無事でなければあちらさんにとっても意味がない」
「そうですよ」
場の空気を読まずに同調した白檀を月華と雪柊は同時に睨んだのだった。