第4章 君を信じよう
その日、シェリーはいつものように実験施設の使用申請をしにカイの館を訪れた。彼女の研究は順調で、エンジンの改良や酸素や窒素の空気からの分留が進んでいた。この日も新たな装置のテストをする予定だったが、なかなか現れないカイの代わりに現れた使用人から信じられない話を聞かされる。
「申し訳ありませんが、しばらく研究施設の使用はできないとのご伝言です。カイ様が弟君の治療に専念されていて……」
「弟さん?」
聞き返したシェリーの記憶に、退役前に確認したカイの軍時代のプロフィールが蘇った。「病弱な弟の代わりに軍役に従事」――。
おそらく、その弟さんの容態が悪化したのだろう。これ以上深入りするのは失礼だと思った彼女はそっと館を後にしようとした。しかし、その瞬間、実験室の扉が開き、中からカイが姿を現した。
カイは疲労の色濃い顔をしており、目の下には隈がくっきりと浮かび上がっていた。彼の整った顔立ちが今はひどく弱々しく見える。
「カイ……?」
その声にカイが顔を上げ、彼女の存在に気づく。しばらく呆然とした後、彼は小さく頭を振るようにして近づいてきた。
「……『氷の魔女』...いや、シェリー。弟が……息ができない、苦しいと……なんとかできる方法を知らないか?お前の氷魔法で……いや、なんでもいい。助けられるかもしれない方法は.....」
その声はひどくかすれ、普段の冷静で自信に満ちた彼とは別人のようだった。
カイの必死な訴えに、シェリーの脳裏にいくつかの可能性が浮かぶ。彼女はカイの言葉を整理し、症状を想像する。若い男性で、呼吸困難――可能性が高いのは、喘息発作だ。
そうでなくとも、呼吸困難感解消のための策はすぐに思い浮かんだ。最近、自宅で研究していた「液体空気」から酸素を分離する実験の成果物だ。それを利用すれば、少なくとも症状を一時的に和らげることができるかもしれない。
「……待ってて。すぐに戻るから。」
そう言うと、シェリーは館を飛び出し、自宅に向かった。
数十分後、シェリーは連れ出した使用人を伴って戻ってきた。手には大きな金属のボンベがあり、カイはそれを見て不思議そうな顔をした。
「これは……なんだ?」
「空気を低温で液化してから分留した酸素。これを使えば、弟さんの呼吸を助けられる...はず。」
シェリーはそう言ってカイの目を真っ直ぐに見た。
「投与用のチューブとマスクを準備して。それがあれば、酸素を人体に供給できる。」
「酸素......聞いたことがないが、本当に大丈夫なのか……?」
カイの声には疑念がにじんでいた。弟の命がかかっている状況で、確信のない方法に頼るのは怖い。
しかしシェリーは、一歩も引かなかった。
「心配なら、私がまず吸って試す。毒ではないと、それで納得して。」
その言葉に、カイはしばらくの間何も言えなかった。彼女の真剣な表情を見て、とうとう小さく頷いた。
「……わかった。君を信じよう。」
準備が整い、シェリーは自らボンベとチューブをつなぎ、圧を調節してからマスクを装着して深く息を吸い込んだ。しばらく時間が経っても何も起こらないことを示し、カイに向かって控えめに微笑む。
「ね、大丈夫でしょう?」
その姿を見たカイは、少しの迷いを残しつつも、弟のそばに向かい、シェリーから受け取った酸素マスクを慎重に装着した。弟の顔は苦しげで青白かったが、やがて肩の上下が小さくなり、呼吸が落ち着きを取り戻していった。
「……息が、楽になってる……」
カイは安堵の表情で弟を見つめ、肩の力を抜いた。
カイは安定した弟の寝室を離れ、実験室で待つシェリーを訪れる。
「ありがとう、シェリー。本当に感謝する。君の力がなかったら、弟は……」
カイが深々と頭を下げて感謝を述べると、シェリーはぽかんとした顔をしたまま、その場に立ち尽くしていた。
しばらくの沈黙の後、次第にシェリーの目元が赤く染まり、涙が滲み出てくる。
「おい、どうした?」
カイは戸惑いながら尋ねたが、シェリーは震えた声で答える。
「……わからない。でも……私の力が、人を助けることができた。それが嬉しい……のかもしれない。」
その言葉に、カイは言葉を失った。軍にいた頃のシェリーの無機質で感情を表さない姿が頭をよぎる。彼女がどれだけ軍役に心を蝕まれてきたか、その一端が垣間見えるようだった。
「よくやったよ。もう大丈夫だ。」
そう言いながら、カイはそっとシェリーの肩を抱き寄せた。彼女が落ち着くまで、ずっとそのままにしておいた。
数日後、弟の容態が安定したカイは、シェリーと改めて研究について話し合った。
「今回の酸素の方法、氷魔法なしで実現できる可能性を考えたい。君の力がなくても、人を救える方法にしたいんだ。」
「そうね。それに、空気から取り出した窒素を使った肥料の開発も、そろそろ進めたい。窒素をアンモニアにするには、低温より高温が必要なの。」
シェリーも穏やかに答える。
二人はこれからの研究方針を決め、お互いの得意分野を活かしながら協力することで合意した。研究を通じて交わされる活発な議論の中で、二人の間には信頼だけでなく、かすかな感情の芽生えが広がり始めていた――。
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