第7章 あなたと、あなたが愛するこの土地を守りたい
シェリーとカイの研究は、目覚ましい進展を遂げていた。空気から純酸素を抽出する技術はついに実用化の域に達し、近隣の大病院と正式な契約を交わすまでになった。その成果によって、多くの命を救う可能性が広がり、彼女は初めて魔法と科学の融合が社会に与える影響を実感していた。
同時に、窒素肥料の生産も見込みが立ち、大規模化へと舵を切った。普及に向け地域の農業組合が実証実験の計画に手を挙げてくれていた。さらには、エンジンを利用した農業用機械の開発に向けた共同研究も進み、研究所の敷地には少しずつ新たな試作品が増えていた。
平穏な日々が続き、研究成果が人々の生活に貢献している実感が二人の心に満ちる中、その静けさを破る知らせが舞い込んだ。
「火の魔人バルロスが人類に宣戦布告した」
その報せは突然だった。彼は魔王の力を一部取り込み、以前よりもさらに強大化しているという。最初に襲撃された村はあっという間に壊滅し、バルロスはそこを拠点にしているとのことだった。さらに報告によれば、資源を求めて次々と村を襲い、その道筋はシェリーとカイの住む街へと迫っていた。
市民の恐怖は膨れ上がり、避難の準備が急がれる中、研究室のシェリーの元に軍からの使者がやって来た。氷魔法を馬鹿にすることが得意な、見知った男だった。
「旅団の到着まで時間稼ぎをお願いします。」
使者が伝えた軍の要請は、それだけだった。しかし、その内容はあまりにも非情だった。
「バルロスに接近でき且つ攻撃が可能なのは氷魔法使いだけです。この地域でそれを使えるのはあなたしかいない。あなたは孤児です。退役軍人だからといって、断れるとは思わないでください。」
使者は冷たく言い放った。そしてさらに追い討ちをかけるようにこう続ける。
「氷魔法使いなんて、所詮、戦争で敵を殺す以外に使い道はないでしょう?退役したとはいえ、せいぜい役に立ってください。」
その言葉にカイの怒りが爆発した。
「ふざけるな!都合よく退役させておいて、また都合よく利用しようっていうのか!氷魔法のこと、シェリーのことを何もしらない奴が、なんて口を聞く!」
カイは使者を鋭く睨みつけた。彼の弟ルーカスも、怯えながらもシェリーに訴えかける。
「シェリーさん、行かないでしょう......?研究だって、まだまだこれからなんです!」
シェリーは二人を見つめ、そして黙って自分の手元に目を落とした。そして、自分の中にある思いを一つ一つ整理していく。
ーーー戦争中、シェリーにとって氷魔法は生き物を傷つける方法でしかなかった。自分を押し殺し、心を凍らせることで生き延びてきた。戦争が終わり、研究を始めた時も、どこかで自分の魔法は本当は生き物を傷つける力だと思い込んでいた。
しかし、カイと共に研究を進める中で、魔法が持つ別の可能性を知った。純酸素を届けたルーカスの笑顔、窒素肥料を待つ農民たちの期待。それは、自分の力が人々の役に立ち、喜ばれる瞬間だった。
そして何より、使者の暴言にシェリーの代わりに怒ってくれたカイの姿を見て、シェリーはいつの間にか、彼に対して抱いていた、共同研究者以上の気持ちを自覚せざるを得なかった。カイを……カイを守るためならば、また敵と戦うことができる。シェリーはそう思った。
「私の氷魔法が敵を殺すだけのものでないとわかったのは、あなたたちのおかげ。」
シェリーは穏やかな口調で、カイとルーカスに言った。
「今度は私の力を喜んでくれた人たちを守るために、魔法とこの命を使いたい。それが、今の私にできることだから。」
カイはその言葉に黙り込んだ。ルーカスはなおもシェリーを止めようとしたが、シェリーはただ優しく微笑んでいるだけだった。そして彼女は決然と使者に向き直り、言った。
「その任務、引き受けます。」
その言葉を聞いたカイは、拳を握りしめたまま、何も言えなかった。
作戦決行日が訪れた。シェリーは再び軍装に袖を通し、装備を整えた。かつて心を凍らせて戦場に赴いた時とは異なり、今の彼女には新たな決意が宿っていた。
出発の朝、門前でカイが待っていた。緊張の漂う沈黙の中、シェリーは困ったような、迷子のような顔で言った。
「ねえ、最期にキスしてほしい。」
その言葉に込められた震えの意味を、カイは見逃さなかった。
「ふざけるな……!」
そう言いながら彼はシェリーを力強く抱きしめた。
「死ぬ覚悟なんてするんじゃない......!帰ってきたら何度でもしてやる。だから......帰ってこい。」
彼の声は怒りと不安、そして深い愛情が入り混じっていた。シェリーは涙をこぼしそうになりながら、「今までありがとう」とだけ呟いた。そして振り返ることなく、バルロスの待つ戦場へと歩みを進めた。
カイは、去りゆく彼女の背中を見つめながら、ただ一つだけ心の中で叫んでいた。
「絶対に……帰ってこい……」
彼の祈りにも似た言葉は、吹き始めた冷たい風に乗って、どこか遠くへと消えていった。