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第12話 兄の形見

「こめかみじゃなければいいのですか」

 棗芽なつめの大きな手のひらに片頬の全体を包まれ見つめられた紅葉くれはの鼓動は最高潮に高まった。

 彼は一体どういうつもりで言っているのだろう。

 川で足を滑らせたせいで放っておくとついて来られないかもしれないと思って手を繋いでくれたのは嬉しかった。

 棗芽と一緒にいると安心できるし、繋いだ手から彼のぬくもりを感じられたからだ。

 休む場所を借りるために集落の人たちに取り入ろうとしていたところまでは理解できた。

 しかし夫婦のふりをする必要はあったのだろうか。

 兄妹でも通用したかもしれないし友人でも通用したかもしれないのに、なぜ夫婦という設定を選択したのか……。

 その上、演出とはいえこめかみに口づけてきたり、急に抱き上げてみたりと棗芽の行動は終始理解できなかったが、彼の行動のひとつひとつが紅葉の胸を締めつけた。

(彼は無理やりついて来たあたしを守るためにこんなことをしているだけ。これはあたしに好意があるからじゃない……)

 古い空き家から案内の男が去って土間に下ろされた時、紅葉はふつふつと怒りを感じた。

 好意がないのなら、振り回すような行動を取るのは止めてほしい。

 でなければこちらの身が持たない。

 棗芽の無神経な行動ひとつひとつに翻弄されている。

 そう考えると紅葉は無性に腹が立って、すべての怒りを棗芽にぶつけていた。

 それなのに、まっすぐに見つめてくる棗芽の瞳にうっすらと自分が映っているのを見たら、自然と怒りが収まっていった。

「紅葉、もう1度言います。こめかみじゃなければいいのですか」

「……どういう意味?」

「言葉のままです。前にも言ったかもしれないが、私は忖度するのは苦手です。言ったことに他意はありませんから、そのまま受け取ってください」

「い、い、い」

「いいい?」

「い、いいわけないでしょ!?」

 紅葉は恥ずかしさのあまり頬に当てられた棗芽の手を振り払い、勢いよく立ち上がると憤然として彼の隣に腰を下ろした。

 向かい合ってまともに目を合わせていることができなかった。

「冗談ですよ、そんなに怒ることはないでしょうに」

「…………」

 冗談、と言われ紅葉は少し悲しい気持ちになった。

 何を期待しているのだろう。

 冗談ではなく本気だったら嬉しいのだろうか。

 いや、そんなはずはない。

(もうこれ以上、考えるのはやめることにしよう……)

 紅葉は自分の心の声に蓋をすることにした。

 ふたりはしばらく無言で過ごした。

 なぜか棗芽の隣にいることで身の安全を保障されているような気がして無防備になる。

 そのうちにうとうととしてきて体が傾きかけた時、紅葉の肩と棗芽の肩が触れ合った。

 驚いて目を見開いた紅葉は体を起こし棗芽の様子を窺った。

 彼は目を閉じていた。

 眠っているようにも見える。

(きれいな顔……)

 改めてまじまじと見ると、棗芽は整った顔をしている。

 それにふと隣に視線を移すと立て掛けた太刀が目に入った。

 武士の魂とも言うべき刀を紅葉の手の届くところへ置いている。

 こんなに緊張感のない姿をさらしているということは、少しは心を開いてくれているということだろうか。

 紅葉はそんなことを思いながらも、ふと本来の目的を思い出した。

 輪廻の華を取り戻さなければならない。

 実のところ、紅葉は輪廻の華のことをよく知らない。

 これまでは三公や命の恩人である白檀びゃくだんに命じられるままに動いてきたが、棗芽が白檀を妹尾家せのおけから連れ出してくれたおかげで三公の言いなりにならなくて済む。

 命の恩人である白檀が輪廻の華に逢いたがっているというのだから、紅葉は自らの意思でそれを成し遂げたいと思っている。

 こんなところで油を売っている場合ではない。

 妹尾家の邸から白檀を連れ出したのだから、中に入り込むことは造作もないことだと棗芽は言い切ったが、そんなに簡単なことではない。

 白檀の時はたまたまことなきを得ただけであり、妹尾家には手練れが多数いる。

 輪廻の華が邸の中に取り込まれてしまえば、連れ出すことは容易ではないはずである。

 馬で去っていった敦盛あつもりたちには簡単に追いつけないとはいえ、こんなにのんびりとしていていいのだろうか。

 一刻も早く辿り着き、相手が体制を整える前に邸へ入れなければ実現は難しいのではないだろうか。

 紅葉は音を立てないように立ち上がろうとした。

(あたしだけでも先に——)

 その時、寝ているはずの棗芽の手がすっと伸びて来て紅葉の腕を掴んだ。

「……どこへ行く」

 振り返ると棗芽の鋭い眼光が紅葉を射貫いていた。

「お、起きてたの?」

「今、目が覚めた」

「今?」

「君が動く気配がした。そんなことよりどこへ行くつもりだ」

「ど、どこって妹尾家の邸に決まってるじゃない。早く行かなきゃ。輪廻の華を取り戻さないといけないんでしょ?」

「ここを出るのは夜が明けてからだと言ったはずだ。まだ夜は明けていない」

「でも……妹尾家は、特に三公はそんなに甘くないわ。喉から手が出るほど欲しがっていた輪廻の華を手に入れたら簡単に手放すことはしない。敦盛様たちが体制を整える前に邸の中へ乗り込んで行かなきゃ無理よ。こんな悠長に休んでる場合じゃ——」

 紅葉が反論すると掴まれた手を強く引かれ、元の場所に強制的に戻された。

「いいからここにいろ。私から離れるな」

 命令口調の棗芽に憤然とした紅葉だったが、仕方がなく彼に従うことにした。



 再び目を閉じた棗芽はじっと考えていた。

 何かがおかしい。

 この集落へやって来た時からその違和感を拭うことができないでいる。

 真夜中にも関わらず腰の曲がった老人の出迎え。

 何人もの男たちが現れ、相談する様子。

 馬小屋はあるのに馬がいない不自然さ。

 誰もいないこの茅葺き屋根の空き家。

 棗芽は珍しく一抹の不安を抱えていた。

 戦場で命を賭けている時でもこんな感覚を持ったことはない。

 自分ひとりなら朽ち果てようと何の問題もないが、今は絶対に紅葉を危険に晒してはならないという責務を抱えている。

 彼女を最後まで守る、と自分にそう誓ったからこそ棗芽は彼女を備中びっちゅうへ向かう旅に同行させたのである。

 それなのに、危険な臭いのするこの場所に紅葉を置いていていいのだろうか。

 そんなことを考えていると紅葉がおもむろに口を開いた。

「ねぇ棗芽。ひとつ訊いてもいい?」

 目を開け、隣に座する紅葉に視線を移すと遠慮がちに上目遣いで言う彼女と目が合った。

「何ですか」

「あなたはどうしてその刀で人を斬らないの?」

 立て掛けてある太刀を指さしながら紅葉は不思議そうに言った。

 なぜ気にしているのか棗芽にはわからなかったが、別段隠すようなことでもないので正直に答えた。

「ああ、これですか? これは……振れば簡単に人を斬れる代物ですが、人を斬るために持ち歩いているわけではないんです」

「…………?」

「これは、私の兄の形見なのですよ」

「お兄さんの形見?」

「私は5人兄弟の末弟で、上には4人の兄がいます……いや正確には4人の兄がいました。今はふたりしかいないが」

「どういうこと?」

「3番目の兄と4番目の兄はすでに他界しています。この刀はその亡くなった3番目の兄の形見なのですよ」

 家族の話を他人とするのは何年ぶりのことだろうか。

 日頃あまり身の上話をすることがない棗芽だったが、なぜか紅葉にはごまかしたり濁したりする気にはなれない。

 ここから先、何が待ち受けているかわからないから彼女とゆっくり話ができるのはこれが最後になるかもしれない思いもあった。

 何より彼女には自分のことを知ってもらいたいという欲求もある。

「かつての私は幕臣として数々の戦に出向いていました。それこそ元服する前から戦場に連れ出され、何度も死に目に合ってきたのです。その度に救ってくれたのが同じ幕臣として戦場を駆けていた3番目の兄でした。でも、ある戦でその兄は敵将に打たれてしまったのです」

「…………」

 悲痛な表情を浮かべる紅葉の頭を苦笑しながらなでると棗芽は続けた。

「君がそんな悲しそうな顔をする必要はありません。戦場とはそういうところです。力が及ばなければ討ち死にする。そんな亡くなった兄が使っていたのがこの刀でした。目の前で兄を斬られた私は、その兄の死を見届けた後、この刀を持って幕府を去りました」

「どうして?」

「戦場にいるのはもううんざりでした。たくさんの命を奪い、近しい者たちも何人も討ち死にした。そんなことを繰り返していることに辟易したのです。だから私はこの刀をお守りに持ち歩き放浪の旅に出た。幸い、1番上の兄——君も知っているかもしれませんが、鬼灯きとうという、今はみやこにいる兄が私の意志を尊重してくれたので」

 棗芽は昔懐かしい景色を見るようにその手に太刀を握った。

 鞘から少し抜くと磨き上げられた刀身が姿を見せる。

 かつてこの太刀には何度も命を救われた。

 だから棗芽は人を斬る時ではなく人を助ける時にしか抜かないと決めている。

 それが亡くなった兄への手向けだと思っている。

「そうなんだ……だから雪柊せっしゅう様はあなたのことを幕臣ではないって言ってたのね」

「今は違いますが、かつてはそうだったわけですから幕府と無関係だとは言えませんね。幕臣であった頃はまだ右も左もわからない月華つきはなを戦場でずいぶん鍛えたものです。だから弟のようにかわいい。どうしますか、紅葉。こんなに幕府と近しい私のことは信用できませんか」

 棗芽が悪戯っぽく微笑みながら紅葉の顔を覗き込むと、彼女は真剣な顔で首を振った。

「いいえ。あなたはあたしのことも、あたしの大切な家族も助けてくれた。だからあなたが幕臣であろうとなかろうと、そんなことはもうどうでもいいの。あなたはあたしたちの敵じゃない。それだけは十分にわかったつもりよ」

 それほど大それたことをした自覚はなかったが、命を捧げたいと思うほどに慕っている白檀びゃくだんを備中から連れ出し、双子の兄である山吹やまぶきの危機を救ったことをたいそう恩義に感じてくれているらしい。

 図らずも彼らを救ったことが紅葉の信用を得る足掛かりになったわけだが、きっかけはどうあれ棗芽は素直に嬉しいと思った。

 不審に思っていた相手に対する感情がひっくり返るには、やはりそれ相応の何かがなければ人心は動かない。

 最後まで棗芽たちのことを訝しんでいたここの農民たちはさぞ突然の来訪者を不審に思っていることだろう。

 金子きんすを受け取ったから渋々空き家へ案内してくれたのだろうが、自分たちに害を成すかもしれない不安を拭いきれなかったとしたら、大人しくひと晩泊めるだろうか。

 そう考えた時、棗芽の脳裏に恐ろしい映像が浮かんできた。

 昔から戦場でもよくこういったことがあった。

 人には勘が鋭いなどと評されたものだが、実際はそうではない。

 あらゆる可能性を考えているうちに、ひとつずつ皮をむくように可能性を消していっているに過ぎない。

 そうして残された可能性は他の誰も気に留めていないようなものだったりする。

 棗芽はおもむろに立ち上がるとその手に握っていた太刀を背中に背負ってまだ腰掛けたままの紅葉へ手を差し伸べた。

「紅葉。残念ですが休憩は終わりです。こんな予定ではなかったがすぐにここを出ましょう」

「……え? 明るくなってから動くんじゃなかったの?」

「ええ、そのつもりでしたが状況が変わりました——その前に、少し手伝ってもらえませんか」

 動くなと言ったり、すぐにここを発つと言ったり、言い分がころころと変わる棗芽に対し紅葉が唖然としていたのは言うまでもなかった。

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